http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2020/09/post-ee6e.html 【俳句の定型とリズム】より
9月2日は旧暦7月15日「盆の月」です。
空を仰ぐと、満月が雨催いの雲に翳んでいました。
・父がつけしわが名立子や月を仰ぐ(星野立子) この句は6-7-6音の破調です。
「父つけしわが名立子や月仰ぐ」のように助詞を省略して定型5-7-5にすると、原句の「深い趣」が無くなります。
「俳句雑感(7) 金子兜太の『炎天』の俳句について」で述べたように、俳句の内容によっては、「定型」より「字余り」を優先すべきでしょう。
芭蕉も「5-9-5」の破調で烏の飛び行く様子を表現しています。
・かれ朶に烏のとまりけり秋の暮
朝、塵を出そうと庭に置いていたゴミ袋を手にすると、カマキリが手に触れました。
・ゴミ出しの袋持つ手にいぼむしり (薫風士)
「いぼむしり」は「蟷螂」の古い別称です。
原句の「いぼむしり」を用いないで、「ゴミ出しの袋持つ手に蟷螂」とすると、「下五」が「字足らず」となり、「螳螂」の前に「切れ」を入れて読んでも、寸足らず・消化不良の響きになります。
この俳句で「かまきり」を使って、「蟷螂やゴミ出し袋つかむ手に」とか、「ゴミ出しの袋持つ手に蟷螂よ」などのように5-7-5の定型にすると、原句の即興句の面白さがなく、「や」の場合は意味が不明瞭になり、「よ」の場合は説明的に響きます。
古い言葉も使い方次第で現代の句作に生かすことが出来ますね。
漢字の読み方を変えて定型にし、リズムを整えることがあります。
ご存じでしょうが、たとえば、「小さき」は「ちいさき」と「ちさき」、「雛」は「ひな」と「ひいな」、「入梅」は「にゅうばい」と「ついり」、「百日紅」は「さるすべり」と「ひゃくじつこう」、「秋麗」は「あきうらら」と「しゅうれい」、etc. 読み方を変えて5・7・5のリズムにします。
「女」は「おんな」・「じょ」・「め」などの読み方があり、「眼」は「め」・「がん」・「まなこ」などと読みます。
また、「コスモス」を「秋桜」と表記して「あきざくら」と読むとか、「湖」を「うみ」と詠むこともあります。
ちなみに、尾崎放哉の自由律俳句の代表作「咳をしても一人」は有名ですが、究極の短詩としての歴史的価値しかなく、俳句のお手本にはなりません。
この俳句(?)の真似をして自由律俳句にチャレンジしても、散文の断片にしかならず、作句は徒労に終わるでしょう。
Facebook長堀 優さん投稿記事
物理学者の保江邦夫先生と、日本の催眠医療を牽引されるドクター萩原優先生の対談です。
お二人の顔合わせは意外にも思われますが、本書を読むにつれ、お二人の出会いが必然であったことが理解されます。
超一流の武術家は、催眠状態で相手の潜在意識とつながり、相手を自在に操れるのだ、
武術指導者でもある保江先生は、このように語り、「武道の極意は催眠」と断じます。
そして、萩原先生のお考えと驚くほど深いところで共鳴し合い、催眠の真髄を明らかにしていくのです。対談を通じ、お二人がお互いに気づきを得ながら催眠の本質に近づいていく様子は興奮に溢れ、読むものをグイグイと惹きつけます。
そもそも私たちは、歩く、洋服を着るなど毎日のルーチンの多くを、潜在意識と繋がりながら無意識で行っています。つまり、日常生活は催眠状態と縁が深く、私たちは日々当たり前に催眠を体験しているといえるのです。そのことに気づけば、催眠に対する見方が大きく変わります。
かつて、ジョディ・フォスター主演の「コンタクト」という映画がありました。この映画において、主人公は、地球外の知的生命体と接触し、伝えられた設計図をもとにワープ装置を制作します。そして、その装置を使って時空を越え、宇宙人とコンタクトをはかるのですが、物語のキーとなる舞台の一つは北海道でした。なぜ北海道だったのか、話は終戦時に遡ります。
保江先生によれば、日本の占領政策を主導したマッカーサーは、日本側に要求して聖徳太子が遺した皇室秘伝の巻物を手に入れたといいます。その書には、音を使って意識を変容させる方法が書かれており、米軍は、その巻物をアメリカの優秀な科学者たちに分析させました。そのメンバーの一人が、「コンタクト」の原作者であるカール・セーガンでした。
皇太子が天皇に即位するとき、「夢殿」と呼ばれる特別な場所で、さまざまな音を組み合わせながら深い「催眠」に入って覚醒すると言われます。これが現人神になる秘儀であり、その方法を聖徳太子がその巻物として遺したのです。「夢殿」は、昔「今殿」と呼ばれたそうです。
保江先生によれば、今の中にいる、とはつまり古神道の「中今」(過去、未来から思いを離し、今に集中する) のことであり、本来「中今」は夢の中という意味なのだというのです。これが「夢中」という言葉の意味であり、これはまさに催眠そのものと言えます。そのことを知ったカール・セーガンは、日本に敬意を表する意味で、映画の重要な舞台を北海道に設定したのです。
拙著でも触れた事実ですが、十八世紀に創られたモーツァルトのオペラ「魔笛」は、不思議な笛を操る日本人の皇子が主人公です。皇子が笛を吹くと、敵も味方も争いを忘れて楽しく踊り出します。日本で言えば鎖国をしていた江戸時代に、なぜモーツァルトが遠く離れた日本の皇子を主人公にしたオペラを作曲したのでしょうか。
じつは、モーツァルトは、聖徳太子の秘密の書を目にしていたと言われています。もしもその書に「音と催眠の秘儀」が示されていたのなら、モーツァルトが、人の心を幸せにする音霊、つまり「魔笛」と、聖徳太子の霊脈をつなぐ「日本人」を主題にした理由がはっきりと見えてきます。であるなら、モーツァルトが目にしたとされる書は、カール・セーガンが研究した巻物と、重なってくるとは言えないでしょうか。
人間の能力を、音や催眠により覚醒させるという秘儀は、人民の洗脳と支配を目指すグループからみたらさぞ許し難いことでしょう。そのグループのメンバーは、この日本に、人類にとって重要な秘密が隠されていることを知っていたのかもしれません。
いや、マッカーサーの所業を見れば明らかに知っていたのです。そうであるなら日本の国土、日本人の健康が、いま多面的に破壊されつつあるのも相応の理由があるといえるでしょう。お二人の話は、量子論から超能力まで広がりながら、この興奮すべき大転換期において、日本人として知っておくべきとても大切なことを我々に教えてくれます。
この本のキャッチコピー
「あなたの人生に奇跡を起こす!!」は決して大袈裟な宣伝ではありません。
この本が、日本人の目覚めのきっかけとなることを願っています。
・・島根、熱海、伊豆、さらに言えば安曇野、共に出雲族の聖地です。これ以上の被害が出ないことを心より祈ります。
リズムが流れると リズムに合わせて踊りたくなります!
リズムに合わせて体を動かすと セロトニンがうまれ 深いリラックスした安らぎが訪れます。自然のリズムこそ脳幹力、自然治癒力を生む力になります。
また 呼吸に意識を向けていると深いトランス状態に誘われます。
呼吸、打ち寄せる波の音、小川のせせらぎ、そよ風、木漏れ日、太陽光、蛍の光など自然界のリズムは私たちを深い瞑想状態(シューマン波・地球の脳波)に導いてくれます。
左脳の働きが止まり、(右脳が活性化し)潜在意識へアクセスし、深い意識に出会い 魂の目覚めを体験します。
私たちは母の胎内で 母の鼓動・心臓のリズム・命の鼓動を聞きながら育ちました。
そんな私たちの人体は 壮大なオーケストラと言われ 臓器は固有の周波数を持ち、 痛みや疾患も 電気信号として 同様に周波数を持つと言われます。
リズムに乗りながら 脳幹力、自然治癒力を活性化し 魂の目覚めの感動を体験しませんか?
Facebook清水 友邦さん投稿記事 「言葉だけでは伝えられないものがある。」
共通の言語で話しをしても、共通の体験、共通の文化、価値観、言葉を聞いて連想するイメージ(シニフィエ)を共有していないと言語は意味が伝わりません。
近代言語学の父と呼ばれるソシュールは言語がシニフィアンとシニフィエでなりたっている体系であると喝破しました。
シニフィアンは「言葉の音や文字の種類」の記号なので意味はありません。
シニフィエは「言葉を聞いて連想する像、イメージ」のことです。
言葉というのはこの二つの要素が一緒になっています。
言葉は単独で意味がなく、他の言葉との関係性においてのみ、つまり文脈でしか意味を持つことができないのです。
そして文脈は無数に広がるので言語は実際の対象を示すことはできないのです。
言葉だけでは真の理解はできません。
経験や体験を正確に言葉にすることはできません。
高次の状態を表す、神との一致、究極の自己、梵我一如、涅槃、サマーディ、ノンデュアリティ、ダルマカーヤ、タオは言語で表しても、共通のシニフィエがないと役に立ちません。
料理のレシピを聞いたり読んでも料理を食べてみないとわからないように、自己探求の道を実践して、一瞥が起きて初めて伝わるのです。
瞑想とマインドフルネスは言葉なので、シニフィエが異なる言葉は意味が通じなくなります。
瞑想やマインドフルネスのように言語を超えた状態を説明しようとすると何を言っているのかわからかなくなります。
マインドフルネスは次のように説明されています。
「今この瞬間にある何かに意図的に注意を払い。今この瞬間に実際に存在すること」
この説明ですと「あるがままのいまここ」(Being)とエクササイズ(Doing)を混同してしまいます。注意を払うのはマインドです。
マインドは今ここにいられないので努力して注意を払い続けます。
しかし、努力を続けているマインドは今ここにいられないのです。
努力することなく気づきが起きている状態が瞑想状態です。
気づきは未来も過去もなく 広がることもなく満ちることもなく 大きくもなく小さくもありません。上もなく下もなく中心もありません。行くことも成ることもありません。
言語は三次元の世界に属しているので、それを超えた世界は説明できないのです。
直接「これだ」と示せないので、喩えや比喩でしか表せないのです。それを仏教では方便といいます。つまり嘘です。
ですから言葉で理解しようとするマインドはいつまで経っても「あること(Being)」を把握できないのです。
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