ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53017 【結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか】より

哲学者がこっそり教えます

轟 孝夫

20世紀最大の哲学者のひとり、マルティン・ハイデガー。彼が90年前に出版した『存在と時間』は、ハンナ・アーレントら哲学者はじめ、フランスではサルトル、フーコー、ドゥルーズなど「ポストモダン主義」の思想家たちに多大な影響を与えた。また彼の説く「本来性」は日本人の「道」の感覚に通じることから、日本でも大変人気の高い哲学書として読み継がれている。

しかし同書は「難解の書」としての魅力も放っているため、チャレンジしてみたものの意味がわからず途中で断念した方も多いのではないだろうか? なかには「哲学」という言葉のイメージに敷居の高さを感じ、手が伸びずスルーしてしまう方もいるだろう。

このほど轟孝夫氏著した『『存在と時間』入門』は「ハイデガーが本当に言いたかったこと」を10年かけて解明した一冊だ。ハイデガーの説く「存在」とは一体なんなのか?――今回は特別に入門の入門として、誰も解けなかったその「真理」を問答形式でわかりやすく寄稿していただいた。

厳密さゆえにわかりにくい

Q: 20世紀最大の哲学者とされるマルティン・ハイデガー。その代表的著作が『存在と時間』ですが、非常に難解な書として定評(?)があります。それにしても、いったいなぜ、それほどまでにも難解なのでしょうか?

A: まず言えるのは、ハイデガーの言い回しに独特の難渋さがあるということです。

『存在と時間』執筆前のことですが、先輩格のヤスパースに論文を見せたところ、「もう少しわかりやすく書けないのか」と苦言を呈されたというエピソードがあるくらいです。また『存在と時間』の前身となった論文を雑誌に掲載しようとしたときにも、担当編集者から言葉遣いが難しすぎると指摘されました。

もっとも、ハイデガーが書き方をあらためることはありませんでしたが。好き好んでそういう書き方をしているのではなく、そういう書き方をするしかないということだったのでしょう。

Q: 「難しくしか書けなかった」のは、ハイデガーが性格的に非常に論理的に厳密な人だったから、正確さを目指したらそうなってしまった、ということでしょうか?

A: そうですね。自分の語りたい事柄をできる限り厳密に語ろうとしたら、結果的にそうなったのだと思います。もっともカント以来、「厳密な学」を目指した哲学は、それ以前の哲学著作に比べて非常に「難解」になりましたから、ハイデガーだけの問題とも言えませんが。

Q: 日本人の場合、通常、翻訳で読むわけですが、言葉の問題も大きいのではないでしょうか。

A: おっしゃる通りです。インド=ヨーロッパ語族に属するドイツ語と日本語ではまったく言語としての「システム」が違います。あとでお話しする「存在」という概念も、日本語で通常、私たちが考えているものと、ギリシア以来のヨーロッパでの認識とでは、実はかなりずれがあるので、そのことも理解を困難にしているかもしれません。

Q: すると、日本語に訳すのは相当に難しいでしょうね。

A: とくに日本のハイデガー学者の場合、ハイデガー独自の術語に引っ張られて、ハイデガーの翻訳だけでしか用いられない、本来、日本語にはない訳語を作ってしまいます。そして今度はそうした訳語が「定訳」として固定され、その訳語の使用がハイデガーに忠実であることの証明みたいになる。それでハイデガー研究者といえば世間から、変な言葉を振り回す秘教集団のように見られてしまうのです。

Q: もともとドイツ人にだってわかりにくいのに、翻訳で読むと、さらにこんがらがってくる。まさに日本人にとっては二重苦です(笑)。

だからまず今度の轟さんの本を読んで、ハイデガーが言いたかったことへの理解を深めてから本体の『存在と時間』を読んだ方が、一般人にはぐっとわかりやすくなる、ということですね?

A: それでは本の宣伝ですよね(笑)。でも自分としては、一度、ハイデガーが何を言おうとしているのかに立ち返り、できるだけわかりやすい日本語で語るよう精一杯務めたつもりです。その上で細部の議論にこだわりすぎることなく、全体の議論の筋道というか構造を示すことに重点を置いたので、拙著をお読みいただければ、『存在と時間』の議論がすっきりと見通しやすくなると思います。

人間を「現存在」と呼ぶワケ

Q: では本題に戻りましょう(笑)。言葉遣いの難解さの1つの例として解説していただきたいのですが、『存在と時間』でハイデガーは「人間」のことを「人間」とは呼ばずに「現存在」と呼びます。でも、なぜ「人間」ではいけないのですか?

A: 「人間」というと、あの人もこの人も「人間」ということでは同じになってしまうでしょう? でもハイデガーに言わせると、人間にとって本質的なことは、「私」と「あなた」、「彼」、「彼女」がそれぞれに、絶対的に異なった存在であることなんです。

つまり各自はそれぞれが「自分だけの」現実に直面しているのであって、現実問題として、その「現実」に対応することができるのは、私以外にはいないわけです。

Q: それは個々人にとっては、またずいぶんとシビアな「現実」認識ですよねえ。救いがないというか。

A: たしかにそうとも言えますが、自分がそのときそのときに置かれている状況をよく胸に手を当てて考えれば、われわれの日々の生き方というのは、そもそもそういうものでしかありえないのではないでしょうか。

例えば何か困ったことがあるとき、ある人に相談して、その人から「こうしたら」とか「ああしたら」とアドバイスを受けることがありますよね。でも、結局のところ、やはりそれは「私自身」の問題であって、いかに親身に相談に乗ってくれたとしても、その人の問題ではないでしょう?

他人には、私が置かれているほんとう状況はわかりません。助言されたことをするかしないかも私次第、またその結果も私が引き受ける他はないですから。

Q: だったら単に「私」と言えばいいのではないでしょうか。

A: 「私」を他の人ではない「私」たらしめているのは何でしょう。自分固有の状況に直面して、その中で自分のあり方を選び取っていくこと、そしてその繰り返しが「私らしさ」を形作っていくのではないでしょうか。単に「私」と言うだけでは、あたかも「私」という実体がすでに存在しているかのようで、今述べた「プロセス」が抜け落ちてしまわないでしょうか?

ハイデガーは何よりも、われわれがそれぞれ自分固有の「現場」をもっている点を強調したかった。それで、「現」―存在と言うわけです。

実は研究者でもわからない「本来性」

Q: すでにかなり面倒な話になってきました(笑)。ただ、どうやらハイデガーの基本的なスタンスは非常に倫理的なんだということは、わかったような気がします。

「存在」とは何か、その定義が当初の問題だったはずなのに、ハイデガーが人間の、じゃなかった、現存在の「本来的な生き方」「非本来的な生き方」にこだわるのも、正しい「認識」は正しい生き方につながるものでなければならない、そう考えていたからだったのですね。

でもこの「本来性」「非本来性」という言い方も、一般的には非常に評判が悪いですよね。自分だけが真理を知っていて、無知な一般人に「本当のこと」を教えてやる、という、まさに知識人の典型的な「上から目線」。

A: いや、むしろ知識人の方が「本来性」とか「非本来性」と言うのを嫌がりますよ。リベラルな価値観からすると、「本来的な生き方」だとか「非本来的な生き方」といった「決めつけ」は他人の生き方への余計な介入になりますから。ハイデガーの専門家でも「本来性」をはずして解釈する人は多いんです。

Q: それは意外です。

A: 私も研究を始めた頃は「本来性」を真正面から論じるのはちょっと恥ずかしいなと思っていました。でも自分がなぜハイデガーに惹かれたのかをよく考えてみると、やはり世俗的な生きかたを徹底的に拒絶しているところと、それに代わる生き方が提示されているところにあったことは否定できません。それである時期からは臆面もなく「本来性」を取り上げる路線に転向しました(笑)。

Q: たしかに「非本来性」、つまり「ダス・マン」(ひと、世人<せじん>)を論じているところは、「ひとがそうしてるから」、「みんながそうしてるから」という大衆の右にならえ的なあり方をよく捉えているような気がします。でも、「死への先駆」とか「良心の呼び声」とかの議論が延々と続くと、もう、いったい何を言ってるのか・・・。

A: とにかく「本来性」というやつが理解しにくいんですよ。さっき研究者が「本来性」をあまり扱いたがらないと言いましたが、ハイデガーが語っている内容がよくわからないというのも、その理由のひとつなんです。わからないから無視しちゃおうと(笑)。

Q: やっぱりね(笑)。その「本来性」の議論にも絡んでくると思うのですが、本書ではハイデガーのスタンスを「宗教的」といいますか、キリスト教と結びつけた議論が目立ちます。

A: じつは『存在と時間』をよく注意して読んでみると、要所要所で、今論じていることはキリスト教の教えを背景としていますよ、という注記が挿入されていて、そこで参照せよと言われているものを調べてみると、もともと「本来性」には神に従った敬虔なあり方、「非本来性」には神に背いて「原罪」に囚われた生という原イメージがあったことがわかるんです。

『存在と時間』はそうした「宗教」の概念を使わないで、一人の人間としての「正しい」あり方がどのように捉えられるかを示そうとしたのだ、そう読むと、「本来性」も「非本来性」もすっきりわかるようになりました。

「孤独」を体現する生き方

Q: キリスト教を下敷きにはしているけれど、とくにその「信仰」は前提としない一般的な話になっていると。

A: さっき「各自はそれぞれが『自分だけの』現実に直面しているのであって、現実問題として、その『現実』に対応することができるのは私以外にはいない」という話をしたでしょう。それをあなたは「シビアな現実認識」とおっしゃいました。

でもシビアというより重たいんですよ、こうした「現実」に直面させられていること自体が。だからこの重荷から「逃避する」のが、非本来性の根本的な意味なんです。

なにごとでも、判断は他人に委ねた方が楽でしょう? 組織に所属していれば、「上」の命令に従っていればいいわけだし。もちろん、それですべてがOKだというのは幻想にすぎないのですが、あまりにも自分という存在が「重い」ので、そういった気休めに、ついしがみついてしまう。これが「非本来性」、つまり他者に埋没した「ダス・マン」というあり方です。

Q: 非本来性はまあそれでいいとして、「本来性」に則った生き方は、結局どうなるのですか?

A: 今言った非本来性の逆の生き方です。自分だけの現実に直面させられているというその重荷をきちんと真正面から引き受けること。「ひと」に判断を委ねるのではなく、自分のあり方を自分で責任をもって選択していくこと。「おのれ固有の存在を気遣う」とハイデガーが言うのはそのことです。キリスト教だと「神に忠実に」というところが、ハイデガーでは「自分の存在に忠実に」──となるわけです。

Q: じゃあ、結局は「俺様は正しい」。俺様バンザイみたいになっちゃう?

A: それは短絡してますよ。先ほどお話しした、「自分」、「私」の本質を思い出してください。自分だけの現実に直面させられて、自分の責任でおのれのあり方を選び取っていかなければならない、というのが「私」の本質でした。だから「自分の存在に忠実に」とは、今述べたような自分のあり方を直視して、そこから逃避しないことになるわけです。

思い切って言うと、孤独であることを恐れないというか、孤独を引き受けるという感じでしょうか。「嫌われる勇気」、というと言い過ぎかな。でもまあ、ひとに嫌われることは確かでしょう(苦笑)。

Q: それで思い出したのですが、『存在と時間』が出版されたのが1927年でした。第1次世界大戦で、人類は初めて大量死を経験した。それまでは科学万歳、人類の進歩万歳でやってきたのが、それがとんでもない間違いだったことに初めて気づいた。それまで前提にしていたものがすべてガラガラと崩壊してしまった…。つまり、今現在のわれわれの「感度」が生まれた時代だったのですよね。

A: よく大戦間のこの時代は「不安の時代」と言われます。こうした「気分」の中からファシズムやナチズムが生まれてきたことも、しばしば指摘されるところです。『存在と時間』でハイデガーが「不安」を分析しているのは有名ですが、まさに「不安」とは、ハイデガーによれば日常的世界が崩れ落ちて無意味になってしまった、寄る辺ない「気分」とされています。

Q: そういう時代の「気分」に、ハイデガーが投げかけた「正しい生き方」への問いかけが「刺さった」のでしょうね。

A: まさにそうだったんです。第1次世界大戦後にそれまでの国家体制は崩壊し、キリスト教の無力も露呈され、「西洋の没落」が意識されるようになった。ハイパーインフレでお金の価値がなくなるということもあった。

先ほどあなたがおっしゃったように、人々がそれまで信頼していたものすべてが崩れてしまったわけです。これまで「ある」と思っていたものが、実は「無」でしかなかった。一体「存在」とは何を意味するのか──そう捉えると、ハイデガーの「存在の問い」は、それ自体が生の新しい基盤を求める切実な問いだったことがわかります。

なぜ「禅」にも通じるのか

Q: で、結局のところ、ハイデガーの言う「存在」とは、何だったのですか?

A: 「何かがある」というとき、普通その意味は、その何かが目の前に「見えるものとして」「ある」ことだと思いますよね。でもハイデガーは、そうではないと言うんです。

Q: たしかに普通はそう考えると思うのですが、それが違うとなると、どうなるのですか?

A: 例を使って説明しましょう。たとえば、1個のお茶碗について、それがお茶碗であると言えるのは、私がそれをお茶碗として使用するからです。仮にそれを誰かに投げつけるために使うとすれば、それは茶碗として存在しては、いない。単にお茶碗の形をしたものが目の前にあるだけです。

お茶碗がお茶碗として存在するためには、お茶碗を適切に使用することによってそれを「あらしめる」ことが必要だ、そうハイデガーは言うわけです。

Q: あるものがそのものとして「ある」とは、そのものとわれわれとの関係性のうちでのみ成り立つ事態である、という感じでしょうか?

A: まあそんな感じです。何かが「ある」とは、それが単に目の前にあることではないんです。そうではなく、そのものにふさわしい態度を取ることによって、そのものが初めてそのものとして「ある」ことができるようになる。

つまり私がお茶碗を適切に使用することによって、初めてお茶碗はお茶碗として「存在」することになるわけです。お茶碗をお茶碗として使うことはとくに珍しいことではありません。しかしお茶碗を本当に「あらしめよう」と思えば、究極的には茶道になるかも知れない。つまり何かをそのものとして「あらしめる」には、われわれの側にもしかるべき修練が必要になるのです。

Q: ものの「存在」は、ただそれをボーッと見ているだけでは理解できないということですね。

A: そういうことです。さっき本来性について説明したところで、われわれは「自分だけの現実」という重荷を負わされていると言いました。具体的に言うと、われわれは自分とは異なる「存在」を負わされていて、それに対してしかるべき関係に入ることをつねに求められている。

本来性とはまさにそうした「負い目」を直視すること、他なるものの「存在」に対してしかるべき仕方で応答する「覚悟」を意味しているのです。

Q: 生きることがそれ自身、さまざまな他なるものの「存在」に対してよりよく応答すること、つまりそれを「あらしめる」ための終わりなき努力なのだというところは、日本人の「道」の考え方にも通じるところがありそうです。

A: その点は以前、このサイトに掲載された拙稿(「なぜ日本人はこんなにハイデガーが好きなのか、その「もや」を晴らす」)でも指摘しておきました。

Q: ハイデガーの非本来性と本来性の議論が、煩悩によって支配された「無明」の生と、それを脱した「悟り」という仏教の教えに似ている。そうした点も、日本人のハイデガー愛好の理由になっているのではないかという話でした。

A: ええ、さっきもお話ししたように、キリスト教の教えから「神」や「来世」といった超越的な要素を徹底してそぎ落としていった結果、もともとそうした超越的存在を認めない仏教に、構造的に近くなったのではないでしょうか。

Q: 「本来性」だ、「存在」だと言っても、突飛なこと、あるいは凡人には理解しがたい深遠な真理を論じているわけではなかったんですね。ハイデガーも日常に即した、われわれにも理解できそうな問題を取り上げていたんだということは、なんとなくわかった気がします。

でもそういえば、『存在と時間』というタイトルなのに「時間」についてはこれまでまったく話題になりませんでした・・・。

結局、哲学はなんのために在るのか

A: 実は『存在と時間』では、「時間」についてはちゃんと論じられていないんです。『存在と時間』は未完の著作で、「時間」を正面から取り上げることなく途絶しました。

Q: ハイデガーは結構いい加減な人で、『存在と時間』を刊行する数年前から論文を書く書くと言いながら、全然書けなくて、やっと本を出したらそれも尻切れトンボになってしまったのでした。

A: いい加減というか、大学でのポストを得るために何が何でも業績を出さなければならないという外的圧力と、最初にもお話しした、自分の問題にしている事柄をできるだけ厳密に語りたいということの間でつねに葛藤があったのでしょう。

存在と時間』も最初の200ページ分を印刷した後、残りの原稿を書き換えたりしています。それで最初は一巻本のはずだったものが、分量が増えて上下二巻に分けることにした。しかも下巻は未完に終わって、「時間」についてはきちんと論じられずじまいになったんです。

ハイデガーの名誉のために言いますが、もちろん時間についての考察も様々な講義の中で行われています。そうした講義を参照すると、「時間」についてもさっきの「存在」と同様に、単に「今、目の前にある」、すなわち単に「現在」だけに関わるのではなく、「将来」へと「過去」へとの拡がりをもった現象であることを示そうとしていたことがわかります。

Q: では最後に、これは身もふたもない質問ですが、『存在と時間』を読む、あるいはもっと一般的に言って哲学を学ぶことは、われわれのような一般人にとって何か意味があるのでしょうか? それともそれは単なる知的好奇心、言ってみれば「趣味」のようなものに過ぎないのか。

A: われわれは生きている以上、他なるものの「存在」を負わされ、それに対応するように呼びかけられていると言いました。このような生の根本的な現実は、われわれが「趣味」のように自由に選べるものではありません。それこそ身もふたもない話ですが、われわれにはそのことを真正面から引き受けるか、ないしはそこから逃げるかという二つの選択肢しかないわけです。

前者の選択をした人にとっては、生きること自体が物事の真の「存在」を問い続ける営みそのものになるでしょう。それは基本的には、哲学書を読む、読まないとは関係のないことです。ですが、そうした人が『存在と時間』のうちに、自分と同じ問題意識が示されていることを見出し、それを読むことでによって自身の問題をよりはっきりと認識できるようになる、ということはあるかもしれない。

先ほど、生きることは孤独なことだと言いました。哲学書は、われわれがそのような孤独な生を背負っていくにあたってのよき同伴者、あるいは対話相手になってくれるのではないでしょうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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