https://www.gotohtsubakihonpo.net/history/tsubakiaburahistory/【五島つばきの歴史を少々】より
五島は、長崎県の島々の中でも、西方100キロメートルに浮かぶ島です。その五島は昔から上質な椿油の産地として、名を馳せていました。ちなみに長崎県の花木もまた、つばきです。過去にはつばきの実の生産は全国一位になったこともあるそうです。我々もつばきがあってこその商売です。ここではつばきの歴史を少々ご説明させていただきたいと思います。
遣唐使の貢物として椿油を献上
中国が唐と呼ばれていた時代。その時代から貢物として椿油が選ばれていたようです。894年(はくし)に戻そう遣唐使と年号覚えていますが、もう1000年以上も昔の話です。その頃から変わらずある椿油。すばらしいです。千年の時を超えて、我々がその椿油を搾るビジネスができていることを誇りに思います。唐でも大変喜ばれていたようです。
平安時代の法令集、延喜式にも残っている椿油
延喜式(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つです。その中にも壱岐国からの租税品として、椿油が記されています。五島藩からは江戸時代に幕府へ贈られていたようです。年貢の代わりにといったところでしょうか?大島には伺ったことはありませんが、きっと火山もありますので、こちらも稲作がなかなかできず、椿油の質をあげていく努力があったのではないか?それが、現在の東の大島、西の五島というブランドにつながったのではないでしょうか?
全世界の女性が愛でる椿油
ツバキは学名がカメリアジャポニカといわれています。日本原産の植物です。平安時代からの利用ですので、歴史は長いです。食用、灯用、化粧用として、ときには不老不死の薬としても重宝されていたそうです。国外でもツバキを観賞用としてヨーロッパの国々へ運ばれています。そして花の品種改良を重ねられ、今ではなんと1万を超える品種となっているようです。そしてその種子からできるカメリアオイルもまた、女性の美と健康に欠かせないものとなっています。
https://www.city.goto.nagasaki.jp/tsubaki/010/040/20190122221243.html 【椿と歴史】より
地域に息づく椿の薫り
特産物・献上品としての椿油
唐へ遣唐使が派遣されていた頃、日本からの貢物の一つに椿油がありました。
古文書にある「海柘榴油」がそれであると思われ、大変珍重されていたようです。各地の市でも扱われ、生産・流通が盛んであったことがうかがえます。
柏崎公園の辞本涯
平安時代の法令集「延喜式(えんぎしき )」では、壱岐国(現在の壱岐市)からの租税品として椿油が記されています。 江戸時代では、五島藩から幕府へ贈られていました。米の収穫が少ない地域では年貢の代わりに納めていたようです。
椿の実(カタシ)
椿の習わし
福江島の中央部に位置する玉之浦町幾久山(いつくやま)地区。毎年1月23日の恒例行事として「幾久山の大綱引き」があります。
その年の豊作を願い男女に分かれて引かれる綱の中心には椿の花が一枝挿されます。他にもこの地区ではすべての祝い事に椿を用い、椿を愛した幾久山の開拓者、宇久盛重公を偲びます。
注:幾久山の大綱引きは、2011年と2012年は中止になりました。
https://www.city.goto.nagasaki.jp/tsubaki/010/030/20190122215725.html 【幻の椿 玉之浦】より
五島が世界に誇る幻の椿 玉之浦
幻の椿"玉之浦"の発見
赤い花びらを白く縁取った、五島が世界に誇る幻の椿"玉之浦"。その花姿は艶やかで、とても印象に残るものです。この"玉之浦"の発見は偶然でした。炭焼を生業としていた故有川作五郎さんがいつものように山(父ケ岳、七ツ岳)に入ったところ、そこには見慣れた椿とは違う、美しい花がありました。それこそ幻の椿"玉之浦"だったというわけです。昭和22年のことです。
玉之浦
"玉之浦"の父、藤田友一氏
五島市になる前、旧町名で「玉之浦」がありました。その玉之浦町長だった故藤田友一さんが"玉之浦"を世に広めた人です。
町民からの信頼も厚く、24年の長きにわたり町長を勤めあげた藤田さんは、余生の楽しみの山歩きで、凛と咲く椿に心をひかれていったのです。そんな折、昭和48年長崎市で全国椿展が開かれることとなり、藤田さんにも出品の依頼がありました。藤田さんは満を持して"玉之浦"と名付け、自身の逸品を出したのです。
玉之浦大橋からみる玉之浦町の風景
"玉之浦"の災難と現在
"玉之浦"は紹介されるや否や、瞬く間にツバキ愛好者の知るところとなりました。作り出すことのできない、夢のような美しさの花だったからです。しかし、その人気ぶりは"玉之浦"にとって災いをもたらすものでした。たくさんの人が枝を折ったり、根を切ったりした結果、五島の山にひっそりと立っていた母木は枯れて死んでしまいました。今はその子孫がいろんな咲き方で、世界中の人々の目を楽しませています。名前に"玉"や"タマ"とついているのが子孫です。
https://www.city.goto.nagasaki.jp/tsubaki/010/050/20190122223311.html 【椿とキリスト教】より
五島とキリスト教との関わり
下五島へのキリスト教伝来は1566年とされ、室町時代末期にあたります。これは、領主宇久純定が修道士を招いたことに始まります。
純定の子、純尭は自ら洗礼を受け、その後島内を布教してまわり、信者を増やしていきました。このように五島はキリスト教に寛容なところでした。
福江教会
隠れキリシタンと五島崩れ
江戸の鎖国時代、キリスト教の信仰は禁じられていました。
熱心な信者は五島へ移住し、潜伏信者(隠れキリシタン)として信仰を続けました。しかし、迫害の追手は終に及び、「五島崩れ」など悲劇的な事件が起きましたが、ひたすら教えを守りぬき、今に至ります。
牢屋の窄殉教記念教会
椿とキリスト教の関わり
五島にあるカトリック教会堂のステンドグラスを含めた内部装飾には独特の特徴がみられます。ヨーロッパのカトリック教会堂に対し、五島では規則的に、表現したものが多くみられます。
市内のいくつかの教会堂のステンドグラスには椿が用いられているとの謂われがあります。また、周辺に椿が植栽されている教会堂も見られ、五島では、生活や信仰の上でも、とても身近な植物となっています。
https://oratio.jp/p_column/tsubakinoshima 【恵みを享受してきた椿の島】より
聖母マリアと関係があるとされる日本の椿。
ヤブツバキが自生する五島では古くから椿油が作られている。
五島は椿の島。真っ赤な小さな一重の花びらのヤブツバキが自生する。
椿油は天日干しした種を粉砕させてからつくる。
最後には和紙を使ったろ過の装置を通して不純物を取り除く。こうして純度100%の椿油が完成する。
久賀島には椿の原生林がある。旧五輪教会堂に向かう山道でもヤブツバキが出迎えてくれる。椿は英語で「カメリア」。17世紀ごろ、マニラで布教していた宣教師カメルがヨーロッパに椿を持ち帰ったことに由来するという。学名は「カメリア・ジャポニカ」と名付けられ、東洋を代表する花木になった。キリスト教ではマリアの象徴はバラだが、日本のマリア十五玄義図には白い椿を持つ聖母が描かれている。
椿は古くから日本人の生活や文化に密接で、五島列島でも古くからその恵みを享受してきた。種をすりつぶして抽出する椿油は食用や女性の髪などに使われた。集落ごとに製油所があり、椿の実を持ち込んで油と交換していたという。天日干しした椿の種を粉砕し、蒸し上げて圧力をじんわりと掛けて搾油する。最後に和紙でろ過させて完成させる。古い製法は良質の油をつくりあげるそうだ。
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