原点

一指李承憲@ILCHIjp

瞑想の究極の目的は本来の自分を見つけることにあります。どんな環境でどんな風に育っても何歳でもどんな地位にあっても、それは私を構成するほんの一部分です。私たちの内面には自分が思うよりずっと明るく力強い私がいます。私たちは調和のとれた純粋な意識の中で創造的な人生を歩んでいけます。


Facebook竹元 久了さん投稿記事 🔵医の原点とは

16世紀のフランスで、外科学の創始者と言われるアンプロワーズ・パレ氏は、論文の中で「われ包帯し、神これを癒したまう」という名言を残しています。

「病気やケガが治ると言う事は、患者に備わる自然治癒力であり、医者はその手伝いをするに過ぎない、治療の結果は神のみぞ知る」と言っているのです。

その真意は、生命の神秘に対して医療は何処まで介入できるのか、子々孫々受け継いで来た免疫をどの様に守るべきか、パレ氏は医療倫理について後世にメッセージとして伝えていると察します。

果たして、パレ氏の論理は現代に通用しない昔話なのだろうか?

そんな事はないと思います。

医の原点は永久不変の真理であり、何人も否定できない倫理です。

もしも、医の倫理を大きく歪める人為が介入すると、医療の存在そのものが危うい状況になってしまいます。

現代医学は、その原点を忘れています。患者の苦痛や苦悩を癒す事だけに専念し、人が持つ免疫の神秘を蔑ろにしているとしか思えません。

現行医療を否定するつもりはありません。しかし、医者やクスリが病気やケガを治すと言う昂ぶった理念を持たないで欲しいと願っています。

元々、病気やケガが治るのは、生命の礎である免疫力ですから!


https://cmic-career.com/dr-column/detail/7 【第2話 近代外科の開拓者『床屋医者パレ』 —Ambroise Pare` , アンブロワズ・パレ —【 part3】】より

【パレの評価高まり、兵士に大歓迎される】

 1541年頃、ド・ローアン伯爵はパレの腕を高く評価していたので一緒に戦場に行って欲しいと依頼した。その時、「戦場は外科医術を学ぶための場所です」と戦場に赴いた。外科医術こそパレの生命であった。パレが陣地に着くと、兵士たちは救世主のごとく大歓迎で彼を迎えた。砲弾の傷を煮えたぎる油を用いずに治すという彼の評判は兵士たちに広まっていたからである。パレは“負傷者の苦痛を出来るだけ少なくしたい”という愛の心を終生持ち続けた。最近、体に優しい低侵襲手術として、最小限の皮膚切開や内視鏡手術が主流となっている。まだ時々トラブルが散見されるが、外科医がこの方法を自家薬籠中のものとするなら患者にとっては大きな福音である。

 同年、パレは医者床屋の開業資格試験を受けて合格した後、結婚する。

 1542年、スペイン軍との戦争に従軍する。この戦いで、砲兵隊長ド・ブリサックが火縄銃に撃たれ負傷する。4人の医師が診察したが弾丸の所在が体内に留まっているか否か分からなかった。パレは隊長に撃たれた時の姿勢をとらせ、なんなく弾丸の位置を突き止めた。この発想は素晴らしい。この事実によりパレは一層高く評価された。

 1552年か53年にパレはフランス王付き医師の一員に任命される。その後3代の王に仕えることとなる.

■パレ肖像画

【四肢切断の止血を“焼きごて”から“血管結紮”へ】

パレは従軍していない時には執筆をしていた。彼は文章家であった。また、多読家でもあった。ある日、古代最大の医学者であるガレノス(131〜201A.C.後日詳述する)の著書にあった “切傷による出血の場合、血管の根元を結紮すれば止血できる”という箇所に目が止まった。これは止血に応用出来るのではないかと考えた。この当時、四肢の切断の止血には真っ赤に焼いた“焼きごて”で出血の止まるまで傷の断端の焼却を繰り返していた。この残酷な治療のため患者は激しい苦痛と、火傷による重い障害が残った。

 パレに結紮を試みる機会が訪れた。宮殿の使用人が数日前に右足を骨折した。折った骨は皮膚を突き破り、炎症は骨にも筋肉にも及んでいた。救命のためには足の切断しかないとパレは判断した。その日は万一に備え、旧来の焼きごてなども用意して治療を始めた。足が切断されるとパレは筋肉の奥深くもぐっていた太い血管を探り出し、まず血管の断端に鉗子をかけて止血し、ついで血管に針糸をかけた後二重に結紮した。ほかの血管も次々と探り出して結紮した。

 パレは若い時に特別に解剖学の修練をうけていたので、血管を見つけるのは容易であった。筋肉と包帯の間に差し込んであった止血棒を抜き、大腿の根元を強く結んだ包帯をゆるめてもほとんど出血は認められなかった。この血管を結紮するこの方法は、焼きごてという残酷な治療法を一転させた外科治療の革命といえる。

 血管結紮法という、この新しい治療法が人々に知れ渡ったとたん大論争が巻き起こり、パレは正当性を立証せよと大学の査問会に呼び出された。そして論争で袋叩きにあう。この論争で痛い目にあったパレは、組合から除名されることを恐れて今後切断手術を行なわないと心に決めた。しかし、1552年にパレはまた戦地に赴く。夜中にオーストリア軍がフランス軍の陣地に砲撃をしかけ、ド・ローアン伯爵のテントに砲弾が命中した。伯爵の部下が下肢に切断を必要とする重症を負った。パレはここで再び血管結紮により止血に成功し患者は順調に回復した。この結紮治療法を含め、パレが新しい教科書や新しい治療法を発表するたびに頑迷ころうな大学医学部の権威と争わねばなかった。この争いは終生続いた。しかし、パレは常に勝利を収めたといわれている。この血管結節法が文書で公表されたのは1964年になってからである。

このほかにも、パレには学ぶべきエピソードが数多い。

【敵でも味方でも全力で治療】  

1553年、エダンの要塞でスペイン軍の捕虜にパレがなった時のことである。敵にもパレの名声は知られていた。敵の将軍の足の治療を依頼された。将軍の側にいた敵の公爵が「パレ先生は、仕返しに,将軍の足をちょん切ってしまうかも」と揶揄した。これに対しパレは答えた。「病人が私に助けを求めた場合、敵だろうと味方だろうと私は全力を尽くします」

【ラテン語の試験に合格し、床屋外科医に】

1554年、ラテン語の知識のない床屋医者パレに驚くべき事態が起こる。それは外科医の組合で作っていたサン・コーム外科学校の試験を受けることを要請されたことである。この頃、外科学校ではパリ大学医学部の圧力により死体の割当が制限され、医学部教授の出席のない限り外科医による死体解剖が禁じられるという王の布告が出されていた。そこで外科学校では、権威ある王付き医師であり、多くの実績と高い技術、絶大な人望のあるパレを医学部に対抗するために自陣に引き入れようとする政治的思惑が動いていた。パレは数週間、必死でラテン語を勉強した。ラテン語による医学の口頭試問ではしどろもどろの答弁だったようである。しかし、この試験はパレを合格させるための“できレース”の如き試験だったので、めでたく合格し、医学士として学校に迎えられた。さらに、論文により床屋外科医の資格をとり、外科学校の正式の教授に迎えられた。床屋医者の時代は短い上着しか許されなかったが、晴れて黒い長い上着をまとうことが出来た。パレが王に要請したのであろうか、その後、サン・コーム外科学校では必要な死体が割り当てられるようになった。

【患者さんには明るく優しく笑顔で接しなさい。】

 1570頃、7ヶ月前に足に砲弾を受け、傷は化膿し、大腿には深い空洞ができており、背中には潰瘍ができた重症なドオレ侯爵を診察した時のことである。侯爵の家族や周囲に居た人たちは長い看病の疲れで憂鬱な顔をしていた。パレは腐骨を取り除く治療などをした後、長く放置されていたシーツを取り変えた。そして、そこにいた何人かの医者を諭して言った。

「患者に接する時には、心配や不安を表情に出さないで、明るく微笑みを浮かべて優しく接しましょう。この方が、病人の心を明るくし、力づけ、よい薬になるのです」

パレは治療方法や食事に肉、卵を指示し、活力を与えるために葡萄酒を飲ませることを提案した.病状は急速に良くなり、2ヶ月後には歩けるようになった。侯爵は心から感謝し、パレを賞賛した。パレは「私はそんな賞賛に値しません.ただ処置をしただけで、治して下さったのは神様です」と答えた。パレは後に「私は医師、外科医、薬剤師、調理士の職務を全部やりました」と述懐しているが、術後の食事や葡萄酒にまで気を配ったのは、さすがパレである。

【秘薬をおしげもなく公開】

その当時の医者のある者は秘薬を持っていた。秘薬が効けば効くほど内容を公開しなかった。パレは「もし、過去の医師たちが自分の経験や治療法を後世に伝えなかったら、我々は千年も前の無知に留まっていたでしょう」と、自分の経験や治療法、薬を分かりやすいフランス語で書いて、床屋外科医などの啓蒙活動を行なっている。

 国王が重症になった時、侍医であった彼は泊まり込みで看病した。

 病人がどんなに貧乏人でも、どんなに遠くにいてもパレは往診治療をしたという。

【人生の大半を戦場で過ごしたパレ】

「戦場は外科医術を学ぶための場所」と言ったパレは、人生の大半を戦場で過ごした。そこで治療しながら正確な臨床経験の上に立って新しい治療法を開発し、従来の外科から新しい外科へと脱皮させた。これが「近代外科の父」や「外科のルネッサンス」といわれるゆえんであろう。敵味方の区別も貧富の差別もなく全力で治療し、患者には明るく優しく笑顔で接するなど仁愛に満ちたパレに私は多くのことを学んだ。

 パレはこのほか、異常分娩の際の胎児の娩出法すなわち足位回転術、義肢・義眼の発明、脳内膿瘍に対する穿頭手術、動脈瘤、ヘルニア、骨折、脱臼、白内障、結石の砕石術など、従来の外科から一段と抜きん出た治療法とそれに伴う外科器具を創案している。

” パレが初期に用いた外科器具 ”

パレは、のちに次々と新しい外科器具を開発した。

【パレ外科のわが国への貢献】

楢林鎮山の「紅夷外科宗伝」(1706)、西玄哲の「金瘡跌撲療治之書」(1735)、伊良子光顕の「外科訓蒙図彙」(1767)は、パレ外科書の蘭訳本から大きな影響を受けたといわれている。

 また、従来の日本の外科にはなかった穿頭術、四肢切断時の血管結紮術、整形外科領域のヨーロッパ的な脱臼整復術、骨折における大規模な副木装置など、日本の外科の発展に大きく貢献したといわれている。

■紅夷外伝宗伝

 

■西玄哲             ■伊良子光顕

   

肩関節脱臼の整復法

【自己を誇らず栄光は全て神に帰す】

 “余包帯し、神これを癒し給う”という言葉が多くの人になぜ感銘を与え、力を与えるのであろうか。パレは自己を誇らず、自分の栄光は全て神に帰すとする彼の信仰が自然に吐露された言葉であったからだと私は思っている。 

参考文献)

1) 阿知波五郎:近代日本外科の成立—わが国外科に及ぼしたヨーロッパ医学の影響。日本医史学会、1967

2) ジャンヌ・カルボニア著、藤川正信訳 : 医者床屋パレ、福音館、1969

3) 渡辺一夫 : フランス ルネサンスの人々,岩波書店、1950

4) 森岡恭彦 : 近代外科の父・パレ、日本放送出版協会,平成2年

5) 山本義隆  : 一六世紀文化革命、みすず書房、2007

6) IRAM. RUTKOW : Surgery “ Illustrated History”, Mosby, 1993

7) Harold Ellis : Operations that made History, Greenwich Medical Media, 1996


https://seichokai.jp/fuchu/general_medicine_blog/content20200713/ 【思い悩んだ時、医の原点に立ち返るべし〜医師としての一歩を踏み出した諸君に伝えたいこと〜】より

師より学んだ医師の心得〜人の命を預かる者として己を戒める〜

私がまだ研修医の頃に、随分昔ですが、指導医の先生から「医師の心得」と題したA4用紙を渡され、頂いた本「平静の心」に挟んで今でも大切にし、折に触れて拝読し初心に立ち返ります、その内容を紹介し、その原点に立ち若手医師を見守りたい。

我々は医師として様々な患者に接する。すなわち我々は医療の専門家として病気に対しているのではない。医療にたずさわるものとして病気を有するひとりの人間に対しているのである。患者に対して優位に立ちうるのは、我々の専門的知識のみ。多くの場合、患者家族の方が人生経験は豊富である。人間としてかりそめにも独善的な態度をとることは許されない。

我々の肉親が病むとき、医師に何をして欲しいかということを常に念頭において行動すべきであり、思考を進めるべきである。同時にまたわれわれはその振る舞いにも毅然たる態度をとり、日常診療の多忙さ、煩雑さに慣れて慣性化し、医師としての品位を傷つけるような態度をとるものは自ら医学の尊厳さを放棄した輩と考えざるをえない。いかに自らが真摯であっても、ひとはまず外見と言葉使いで判断するものである。前医、他医への誹謗・中傷、患者・家族への品位のない言葉づかいは、その内容が正当であっても届かないばかりか、自らの尊厳、評価をも下げるのである。医の心・平静の心で、不快な事象も許容し自らの糧としたい。

医療の中ではまだまだ治らない病気が多く、特にがんの場合、我々は治癒が望めずあてのない闘病生活をしいられている患者に接する。我々が診断、治療を行うにあたっては、自らの持てる知識、能力のすべてを投じて、最良の方法を見いださなければならない。その怒力のしない、長髪、無精髭、時間にルーズな医者に、自分の肉親を受け持ってもらいたいと思うものはいまい。我々の職業は、そのような曖昧さが許されるほどいいかげんな職業ではない。

知識を研鑽し、経験を血肉とし、今日までの1症例から明日の1症例を救うために

医学は自然科学の一分野にして、内科学もまた独立した学問である。疾患の概念、病態の解釈、治療方法の開発はまさしく日進月歩であり、我々は国際的に通用する医学を学び実践するために、日々up-to-dateな知識を吸収しなければならない。単に自らの経験のみにたより、新鮮な国内はもとより海外の文献に接しないものは、自らの墓穴を掘るに等しいものと考える。

医学はまた実学でもある。技術の習熟に努めることは当然であるけれども、それは多くの患者の痛みのうえに得るものであることを忘れてはならない。

医学はまた一面経験が重視される。知識や技術はもとより経験年数に正比例するものではないが、我々は多くのものを先輩諸兄から口頭であるいは文献を通じて学んできた。また我々自身も多くの試行の末に会得したものを少なからずもっている。我々は先輩の英知を正しく後進に伝える義務があるとともに、後輩に自分と同じ回り道を歩ませる愚をおかさせてはならない。また患者のそれぞれの臨床経過はいまだ未解決の病に対してその命をかけて示したひとつの表現であり、そこから得られたものを自らの経験だけにとどめることなくただしく後進に伝えてこそ主治医としての責務を果たしたといえるのである。“sterben した”だけでは患者はうかばれない。その意味において貴重な症例や新しい試み、臨床的な集計などをまとめ報告することは、それ自体に意味があるとともによい勉強となりよい刺激となる。

急変に際しても”平静の心”を保ち治療、説明にあたる主治医たれ

最後に患者を対象とするかぎり、急変の事態に遭遇することが多々あるが、その際の担当医が動揺することなく“平静の心”をもってその病態に応じて適切な病状説明、点滴等の指示がなされ、すみやかに実施されれば、病棟が混乱するということはありえない。そう感じるのは自らの治療が反応するか否かの医師のもどかしさと重症患者を扱う病棟内の忙しい雰囲気ゆえであって、重症患者治療にあたっては往々にして生じる感情と理解される。主治医はできるかぎりスムーズに治療できるように常日頃より患者family に対して状況をインフォームしておくべきである。また自らの治療指示によりもたらされた結果に対してはその事実を厳粛に受け止め反省し、明日への治療につなげるべきであることは言うまでもない。



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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