過去の信じ込み、先入観に縛られていると 今・ここを生きることができません。
過去から自由になるために どうすればいいのでしょう?
いいことだとか、悪いことだとか、損だとか、得だとか、善だとか、悪だとか あらゆる評価をしないでただ観る。
このことが起こったのは何故なのだろう?どうして今起こっているのだろう?
何を観るためだろう? 何を学ぶ必要があるのだろう? どんなメリットがあるのだろう?
私の持つ色眼鏡はどんなメガネ??などなど…色々な視点から。
それができるようになると 思考を止めるとことにより直観力を開放する醍醐味を味わうことができるのではないでしょうか?
Facebook石川 眞樹夫さん投稿記事「愛の静けさの中で」
こちらには耳を傾け、あちらは無視する。必要もないのに心の中で一つのことを別のことに対立させる。こういったことから自由な人はいるのだろうか?
いつになったら、それから自由になれるのだろう?頭を鎮めて、よく見つめてみなさい。
感情に流されず、何にも、誰にも執着せず、手放しなさい。
愛しいわがこよ、人のありさまを正しく観察し、快楽と知識への欲望、そして人生そのものへの欲望を手放し得る人は希だ。その人は祝福されたのだ。
何一つ存続しない。何一つ事実ではない。すべては苦しみ、果てしない三重苦だ!
まったく何の価値もない。これを知りなさい、すべてをあきらめなさい、そして静かに在りなさい。
人はいったい、いつになったら、ひとつのことを切り刻み、別のことを作って対立させるのを止めるのか?
あらゆる対立を棄て去りなさい、何が起ころうとただ今にいて幸せでありなさい、その幸せであなた自身を満たしなさい。
教師や聖者や探求者たち、彼らはみな違ったことを言う。
しかし、だれにも教えられなくても、これを知る人は、無執着とともに静かになる。
真の教師は冷静に考え、すべてはひとつだと見なす。
彼はものごとの本質、覚醒の本質を理解したのだ。彼が選べば、彼はふたたび生まれ変わることさえない。変化するものごとの中に、愛の純粋な姿だけを見なさい。
自己の本性、『 ( i )= 愛 』の内にとどまりなさい。そしてあなた自身を解き放ちなさい。
世界はただ、偽りの印象の集まりにすぎない。あきらめなさい。
幻を手放しなさい。世界を手放しなさい。そして自由に、歓びの内に生きるのだ。
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事 いのちって何?
毎年、世界各国から応募のある国際ユース作文コンテスト、2021年度のテーマは「いのちって何?」(子ども部小中学生)。以前ひとつの作品をご紹介しましたが、今回は、マレーシアのチツラ・カルナ君(8歳)の「命とは本当の幸せ」。
子どもたちの素直な視線に学ぶことの多さを思います。
命とは何でしょうか。私は 8歳なので、8年間しか生きた経験がありません。生まれてから最初の2年間のことはほとんど覚えていません。ですから、6年間と少しの経験から、私にとって命が何であるかという問いに答えたいと思います。
命の意味を最初に考えるようになったのは、海外の幼稚園に入園した時です。私は、その国の言葉を話すことも、その文化を理解することもできませんでした。父が日本で働くことになったので、私たちは芦屋に引っ越すことになりました。私はマレーシアの友だちとはなれ、新しい学校に入学しなければなりませんでした。
私にはすべてが初めての経験でした。先生の言っていることが理解できず、どうしてよいかわかりませんでした。とても怖い思いをしました。寂しくて、新しい食べ物も好きにはなれませんでした。マレーシアはいつも暑くて晴れていますが、日本の気候は私には寒すぎました。
とても悲しくて、心が傷つきました。皆が親切にしてくれましたが、マレーシアの家のこと、学校のこと、すべてが恋しくてたまりませんでした。もうこれ以上がまんできないと思っていたある日、地しんのひなん訓練がありました。本当の地しんではありませんでしたが、実際の緊急じたいの時と同じように大きな音でサイレンが鳴りました。私たちは並んでひなんしなければなりませんでしたが、何が起こっているのかわからなかった私は泣いてしまいました。先生がただの訓練だと言ってくれたのは覚えていますが、それでも私には理解できませんでした。次の日、私は学校に行きませんでした。
すると両親が私にこう説明してくれました。「どの国もそれぞれに違うもの。マレーシアには自然災害はないけれど、環太平洋火山帯の上にある国々には地しんがあるので、とても危険な場合がある。防 災マニュアルを守らない人は、命を落とすこともある」と。
私はこの時、自分にとって命とは何であるかに気づきました。生きていられるだけで幸せであり、運が良いということに。命が私に与えてくれる一瞬一瞬を楽しむのは、なにも生まれた国である必要はありません。生きるとは、変化すること。生きるとは、自分の周りの現実を受け入れて、その違いを大切にすること。生きるとは、学ぶこと。生きていると失敗や迷いもありますが、希望が失われた時にこそ、本当の幸せを見つけることができます。物事は良い方向に変わっていくことができるのです。
その次の日、私は学校に行きました。食べ物に違いはあるかもしれませんが、新しい味に慣れてきて、その味が好きにさえなりました。日本語の勉強が楽しくなり、新しい友だちと遊ぶのがとても好きになりました。もう寂しくも悲しくもなくなりました。
誰にだって、心がゆれて不安に思う時があります。だからといって、周りにある幸せに感謝する気持ちを忘れてはいけません。地球という船に乗るために、命が与えてくれるチケットは 1 枚だけです。
ですから、どんなに絶望した時も、自分たちに幸せをもたらしてくれるあらゆるものに目を向け、それを大切にしなければいけません。本当の幸せを見つけるために、自分の夢と希望がかなうのを待つことはなく、苦しみが通り過ぎるのを待つこともありません。一瞬一瞬を大切にし、周囲の人たちとつながりを持ち続け、どんな状況にあっても本当の幸せを感じる瞬間を見つけなくてはなりません。
歯が抜けると、昔は悲しくて泣いていましたが、今ではそんな瞬間も大切に思うようになりました。歯が抜けたとしても、やがて新しい歯が生えてきます。それはうれしいことです。もちろん、歯が抜ける間は少し痛いこともありますが、その少しの痛みを体験しないと、新しい歯は生えてこないのです。
試験に落ちても、また次のチャンスがある。私は、そうやって希望を持つことで本当の幸せを感じます。そうするしかないから幸せなふりをしているのではありません。嵐の後には必ず暖かい太陽の光がさすと信じているので、心から幸せを感じます。
私にとって命とは、本当の幸せなのです。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/154389 【「無心に一句」から 厭戦、生死、いのちを詠む 池田澄子さん(俳人)】より
俳人池田澄子さん(85)にとって、二〇二一年はとにかく忙しかった。第七句集『此処(ここ)』(朔(さく)出版、二〇年)で読売文学賞などを受賞。これまでの優れた功績を顕彰する現代俳句大賞に選ばれた。雑誌などに発表した句は約三百五十に上る。年末にはエッセー集『本当は逢(あ)いたし』(日経BP)を出した。多忙な一年を経て、新たな年にどんな思いを抱いているのだろう。
「あの、間違いじゃないですかって言ったの」。東京・杉並の閑静な住宅街。冬日の差す庭に面した洋間で、池田さんが受賞の連絡を受けた時の驚きをユーモラスに語る。「あはははは」。たびたび上がる明るい笑い声に飾らない人柄がのぞく。
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの (『空の庭』)
前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル (『たましいの話』)
初明り地球に人も寝て起きて (『拝復』)
春寒の灯を消す思ってます思ってます (『思ってます』)
私生きてる春キャベツ嵩張る (『此処』)
戦争、3・11東日本大震災、あらゆるいのち…。こうしたものを見つめる池田さんの句は、平明でいて、その奥行きに思いを巡らせずにはいられない。現代俳句大賞の選考理由には「文語調・口語調を駆使した多彩な表現技法」「エスプリを内包した独特の俳句世界」などの評価が並ぶ。
俳句と出会ったのは三十八歳の時。毎日新聞の記者だった夫の転勤で横浜に住んでいたころ、俳句雑誌で見た阿部完市さん(一九二八〜二〇〇九年)の難解な句に「こういうのも俳句なんだ」と衝撃を受けた。以来「毎日、俳句のことを考えてる」。
敬愛する師・三橋敏雄さん(一九二〇〜二〇〇一年)には「今までにない新しいものでなければ意味がない」と教えを受けた。例えば、初期の代表作であるじゃんけんの句は最初、文語で書いた。「口語にしたら」と助言され、何回か書き直した後に「よし。これがイケスミ調」と言ってもらえた。
句作の根底には、父を奪った戦争がある。軍医だった父は一九四四年八月、漢口陸軍病院で、流行していた腸チフスにかかり三十四歳で亡くなった。当時、池田さんは八歳。「生まれたら元気に生きて、というのが当たり前じゃないことが、体にしみちゃったんじゃないかと思う」
<前ヘススメ>の句のような厭戦(えんせん)という主題は、戦中に弾圧を受けた新興俳句から出発し、戦争への怒りを詠み続けた師と重なる。さらに、戦争だけでなく、「いのちを脅かすものはみんな嫌だ」という池田さんの思いは、あらゆるいのちへのまなざしにつながっているのだろう。
3・11以降の折々に、自らの句を交えてつづったエッセー六十編余りを収めた『本当は逢いたし』でも、戦争、生死、いのちに思いをはせる。自作句<本当は逢いたし拝復蝉(せみ)しぐれ>から取ったタイトルは、コロナ禍のいま、人々の心情そのものだ。最後の一編「父の顎」は、中国・武漢でコロナが広がり、急ごしらえの病舎で奔走する防護服の医師らの映像を目にした時、武漢の一部である漢口でいのちを落とした父の姿が重なったことを書いた。
俳句を始めて四十五年以上。池田さんは「何をどう書くかを考えることが、俳句を書くということ。いまもどうやったらいいか、一句一句悩んで、じたばたしてる。でもね、こう書けばいいとわかったと思ってしまったら、もう終わりかなと思ってるの」と率直に語る。
昨年の受賞機会は図らずも、これまであまり意識してこなかった年齢をあらためて見つめるきっかけにもなったという。これから俳句に向かう気持ちをこう打ち明ける。
「知らないところを知りたい。それには、わからないところから、無心に一句を書くしかないかなって。せっかく年取ったんだから、年を取らないと詠めない句というのが詠めれば一番ありがたいよね。これから私、何書くんだろう、どういう書き方するんだろうって、興味津々だわ」(北爪三記)
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