https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/515_Fukue/515_index.html 【福江火山群[ふくえかざんぐん] Fukue Volcanoes】より
北緯32°39′24″ 東経128°50′56″ 標高315m (鬼岳)(標高点・独自に計測)
北緯32°39′37″ 東経128°51′55″ 標高315m (火ノ岳)(三角点・火岳) 福江火山群地図
概要
福江島は長崎県五島列島にあり、北西部の岐宿(きしく)火山、三井楽(みいらく)火山、南東部の福江火山、富江火山から構成される。 福江島では、まず岐宿火山で94~68万年前にアルカリ玄武岩の活動が始まり、その後、約30万年前に三井楽火山、福江火山群でもアルカリ玄武岩が活動した。 最も新しい噴火は、火の岳溶岩の流出である。なお、福江火山群の新期の活動は約9万年前から始まった(永尾・他, 2002)。新期活動は以下のステージに区分されている。 Ⅰ)流動性の高いパホイホイ溶岩を噴出した、Ⅱ)溶岩を大規模に流出し、比高30mの溶岩台地を形成した、Ⅲ)小規模な溶岩流を多数噴出した、 Ⅳ)噴石丘の形成とともに溶岩湖ができた、Ⅴ)火口壁を越えて小規模な溶岩流が溢出した。 なお、富江火山も新期の福江火山群と同時期に活動した可能性がある。 玄武岩のSiO2量は47.2~52.0 wt.% である。
噴火活動史
各火山について、地質学的な研究によってわかっている過去1万年の火山活動史を記載した。また、過去1万年間の噴火活動と有史以降の火山活動とに分けて記載した。
過去1万年間の噴火活動
過去1万年間の詳細な活動は不明であるが、縄文晩期の遺跡が降下スコリア層の下から出土したことから、最新の活動は2,000~3,000年前と考えられる。
長岡・古山(2004)により、鬼岳の最新の噴出物である鬼岳降下スコリア層直下の土壌の年代測定が行われ、約1万8千年前であることが明らかにされた。 一方、これらを覆う黒土層中に降下スコリアが挟在され、その噴出年代は約2,300-2,400年前と報告した。 給源火口については不詳であるが、福江火山群の内部であろうと推定している。
噴火イベントの年代、噴火場所、噴火様式等については、(国研)産業技術総合研究所の 活火山データベース(工藤・星住, 2006)を参考。
福江火山群 有史以降の火山活動
記録に残る火山活動はない。
「概要」、「過去1万年間の噴火活動」、「有史以降の火山活動」については日本活火山総覧(第4版)(気象庁編、2013)及び最近の観測成果による。
なお、噴出物量については、降下火砕物、火砕流、火砕サージ、溶岩流、溶岩ドーム等を加えた重量(単位は「ton」)またはマグマ噴出量(DRE km3)で記載している。 また、噴出物量が既知である場合については、産業技術総合研究所作成の活火山データベースから参照し、VEI(火山爆発指数)も付している。 詳しくはこちらを参照のこと。
https://www.city.goto.nagasaki.jp/rekishi/030/20190211135834.html 【五島のあけぼの】より
遺跡に関する展示物 五島の遺跡
五島列島に人が住むようになったのは、旧石器時代、今からおよそ2万年あまり前からと言われています。
五島の遺跡からは、縄文草創期から晩期、弥生・古墳時代の石器、土器、自然遺物が多く発見され、遺跡は150か所余りに及んでいます。
五島で確認されている遺跡は、どこも海辺で、しかも山に近く、海の幸、山の幸に恵まれたところです。
自然遺物には、貝類、鳥、鯨、いのしし、鹿、木の実などが多く出土し、自然の食べ物に恵まれた豊かな生活を送っていたことが分かります。
大浜地区中島遺跡のミニチュア ドングリピット
昭和60年、大浜地区の中島遺跡で直径1メートル、深さ80センチメートルの竪穴が11基発見されました。中には、ドングリなどが詰められており、デンプンを取る施設が縄文前期から弥生中期にかけて既に作られていました。
遣唐使と倭寇 遣唐使船の模型
遣唐使
西暦607年(推古15年)摂政であった聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無き也」の有名な国書を隋に送り、修交を求めました。遣隋使の始まりです。
しかし、遣隋使の派遣は4回に止まり、その後の唐に、630年(舒明2年)遣唐使を派遣するようになりました。
18回計画され、そのなかで五島に立ち寄ったのは第14、15、16、17回の4回です。804年(延暦23年)第16次遣唐使船には、最澄、空海も乗船しており五島各地に足跡を残しています。
五島の寺社仏閣 仏教文化の展示物
仏教文化
西暦538年に日本に仏教が伝来してから160年余り後、五島の寺院として大宝寺が中国僧「道融」によって701年(大宝元年)に開創されました。以来、仏教の広まりとともに五島各地に寺院が建立され、現在五島には50ヵ寺あります。
宗教活動の展開にともない、建造物、仏教、仏画など多くの仏教美術品がみられるようになりました。特に、真言密教関連の作品はもっとも多いうえ、五島の仏教美術の質の高さを物語っています。
五島藩の形成 旧五島藩主「五島家」の展示物(刀、鎧など)
旧五島藩主「五島家」
五島家の始祖は、源平の乱を避けて五島列島北端の宇久島にきて領主となった家盛公と伝えられています。第4代進公の時には、五島全島を平定し、第20代純玄公が朝鮮出兵の時に宇久姓を五島姓に改めます。
内乱、朝鮮の役、密貿易、キリスト教伝来、福江城築城、異国船警備と波乱に満ちた五島藩の治世も、明治維新によって藩政奉還になり第31代盛徳公で終わりを告げます。
その後、第32代盛主公は子爵を授けられます。現在は、第35代五島典昭氏によって「五島家」は継承されます。
五島藩富江領 五島富江領の展示物(着物など)
富江領
西暦1661年(寛文元年)、当時の五島藩主24代盛勝の叔父(23代盛次の弟)五島盛清が初代領主となり20ヵ村、禄高3千高をもって分藩し、旗本領として独立しました。富江領主使用の衣服や扇子、盃など領主ゆかりの物が旧富江町に寄贈され保存されています。
伊能忠敬 伊能忠敬に関する展示物(測量に使用した道具など)
伊能忠敬の五島測量の足跡
1813年(文化10年)5月3日に宇久島に着いてから8月2日に福江島を離れるまで五島列島を測量しています。
その測量中であった7月15日に伊能忠敬の高弟であった坂部貞兵衛が福江で病死しています。資料館には坂部が伊能忠敬に宛てた最後の書簡が展示されています。
大野きゆう 大野きゆうの書物など
五島俳句界の偉人
大野きゆうは高濱虚子に師事し、俳句雑誌『ホトトギス』には生涯で約240句が入選しました。
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