https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8302281/ 【天空からのスポットライト】
https://bionet.jp/2019/11/11/iro72_55/ 【天使の梯子】より
「天使の梯子」は、「ヤコブの梯子」とも、「レンブラント光線」ともいわれます。
「ヤコブの梯子」は、旧約聖書創世記の記述に由来します。ヤコブが、雲の切れ間から差す光の梯子が天から地上に伸びていて、そこを天使が上り下りしている光景を夢に見たという話で、それが自然現象を表す言葉にもなりました。
自然現象の言葉としては、「薄明光線」が用いられます。太陽光線をさえぎる、積層雲、層雲、乱層雲、巻積雲、高積雲、積乱雲などの切れ間から、地上に向かって放射状に降り注ぐ下向きの光をいいます。
オランダ絵画黄金期に活躍した巨匠レンブラントはこれを好んで書きました。暗い背景に斜め上方向から射す強い光から生まれる明暗対比によって、レンブラントは、人物をよりドラマチックに表現する手法を確立しました。それを「レンブラント光線」といい、よく知られる 「夜警」は、その代表的な作品です。ポートレート写真で陰影をつけるやり方は、 “レンブラント・ライティング”と呼ばれ、人物撮影の基本的な手法です。
小説家の開高健は、生前、この「レンブラント光線」という言葉をよく用いました。魚釣りで外国に出かけ、ウイスキーを飲みながら景色を眺めていて、「レンブラント光線」が射し込むテレビCFがありましたが、わたしは凄烈なベトナム戦争体験をもとに書かれた開高健の「闇三部作」である、『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇(未完)』を思い起こします。あの小説に通底する闇の深さと、そこに射し込む「レンブラント光線」が、この小説の世界をかたちづけています。
開高健は朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ赴きました。サイゴンのマジェスティック・ホテルを拠点にして、南ベトナム政府軍に従軍して最前線に出た折、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還します。兵士など200名のうち、生き残ったのはわずか17名でした。開高健が朝日新聞に連載した『ベトナム戦記』を、つよいショックを受けながら読みました。
わたしの「レンブラント光線」体験は、スペインのレオンのカテドラルです。堀田善衛が絶賛してやまないステンドガラスを見たくて、列車に乗ってレオンに行きました。ステンドガラスといえば、パリから1時間の距離にあるシャルトルが有名です。あの青のステンドガラスに惹かれ、わたしはパリから足を延ばしましたが、堀田善衛にいわせると、スペインの光が強い分だけこちらに軍配があがるということで、つよい興味を覚え、レオンに行ったのでした。カテドラルをついに夕方に訪ねたわたしは、刻々変化する陽の光が、最後に夕焼けに染まって行く様に接し、しばし声も出ませんでした。カテドラルの中が真っ赤に染まり、そして最後に「レンブラント光線」を放って陽が落ちました。
このカテドラルのステンドガラスの総面積は1,800m2です。大きな建物の壁の半分以上がステンドガラスなのです。
このレオンの町には、ガウディの設計した建物もありますが、これは愚作でした。ガウディにとって、甚だ不本意な建物というしかないシロモノでした。
「天使の梯子」は、季語にありませんが、
「写真俳句ブログ」に、こんな句が紹介されていました。
見上げれば天使の梯子秋の暮
天駆(あまかけ)て日矢携えて秋はゆく
http://blog.livedoor.jp/toshio4190/archives/1062792214.html 【天使のはしご】より
サンデーKUさんのブログから「薄明光線」の絵をお借りした。
雲の切れ間から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上に降り注ぐ現象で、「光芒」という正式用語の他に、「天使の梯子(階段)」というオシャレな呼び名もある。
画家レンブラントが好んで描いたことから「レンブラント光線」と言われることも。
時に光が逆に上がる「裏後光」もあり、なんとも素敵な自然現象であるけれど、この現象を詠んだ著名句は意外と少ない。
空へゆく階段のなし稲の花田中裕明
この空は、一般的に「異界のこと」と解釈されているから、この階段
は光芒のことを直接詠んだものではない。
そんな中、こんなタイトルの一冊があった。
「藤木清子全句集/ひとときの光芒」 宇多喜代子・編著
戦死せり三十二枚の歯をそろへ 藤木清子
https://blog.goo.ne.jp/kyodaihaiku/e/2aa60f9f11a9e310caf2c63979424988 【書評 藤木清子全句集『ひとときの光芒』】より
藤木清子全句集 『ひとときの光芒』
私にとって待望の書、藤木清子全句集『ひとときの光芒』が刊行された。
藤木清子の作品、
戦死せり三十二枚の歯をそろへ
が気になっていたからだ。田島和生著『新興俳人の群像』で見たような気がしていたが載っていない。宇多喜代子の他の著作かもしれない。その時、藤木清子の全容を知りたいと思った。
編著者宇多喜代子の努力にも関わらず、藤木清子の全容は明らかになっていない。生年は不明で、没年も明かではない。健在であれば九十才位だから生存している可能性もある。
ただ、彼女の俳句作品は網羅されているのではないかと思う。日野草城主宰『旗艦』七十号(昭和十五年十月号)に作品を発表して彼女は消息を断っている。藤木清子の俳人としての期間もまた、短い。昭和六年から昭和十五年の十年間である。
藤木清子が所属していた『旗艦』は新興俳句運動の牙城だった。投句する『京大俳句』はその中心に位置している。彼等は無季定型を説き、その表現は戦時下の社会に批判的だった。『京大俳句』事件はそのような情況の中で起こった。昭和十五年に主要会員十名が逮捕され、雑誌は廃刊を余儀なくされた。戦況が深まるにつれて藤木清子の俳句は光彩を放てくる。
白い昼白い手紙がこつんと来ぬ
戦争と女はべつでありたくなし
友寡婦となり曇日の花しろき
きりぎりす清貧の血の一筋に
病人も医師もしずかに聖戦下
新興俳句運動を藤木清子がどれだけ意識していたか分からない。『旗艦』に参加し『京大俳句』に投句したのも夫藤木北青と一緒だからである。夫君の影響下にあったと見た方がいい。昭和十一年の藤木北青の病死以後、彼女の表現は鋭く、また豊になる。中日戦争から太平洋戦争へと戦況が深まっていく過程とそれは重なっている。新興俳句運動の過程を辿ると、戦火想望俳句の提唱と、それ以後の反戦的表現と矛盾した動きを呈している。社会情況に流されやすい一面がある。藤木清子の作品にはそれがない。寡婦という位置から、社会情況をひややかに見つめている。夫を戦時に送る妻、子を戦争で失う母と戦争は女性の上に重くのしかかる。藤木清子にはそれがない。
戦死せり三十二枚の歯をそろへ
私がこの作品にこだわるのは、もはや新興俳句の範疇から抜け出ていると考えるからである。感覚がそのまま表現されて、戦争と対峙している。彼女の表現の中には個の重さが感じられる。
ひとすじに生きて目標をうしなへり
藤木清子はこの作品を『旗艦』に残して句界から去った。『京大俳句』事件があった直後である。文学表現として選んだ俳句に弾圧がかかり、知人友人が逮捕される。たまったものではない。また、彼女自身の内部でも瓦解現象が生じていたのではないだろうか。後半の句はそれだけ逼迫したものを持っている。
(大月健)
沖積舎刊 A5版 180頁 3000円
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