https://gejirin.com/src/Ka/kakannonten.html 【カカンノンテン】より
→ 語義
発生・成長・熟成。 またそれらを象徴する行為。
「カカン」 取っかかり。始め。起り。出発。
「ノン」 伸び。栄え。伸展。成長。
「テン」 頂。天。至り。熟成。完成。
神を地に勧請して祭る時には、この「発生・成長・熟成」の過程を象徴する儀式を行ったようだ。
★『延喜式祝詞 大祓詞(おおはらえのことば)』
佐久那太理(さくなだり) に落ちたぎつ速川(はやかは) の瀬に坐(ま) す瀬織津比売(せおりつひめ) と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。如此(かく) 持ち出で往なば、荒塩(あらしほ) の塩の八百道(やおぢ) の八塩道(やしほぢ) の塩の八百会(やほあひ) に坐す速開都比売(はやあきつひめ) と云ふ神、持ち可可呑(かかの) みてむ。如此可可呑みてば、気吹戸(いぶきど) に坐す気吹戸主(いぶきどぬし) と云ふ神、根国 底之国(ねのくに そこのくに) に気吹(いぶ) き放ちてむ。如此気吹(かくいぶ) き放ちてば、根国 底之国に坐す速佐須良比売(はやさすらひめ) と云ふ神、持ち速佐須良比(さすらひ) 失ひてむ。
『かかんなす 春のひとしく 巡り来て 磯の真砂は 岩となる 弥々のんてんの ホツマ文かな』序
『ミソギに民の 調ひて 弥和通る 葦引きの 千五百の生田の 瑞穂 成る』5文
『和の教えに かかんして のんアワ国は てんヤマト』5文
『流離手も ハタレも放来 満つ足らず カカンなすかも 手立尽き 故ノンテンも あに効かず 日月と我は 天下照らすさ』8文
『イクシマと タルシマ四方の 御垣 守り イカスリ内の 鬼遣らひ カカンノンテン 揃ふ時』14文
『ココトムスビが "カカン" なす カスガワカヒコ 実柱を 節継ぎ神座に 'ミ手' 結び アメノミヲヤを 招き 交ふ』14文
『ヲヲモノヌシが "ノン" なして ヨロギミホヒコ 斎餞に 八色和幣の 紙 進む』14文
『ヒトコトヌシが "テン" なして 葛城ヤスヒコ 幣串垂』14文
『またサルタ 昔 授くる サカホコキ 美しき鈴 地生太刀 カカンノンテン 時待ちて 道 現わせよ』28文
『"和つ日月の サカホコギ 美しき鈴 地生太刀 かかんのんてん 時 待ちて 道 現わせ" と 朧げの 物ならず故』36文
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1966887591&owner_id=59876930 【謎の「カカンノンテン」を解読しました…】…より
…『ホツマツタヱ』(姉妹書・ミカサフミ)文書。その猿田彦が言う処の…「美しき鈴、ワイキ立ち、カカンノンテン、トキマチテ(中略)…その主お待つ」(ホツマ・36章)とは、ゲマトリア秘儀数値言語に言う【イサワ】(伊雑宮/1407)の主(カミ代=天照大神)を待つ!!…等と言う意味であるが、その本質は、史実的歴年史に繫がる「タケヒト=神武」を初代王とする物語に転換する為に編み出された文言であった。
…つまり【イサワ】とは、「カカンノンテン・揃う時」(猿田彦の出現・100+1407=1507)として、猿田彦が言う(ホツマ・36章/28章)…「ミモスソノ、サコクシロウチ、アラタメテ、アマテルカミノ、ウチツミヤ」(垂仁天皇26年/在位通歴657年)として計算(660年/サコクシロ)されていたのである。つまり、それは【長髄彦討伐物語】の5年目(戊午/BC3年)として記す…「イサワ・イサワ」(黄金・鵜の鳥の出現)の文言年から「皇歴・在位通歴657年」数値を加算すれば、「サコクシロ=660」(接近法数値/ペシェル技法に起因)と成る。従って、「サコクシロ・内」(伊勢神宮/内宮の意)と言う。
…此の【イサワ】、及び【猿田彦】、【サコクシロ】の文言に秘められたゲマトリア秘儀数値の始点(1万年枠物語数値の始点に当る)は、【ギリシア語訳・聖書】(LXX)の「ノア洪水/昇天年」(2006年)数値を始点としていた。そして、更なる過去値点(1萬+暫定的鈴木歴年847=1萬847/ヨロズ=エロヒムの霊の居住値)へと溯らせ、アダムの生誕年に辿り着く計算を以て、ホツマツタヱとミカサフミ文書は作成されていました。
…画像(写真)は、八尾市の【竹渕(タコチ)神社】の境内です。此処は、タケヒト(神武)が長髄彦の追撃から身を隠した地域です。そして、此の時の年代は、紀元前3年として認識(捕囚解放後/第2神殿が再建された年から536年目)していました。つまり、此の年に対し「八尾(507)の初出年」(紀元前3年)数値を用いてホツマツタヱ文書に明記しているからである。つまり、「クムラン大地震年から29年目」(507+29=536)を意味表す為に造語された数値言語ではあるが、その本質は、レビ族がヤハウエ(YHVH=God)の別称として用いていた【ΙΑΩ】(ヤオ)を意識しての事であった。此れを以て、祖国は古代ユダヤ民族の歴年数に値結び付け、更なる最終的には、その接近法数値(サコクシロ/660)を過去年へと溯れば、【Jerusalem・第2神殿】陥落の翌年(景行天皇・即位元年/AD71年)に結び付けられていたのでありました。その証拠となるのが、【太神宮諸雑事記第一】文書です。
https://www.youtube.com/watch?v=I7rZWm_C7zk
https://www.miyatabi.net/miya/natori/douso.html 【佐倍乃神社】yori
https://www.youtube.com/watch?v=LUlM2r6JElw
佐倍乃神社(道祖神社)概要: 道祖神社(佐倍乃神社)は宮城県名取市愛島笠島字西台に鎮座している神社です。道祖神社(佐倍乃神社)境内にある由緒書きを刻み込んだ石碑によると「佐倍乃神社は、元禄2年5月俳聖松尾芭蕉の「奥の細道」行脚の時、「笠島はいずこ五月のぬかり道」とよんだ句にある名取市愛島笠島に鎮座している神社で、旧社号を笠島道祖神と称しました。
祭神は猿田彦大神と天鈿女命で、景行天皇四十年の日本武尊御東征の時から毎年4月20日を祭日としています。慶長7年野火に遇い、社殿及び古来の宝物、文書等一切焼失しましたが、後柏原天皇の時大永2年10月23日本殿造営されました。
文禄元年2月15日伊達政宗公社殿の修繕、又元禄13年10月19日綱村公拝殿を修造し祭田二貫文を寄進する等歴代の藩主公厚く尊崇されました。
祭神の猿田彦大神は、天孫降臨の際道をお開きご案内した事から道の神と、又御夫婦の神である天鈿女命と共に人間生活の道を守るところから縁結び、夫婦和合の神と祀られており、例祭日には宮城県無形文化財に指定されている出雲流の「道祖神神楽」が奉納されます。
尚平安朝時代の長徳四年陸奥守に任ぜられた藤原実方中将朝臣が、赴任途中当社の前を通過した途端落馬し、一命を落した事は歴史的に有名であり、その墳墓は当社より北方約700mの塩手字北野にあります。 」とあります。
道祖神社(佐倍乃神社)は古くから名社として知られ元禄2年(1689)の「奥の細道」の際には松尾芭蕉も参拝しようとしたものの、生憎の天候により道が荒れた為に参拝を断念し「笠嶋は いづこさ月の ぬかり道」の句を残しています。
古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治7年(1874)に現在の社号である「佐倍乃神社」に改称し村社、明治41年(1908)に郷社に列し、明治43年(1910)には幣帛供進社に指定されています。
又、明治41年(1908)には延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載された「佐具叡神社」を合祀しています。祭神:猿田彦大神、天鈿女命。
佐倍乃神社神門(長床)は入母屋、桟瓦葺、五間一戸、桁行5間、梁間2間、外壁は真壁造板張り。
拝殿は元禄13年(1700)に仙台藩(藩庁:仙台城)4代藩主伊達綱村が造営したと伝えられる建物で木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り。
本殿は寛政3年(1791)、8代藩主伊達斉村が寄進したもので、三間社流造、スレート葺(元茅葺)、桁行5.4m、梁間3.4m、外壁は素木板張り、正面3間向拝付、江戸時代後期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から名取市登録文化財に登録されています。
境内にある「タラヨウの木」は樹高約20m、幹周約80cm、北限地帯のタラヨウの巨木として大変珍しい貴重な事から名取市登録文化財に登録されています。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519940997.html 【続・笠島道祖神の正体】より
○歌枕笠島と松島を2007年12月に訪れた。本来の目的は松尾芭蕉の笠島の句がどうにも気になってのことであった。しかし、出掛けてみると、実方中将のお墓が笠島以外に阿古耶の松にも存在すると言うことを聞いて、折角ここまで来たのだからと、ついでに阿古耶の松まで出掛けてきた。
○笠島を訪れて、多くのことを理解することが出来た。そのことについては、書庫『歌枕笠島・阿古耶を旅する』の中に五つと、書庫『奥細道俳諧事調』の中に三つ、書いている。しかし、笠島を訪れて、どうしても分からなかったのが笠島と言う地名であった。
○このことについては、すでに書庫『奥細道俳諧事調』の中のブログ「笠島はいづこ」で、以下のように書いている。
芭蕉の句に、気になる点があって、今回、笠島を訪れた。そのひとつが笠島の地名である。
○全国各地には笠島と言う地名がたくさんある。
ゝ楙觚名取市愛島笠島。
・松尾芭蕉の「奥の細道」で有名な笠島。
香川県丸亀市塩飽諸島の中の本島と言う島の地名。
・丸亀市本島町笠島。
・真言宗宝樹山長徳寺に弁財天を祀る。
神奈川県横須賀市佐島に附属する天神島・笠島と言う地名。
・笠島マリーナも存在。
た軍禪柏崎市笠島。笠島辨天がある。
・信越本線に笠島駅あり。
・笠島海水浴場、笠島港、笠島もずく、なども存在。
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・別名鈴ヶ森八幡宮。
・磐井神社東海七福神の辨天様を祀る。
・「江戸名所図会」では笠島弁財天として紹介している。
・また、万葉集の「草陰の」歌はここではないかと言う。
・近くに新井宿の地名もある。
・延喜式にも載る神社。
Φ楙觚角田市笠島。
Э斉狎邯足柄下郡真鶴町真鶴岬突端、通称三ツ石。正式には笠島と言う。
╂仞邯かほく市笠島。
◯この事実を考えると、笠島というのは、宮城県名取市愛島笠島の固有のものではないことが分か
る。どうも弁天様に関連する地名であるらしい。わたしにはよく分からない。知っている人が居た
ら是非とも教えて欲しい。また、上記の笠島付近に住んでいたりして、笠島に関する情報のある人
はどんなことでも良いから教えて欲しい。
○これを書いてから約一年半が過ぎたが、誰も笠島の地名になど、興味関心はないのであろうか、全く反応はなかった。もっとも、地名起源や由来ほど、面倒であり、厄介で、難しいものはないから、誰もが敬遠したのかもしれない。
○先日、たまたま、鹿児島県三島村の硫黄島で、梅若玄祥の薪能「俊寛」が上演されると言うので、出掛ける機会があった。それであれこれ硫黄島を調べたり、いろいろ読んでみたところ、笠島と言う地名の正体がおぼろげながら、見えてきたように感じた。
○笠島道祖神の鎮座ましますところは、宮城県名取市愛島笠島と言う。笠島道祖神と一般に呼称しているが、当の神社に詣でると、鳥居横の石碑には、単に「道祖神社」とあるだけである。また、鳥居の扁額には「正一位道祖神」と記すのみである。神社の境内にあった肝心の由緒書きには以下のように記されていた。
【佐倍乃神社(笠島道祖神社)由緒】
佐倍乃神社は、元禄二年五月俳聖松尾芭蕉の「奥の細道」行脚の時に、
「笠島はいづこ五月のぬかり道」と詠んだ句にある名取市愛島笠島に
鎮座している神社で、旧社号を笠島道祖神社と称しました。
祭神は猿田彦大神と天鈿女命で、景行天皇四十年の日本武尊御東征の時から
毎年四月二十日を祭日としています。
慶長七年野火に遇い、社殿及び古来の宝物、文書等一切焼失しましたが、
後柏原天皇の時大永二年十月二十三日本殿造営されました。文禄元年二月十五日
伊達政宗公社殿の修繕、又元禄十三年十月十九日綱村公拝殿を修造し
祭田二貫文を寄進する等歴代の藩主公厚く尊宗されました。
祭神の猿田彦大神は、天孫降臨の際道をお開きご案内したことから
道の神と、又御夫婦の神である天鈿女命と共に人間生活の道を守る
ところから縁結び、夫婦和合の神と祀られており、例祭日には宮城県
無形文化財に指定されている出雲流の「道祖神神楽」が奉納されています。
尚平安朝時代の長徳四年陸奥守に任ぜられた藤原実方中将朝臣が、
赴任途中当社の前を通過した途端落馬し、一命を落とした事は歴史的に
有名であり、その墳墓は当社より北方約七00米の塩手字北野にあります。
○佐倍乃神社(笠島道祖神社)の由緒書の石碑は真新しいものであって、気になる表現もいくつかあるが、そのまま掲載している。元禄二年(1689年)慶長七年(1602年)大永二年(1522年)文禄元年(1592年)元禄十三年(1700年)長徳四年(998年)などの元号には、西暦か皇紀でも入れてもらわないと、素人には時代すら分からない。
○祭神は猿田彦大神と天鈿女命とある。神仏分離令に基づいているからであろうか、仏教色を取り払った結果、随分、本来の祭神のことを喪失してしまっているように思えた。
○佐倍乃神社(笠島道祖神社)の鳥居前の道路を挟んだ先に、苔生した道が竹林の中を下っている。現在は、鳥居前の道路から神社に出入りしているが、佐倍乃神社(笠島道祖神社)の本来の参詣道はこれであったと思われる。その竹林の中に、笠島廃寺の標柱が建っていた。江戸時代まではここには笠島寺が存在していたと思われる。ご本尊は辯才天であったのではないか。
○書いているうちに、長くなってしまった。字数の関係もあるので、次に繋げたい。
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