https://www.medicalherb.or.jp/archives/162237 【ハーブ療法の母・聖ヒルデガルトの自然学(1)】より
聖ヒルデガルトの生涯
ヒルデガルトフォーラム・ジャパン副代表
長谷川弘江
はじめに
アロマやハーブのテキストにも紹介され、自然療法の母といわれたヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、マルチクリエイターです。女性が本を書くことや勉強することが許されない時代に初めて教皇に認められ、治療法や哲学書でもある『道を知れ』という古文書を書き残します。また、最古の歌劇ではないかともいわれるオペラOrdo virtutum 『諸徳目の秩序』(徳のいざない)は、説教中に演じられたとか。
彼女の知恵は、石やハーブ、歌うことなど身近にあるものを用いたシンプルな癒しの方法です。また治療学は生活習慣と食生活、そして、自然と人間の4大元素との調和であり、それを実現するためにハーブと宝石の力(=ウィリデタス Viriditas)を用い、人間本来の自然治癒力を生かそうというものです。聖ヒルデガルトにとって「生命力」とは「緑の力」であり、共にラテン語では「ウィリデタス」Viriditasと書きました。
この概念は、人間も含めた自然界がもつ新鮮さや若々しさ、活力のことばかりでなく、人間の魂の生命力や徳と結びつけました。自然療法士が国家資格であるドイツでは、ヒルデガルト療法の治療院や、ヒルデガルトメニューのあるビオレストラン・ホテル(常備品や提供する食事のものが全てオーガニック、もしくはバイオダイナミック農法[人智学のシュタィナーによって提唱された有機農法]のものを使用)があります。
ヒルデガルト式断食の会が、春イースターの前に10日間開催され、その後のQOL(生活の質)も自然に心安らぎ、五感を生かし、愛や知恵に気がつくことができるとの評判です。ヨーロッパに初めて「ラベンダー」Lavandulaという言葉と共にその優れた薬効を紹介したのも彼女です。彼女の軌跡と知恵をこれからご紹介していきたいと思います。
中世ドイツの修道女
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
Hildegard von Bingen
1098~1179年9月17日
女子修道院長、神秘家、
作曲家、哲学者、治療家。
1098年 地方貴族の第10子として生まれる。虚弱で人に見えないものが見えた
1106年 8歳 結婚しないことと修道院に入ることを決意している。ユッタのもとに
1112年 12歳 ユッタと共にディジボーデンベルク修道院の女子庵に
1136年 38歳 ユッタが亡くなり女子修道院長に。幻視を見るように
1141年 42歳 啓示を受け『道を知れ』を執筆開始
1148年 49歳 ローマ教皇に認められ女性として執筆を許可される。作曲・作詞も開始
1150年 51歳 Rupertsbergに女子修道院を建設。困難を極める。1151年5月1日再建。10年かけて執筆も開始
1154年 55歳 皇帝バルバロッサに謁見、1163年に保護の勅令を拝受
1158~1171年 マインツやケルンに説教旅行。当時女性は珍しかった
1179年9月17日 81歳 聖務禁止令の裁判が終わった直後に天に召される
2012年10月 ベネディクト16世がヒルデガルトを史上4人目の女性の教会博士と宣言
聖ヒルデガルトの生涯
1098年(平安末期)、ドイツ王国マインツ司教区ベルマースハイム(Bermersheim)で、地方貴族である父ヒルデベルト(Hildebert)、母メチルト(Mechtild)の10番目の子として生まれます。賢く、鋭い観察力をもちながら、身体は弱く、いつ死んでもおかしくない病気をもつ彼女は、ヴィジョン(幻視)を見ます。
1106年、8歳になった彼女はSponheimのユッタのもとに預けられます。1112年ユッタはヒルデガルトを連れてディジボーデンベルク修道院の女性のためのクラウゼ(庵)に。1113年、正式にベネディクト派修道女に。規律は「祈り、働け」Ora et Labora。朝3時の第1回礼拝、早朝ミサ、あるいはMetten(早課)に始まり、日中は労働と祈りと休息のサイクルで終わります。修道女は毎日7回祈り、自給自足のための庭仕事や畑仕事以外に、自分や修道僧たちの衣類、さらに司教や法王の法衣をも仕立て上げました。ヒルデガルト38歳(1136年)の時、ユッタが亡くなり新しい修道院長に選ばれました。
1141年、42歳と7か月の時に彼女は昼夜を問わずヴィジョンが見え、聞こえたことの全てを書き下ろすようにと、神からの啓示を受けました。修道士フォルマールと、大貴族の娘でラテン語に堪能な修道女リヒアルディス(Richardis von Stade)の助けを借り、『道を知れ(Scivias)』を執筆します。フォルマール修道士はその年から、1173年に亡くなるまで彼女を助けました。彼女は、自らの幻視体験(後の自身の言葉によれば「生ける光の影(umbra viventis lucis)」を初めて公にしました。Clairvaux(クレルボー)のBernard(聖ベルナール)の助けもあり、ローマ教皇エウゲニウス三世は1147~48年のトリーアの教会会議上で彼女のヴィジョンを認めます。教会の歴史上、初めて女性が書くことを許され、それを公にしてもよいと認めます。この頃から、ヒルデガルトは典礼用の宗教曲の作詞・作曲を始め(77曲)、『諸徳目の秩序』(Ordo virtutum)が演じられます。
彼女の名声を聞いて多くの人が修道院に来るように。1150年、ビンゲン近郊のRupertsbergルーペルツブルグに、新しい女子修道院を建て、移ります。皇帝バルバロッサ(赤ひげ王)に謁見し、修道院の保護の勅令を得ました。1150年より、彼女は最初の博物学と治療学の書を著し、自分の修道院の薬局を全ての病人のために開放します。1158~63年、ドイツ王国各地へ説教旅行に出発しました。ヒルデガルトは62歳という高齢であって、度重なる病にもかかわらず多くの民衆に教えを説きました。また1165年、リューデスハイムのアイビンゲン(Eibingen)の修道院長のために再建し、貴族生まれでない女性も修道院に受け入れられるように整えました。当時、ライン川を小舟で渡ることは安全ではありませんでした。ある時、舟の中で盲目の子を連れた母親に出会いました。母親の願いで、ヒルデガルトは手を川の水で湿らせ、盲目の子の目に当て祈りました。すると、その子は再び目が見えるようになった…と伝説は語っています。
81歳、1179年9月17日の夜、日曜日から月曜日にかけて、ビンゲンのルーペルツベルク修道院で亡くなりました。「十字架のような不思議な耀く光が、死の部屋の上の方に現われた」そうです。彼女の骨は、アイビンゲンの巡礼参詣教会のヒルデガルトの聖遺物箱の中で、静かに眠っています。
[著作]
主要三部作、
『道を知れ』Scivias(1141-51)
『生の功徳の書』Liber vitae meritorum(1158-63)
『神のわざの書』De operatione Dei(1163-1173)。
自然科学的・医学的分野においては
『自然学』Physica
『原因と治療』Causes et Cura
ヒルデガルトの「自然学」全九巻(または八)
[音楽]
Ordo virtutum 『諸徳目の秩序』(徳のいざない)1158年頃完成。
『道を知れ』第3部の幻視13 最終章の内容に沿っています。
Symphonia harmoniae celestium revelationum 聖歌集『天からの啓示による協和合唱曲』1140年頃から作られた宗教曲は、現在77曲が2つの写本、デンデルモンド写本(Dendermonde manuscript)、及びリーゼン写本(Riesencodex)に残され、見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=a9Zz9GX-ano
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