戦(いくさ)で平和取り戻せない

https://www.tokyo-np.co.jp/article/185255 【沖縄戦体験者 ウクライナ侵略に戦禍の記憶たどる「戦(いくさ)で平和取り戻せない」77年目の慰霊の日】より

 沖縄県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦は23日、組織的な戦闘の終結から77年がたった。この間、世界各地で戦争が絶えず、今はロシアのウクライナ侵攻で多くの命が失われている。7月10日投開票の参院選では敵基地攻撃能力保有など日本の防衛力強化が争点に浮上しているが、那覇市の瀬名波せなは栄喜えいきさん(93)は戦禍の記憶をたどり、「戦で平和を取り戻すことはできない。戦争は本当にばかげている」と語る。(山口哲人)

◆戦車壕構築に動員…米軍の進軍食い止めには無力

 軍人の父に会ったのは、1945年4月の米軍上陸前が最後だった。1歳だった弟も失った。路上に転がる無数の亡きがらは今も目に焼き付いている。

 瀬名波さんは沖縄戦を生き延び、16歳で終戦を迎えた。その前年、現在の嘉手納かでな町にあった県立農林学校に入学。後に米軍が上陸する読谷よみたん村などで、高射砲の砲台整備や戦車を落とす深さ5メートルほどの「戦車壕ごう」構築などに動員された。でも、進軍を食い止めるのには無力だった。

◆身を潜めた山中に迫る焼き打ちの炎

 米軍の艦砲射撃や空襲が激しさを増す中、瀬名波さんは旧久志村(名護市東部)の実家から家族らと近くの山中に身を潜めた。そこにも容赦ない攻撃は続く。家族らは全員投降した。軍国少年だったという瀬名波さんだけは「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すなかれ」との戦陣訓の刷り込みで、山にとどまった。

 独りで何日間耐えただろうか、焼き打ちの炎が迫り、山を下りた。待ち構えた20〜30人の米兵が銃をこちらに向けていた。なぜかは分からない。とっさに両手を上げて降伏した。

 終戦から長い年月が流れたが、避難するウクライナの人たちの映像を見るたび、沖縄戦の記憶がよみがえる。

◆国の防衛力強化方針に異議「軍隊は住民を守らない」

 ロシアが核の威嚇も交えた力による一方的な現状変更に及び、日本国内でも防衛力強化の必要性が声高に叫ばれるようになった。自民党の首相経験者らは台湾有事の可能性にも言及。最短100キロ余りの距離にある沖縄県が、米軍の出撃拠点として、また、自衛隊の南西諸島防衛の最前線として、再び戦火に巻き込まれるとの懸念は広がっている。

 一部の世論調査では、敵基地攻撃能力の保有や防衛費の大幅増額への賛成が反対を上回り、いくつかの野党も防衛力強化を参院選公約に掲げる。だが、瀬名波さんは若き日の苛烈な経験を踏まえ、こう諭す。

 「そんなことはやらない方がよい。軍隊は住民を守らない」


https://www.tokyo-np.co.jp/article/174292 【「今も憲法の番外地」 県民の総意「直訴」前日、米軍基地固定化は強行採決された<沖縄は復帰したのか~50年の現在地>】より

<連載①1972年5月15日 日本復帰>

 「県民が復帰を願った心情には、平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからに外ならない」

 本土復帰前年の1971年11月17日、米軍統治下の沖縄で住民側トップだった琉球政府行政主席の屋良朝苗やらちょうびょうは、パスポートを手に羽田空港行きの便に飛び乗った。沖縄の総意としてまとめた「復帰措置に関する建議書」を首相の佐藤栄作らに手渡すためだ。

◆訴えたかったのは「人間らしい生活がしたい」

 「平和の島」は沖縄戦で「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の猛攻撃によって県民の4人に1人が命を落とし、戦後は米軍の銃剣とブルドーザーで「基地の島」に変えられた。人々は米軍の事件や事故に苦しみ、非民主的な圧政を強いられた。

 当時は米軍人の高等弁務官が立法、司法、行政の三権を支配し、米軍統治への抵抗運動を主導した政治家瀬長亀次郎せながかめじろうは投獄された。それでも瀬長は那覇市長に選ばれたが、高等弁務官は市長職から追放、被選挙権も剝奪。陸軍中将で第3代高等弁務官のキャラウェイは「沖縄の自治は神話にすぎない」と切り捨てた。

 そんな不条理の数々を本土の人たちに知ってもらおうと、屋良は住民の惨状を建議書にしたためた。

 「屋良さんが伝えたかったのは、ヤマト(本土)は輝かしい憲法の下で基本的人権が保障されているのに、沖縄は米国のなすがまま。それを抜け出して人間らしい生活がしたいということ」。建議書作成を支えた琉球政府の元職員の平良亀之助たいらかめのすけ(85)はそう解説する。

◆破れた草履のように民意は踏みにじられた

 しかし、屋良が羽田空港に降り立ったころ、基地の固定化を認めた沖縄返還協定案は衆院特別委員会で強行採決され、可決された。「県民の気持ちはへいり(破れた草履)のように踏みにじられるものだ」。沖縄の意に反して頭ごしに重要な問題を決められた悔しさをそう日記につづった屋良。首相の佐藤に直訴できたのは強行採決の翌日だった。

 復帰当日の72年5月15日の本紙夕刊1面は沖縄関連の記事で埋まった。新たな門出を祝う式典を取り上げると同時に「復帰のあり方を批判する複雑な感情が交錯した」と各地で抗議デモやストライキがあったことも報じた。地元紙の琉球新報は「変わらぬ基地 続く苦悩」と将来への不安を大きく伝えた。

沖縄の本土復帰を報じた1972年5月15日の本紙夕刊1面

沖縄の本土復帰を報じた1972年5月15日の本紙夕刊1面

 屋良が「従来の沖縄はあまりにも国家権力や基地権力の犠牲となって利用されすぎてきた」と嘆いた状況は復帰後も続く。95年の米兵による少女暴行事件や2004年の沖縄国際大への米軍ヘリコプター墜落など、本土でも報じられる事件や事故は沖縄の問題のほんの一部にすぎない。

◆50年たっても在日米軍の7割が沖縄

 「今も沖縄は憲法の番外地ですよ。50年たっても変わらないどころか、辺野古へのこ新基地や普天間ふてんま飛行場へのオスプレイ常駐、自衛隊のミサイル基地建設などが強行され、もっとひどくなっている」。平良は建議書を握り締めながら憤る。

 今も在日米軍専用施設の約70.3%が集中し、治外法権のような状態がまかり通る沖縄。屋良が切望した日本国憲法への真の「復帰」は、いまだ果たされていない。(敬称略)

 沖縄返還 1969年の日米首脳会談で、当時の佐藤栄作首相とニクソン大統領が沖縄の返還で合意し、72年5月15日に日本へ復帰。米軍基地は沖縄返還協定で継続使用を認められた。日米は沖縄への核兵器の再持ち込みなどを認める密約も交わしていた。

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