Facebook北條 毅さん投稿記事
神社が好きです。これまで、いくつもの有名な、そして無名の神社にも足を運んできました。
こう言うと、「どんなお願い事をしたんですか?「どんなご利益がありましたか?」
そう聞かれることがあります。
または、「御朱印を集めてるんですか?」そう言われたりもします。
でも、そのいずれでもないんですよね。
ご利益があるからつまり、現実的な見返りがあるからそこに行くわけじゃない。
何か形のあるものがほしいからわざわざ足を運ぶわけじゃない。
神社に行くと「ご由緒書」というその神社の成り立ちを記したもの目にすることがあります。もちろん、それには目を通します。けれど、そこに書かれた一字一句が事実だとは思いません。
例えば、同じ映画を見てもその感想の言葉は、人によって全く異なるように誰かが言語化した言葉は必ず、その人の意識のフィルターを通したものになる。
同じ世界を見ていてもその世界をどう見ているかその世界をどう表現するかは人によって、立場によってバラバラに異なっていく。
陰謀論とかじゃなく誰が仕組んだとかじゃなくそれがこの世界の当たり前の「構造」なんですよね。良いとか悪いとかじゃなくただ、そういうものなんです。
だから、ご由緒書の言葉がすべてだとは思っていません。僕が見ているのは 僕が見たいのは、その言葉そのものじゃない。本当に見るべきものは形になっているものの、その周辺にこそある。真実は、形になっていない部分にこそあると思っています。
神社という建物を見ることが目的なんじゃない。現実的な利益を求めることが目的なんじゃないし御朱印という形あるものを得ることが目的なんでもない。
神社という「場」に触れること。形あるものの、その周囲に見えないけれど、確かに「在る」様々な力場に触れること ご由緒書の、その背景にある「書かれていない事実」に思いを馳せること その、形にならずだからこそ本質的な「体験」を求めて僕は神社という「場」へと足を運ぶんです。
3次元というこの現実を生きているからこそ形あるものは、とても重要なものです。
けれど、だからこそ 同時に、その「形あるもの」がすべてではないことを「形あるもの」の、「具体的なもの」のその奥に、あるいはその周りにある「形ないもの」にこそ真実が隠されているということを感じる取ろうとすることが大切だと思うのです。
いま、この時代だからこそ特にね。
形あるもの、具体的でわかりやすいものを信じすぎないこと。
それはあくまでも、ひとつの見方であって世界はもっと大きく複雑なものだということを
受け入れること。
形あるのも、わかりやすいもののその外側にこそ、本当の世界の姿はある。
何を信じ、どんな世界を見ているのかがいま様々な出来事によってそれぞれの世界で
誤魔化しようもなくあらわになってる。
世界はきっと、あなたも、僕も想像しているよりずっとずっと大きくて、複雑で多様性に満ちあふれながらそのすべてが大いなる流れの中にあるそんなものなんだと思うから。
すべてが想像の範囲内のわかりきった世界なんてつまらない。
想像を超えた世界にこそ僕らは生まれ、生きているんだと思うんだ。
そう思ったほうが、楽しいよね?
この世界を閉塞した息苦しいものだと思うのかそれとも想像を超えた、可能性にあふれたものだと思うのかどう思おうと、それは自分次第だ。それなら、楽しい方を面白そうな方を選んだほうがいいよね。僕は、そちらを選んでいきたい。
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