Facebook長堀 優さん投稿記事
「致知」十月号、聖心女子大学で教授を務められた鈴木秀子先生と円覚寺横田南嶺管長の対談より。
秀子先生は、五十代で臨死体験をされたとき、無限の愛で包んでくれた光の存在から次のような言葉を教えられました。
「私たちがこの世でなすべき務めは、知ることと愛することである」
横田南嶺管長は、秀子先生のお言葉を受け、次のように語ります。
「自分が神に愛されていることを知ることによって、妬みや憎しみの感情を超えることができる。
仏教でいえば、すべては繋がっている、孤立しているものは何もない、 という智慧を得たならば、愚かな欲望や憎しみはやむということでしょう。」
すべては繋がっている、これは決して哲学的な話ではなく、量子論が科学的に解明しつつあります。
量子論を背景にしつつ、横田管長が語るような全ての存在が繋がりあった美しい一万年前の世界を描いたアニメが、先日ご紹介した「君と逢える約束の場所」です。
https://apromisedplace.ontralink.com/t?orid=39&opid=1
しかしながら、現実の社会では、戦争や貧困などさまざまな問題が起きています。
秀子先生は、このような胸を痛める現実も、人間が持つ業ではないかと語ります。
人間には誰でも弱い一面があり、私たちはどうしようもない業に囚われて生きている、
人間は悟りを開こうが、聖人と呼ばれようが、闇の部分だけは自分で引き受けて生きていかなくてはいけない、
そういう私たちを神様はいつまでも待ち続け、寄り添い、力と希望を与え続けてくださっている、 自分の闇の深さを知れば知るほど、そんな自分をも許して生かしてくださる神様の愛の大きさが分かる、 だから人生、絶望する必要はない、
地獄のようなアウシュビッツ強制収容所を生き抜いたフランクル博士が「にも拘らず希望を持ち続ける」と言っているが、それと同じで、こんな酷い自分であるにも拘らず、いつも希望を持ち続けることができる、 それが私たちの生き方なのではないか・・・、
心塞がれるような状況を生き抜かなければならない今の時代だからこそ、秀子先生のお言葉に大きな救いを感じます。
思わず誰かを恨みたくなる世相ではありますが、しかし、横田管長は、「法句経」の一句を引用しつつ語ります。
「『彼はわれを罵った。 彼は我を害した。 彼は我にうち勝った。 彼は我から強奪した。』という思いを抱かない人には、ついに怨みが息(や)む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことがない。 怨みを捨ててこそ息む。 これは永遠の真理である。」 怨みの連鎖を止めるのは慈しみしかないのです。
原爆を落とされてなお、怨みを残すことのない日本人は、自らの資質がこの先の世界の指針になりうることにそろそろ気づかなければならないのではないでしょうか。
今の生きにくい世をがんばって耐え抜き、前を向いて生きていこう、新たな生きる力が湧いてくるように感じられます。
長くなって申し訳ありません。よろしければもう少しお付き合いください。
次のエピソードの主人公、藤野高明さんの不屈の人生にも大きな勇気をもらいました。
七十五年前、不発弾の爆発で弟は即死、藤野さんご自身も両目の視力と両手を失います。しかし、その過酷な運命に屈することなく、藤野さんは大学を卒業して高校教師になるという夢を叶えるのです。
13年に及ぶ不就学期間を経験し、悔しさ、怒りで鬱屈した状態を耐え忍ぶしかなかった頃、舌や唇を使って点字を読む人がいることを知り、ぐれかかっていた藤野さんは衝撃を受けます。
自分の力で文章を読めた時、藤野さんの人生に大きな光明がさしてきました。
光は希望そのもの、藤野さんを生かす力となったのです。
しかし、挑戦を開始した藤野さんに、その後も容赦なく次々と試練が襲いかかります。
障害のある藤野さんを受け入れてくれる大学はなく、通信教育を選びましたが、スクーリングに参加した時に障害が知られてしまい、大学側から卒業に難色を示されます。
しかし、学友会の仲間が大学に掛け合い、支援を申し入れます。大学もこの要望を聞き入れ、ついに高校の教員免許をとることができたのです。
それでも、なかなか常勤講師以上にはなれませんでしたが、腐らずに不断の努力を続けた結果、ついに三十四歳で本採用が決まったのです。
藤野さんは、耳が不自由になりながら才能を眠らせることなく世界的な名声を得たベートーヴェンに、
「苦悩を超えてこそ歓喜に至る」
という真理を教えてもらったといいます。
人に愛があったからこそ今の自分があると思う藤野さんは、多くのご縁に報いるため、残された人生を、平和と人の命を大切にする社会を残すために生きていきたい、と語ります。
秀子先生、横田管長、藤野さんのお言葉は、人の命がややもすれば軽んじられるこの時代にこそ、大きく響いてくるのではないでしょうか。
「致知」はいつもながら大切な学びを与えてくれますが、今月号はまた格別です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
***
【ライフスキルプログラム3&4領域 自己認知スキル /他者理解スキル】
自己認知スキル
自分で自分のこと、すなわち性格、長所、短所、願望、嫌なことなどが分かる。
正確な自己認識を持つと、日常の問題場面で 現実的な解決への目標を設定することができる
他者理解スキル
相手の氣持ちになって感じ、考えることができる。共感して理解することは 自分とは違う他者を受容することに役立つ。
この領域では以下の資料を用意しています。
1.和多志ってどんな人 2.よいとこビンゴ 3.自分カルタ① 4.自分カルタ②
5.等身大の自分① 6.等身大の自分② 7.わたしの木 8.信頼の関係
9.出会いのカード
愛子たちの兄弟喧嘩や反抗にうんざりされたことはないでしょうか?
御多分にもれず 和多志にもそんな体験があります。
(いつも喧嘩ばっかりする)兄が外泊した日 妹が「お兄ちゃん早く帰ってこないかな」と待ちわびます。
「喧嘩ばっかりするのにどうして?」と尋ねると「喧嘩したいもん!」と言われ、ぎゃふんとなったことがあります。
兄の反抗スタイルは無視、相手の氣持ちを逆なでするほど自分への固執というスタイルで顕れました。
妹の反抗は華々しく まるで風船のように どこに飛んでいくかわからない思いにさせられるほどでした。
小学5年生のある日突然「お母さんの言うことは一切聞かないことに決めたの」と断言しました。
和多志の買った洋服は着ない。「宿題をしたの?」と尋ねると「お母さんにどう関係があるわけ、済んでなかったらやってくれる訳?」と切り返されてしまいます。
プチ家出も3回しました。
3回目の家出は2日間姿を暗ますものでした。後で聞くと夜は屋根裏に寝、昼間はベランダ越しに隣家に行き ちゃっかり食事も御馳走になり、登校していたということです。
屋根裏に通じる押入れの隣のカーテンレールは攀じ曲がり(足をかけて登ったのだと想像します)天井のボードは2枚踏み抜かれ、屋根裏には毛布も持ち込まれていました。
中学生のある日「嵐のような氣持ちは終わったから」と反抗期終結宣言をしました。
こんな娘が先日の結婚式で両親に手紙をくれました。
その一節に「人生の色々なことを教えてくれてありがとう。なにか困ったことがあると、(恋愛話以外は)必ずお母さんに相談していました。」とありました。
本人の意外な実感に驚くほどでした。
人間が人の間と書くように和多志たちは常に他者との触れ合いを求めています。
自分の存在を、承認されることなしには生きていく力を失うほどです。
いじめで一番酷く、辛い行為は「しかと(無視)」だと報告されていることはご存知のとおりです。
人の存在を認める行為をストロークと呼びます。
仲良し(プラスのストロークの与え合い)は善い関係だと一般的に言われます。
であれば喧嘩や反抗(マイナスストロークの授受)は悪い関係なのでしょうか?
喧嘩や反抗を通して相手の壁にぶち当たり、そのエネルギーで自らが照らされ 、自らを知り、コミュニケーション力を培っていく、成長期のそんなストローク授受のパターンを
見る思いがします。
しかし愛する力は プラスのストロークの授受によってのみ育ちます。
マイナスのストロークの授受が 成長する力に変えられるのは 自分の存在を顕した神仏の無条件の愛を受取っていてはじめて可能なのだと思います。
無条件の愛は存在していても 愛と受け取らない限り愛とはならない。(自業自得)
それでも和多志たちはプラスのストローク授受へのブレーキを踏み続けてしまいます。
https://kyoiku.shinchi-town.jp/index.php?key=joklg4vnu-19 【松尾芭蕉の理念と教育
~「不易流行」と「高悟帰俗」~】より
「不易流行」の言葉は、俳聖・松尾芭蕉が五ヶ月余りにわたる『おくのほそ道』の旅の動きの中で宇宙を静観した経験を礎として、人生至る所に青山ありとした旅を終えて後に「蕉風俳諧」の根本理念として提唱したものです。
この理念は、永久不変の芸術の姿としての「千歳不易」の『不易』と不易を追求して進展し流動する芸術の側面としての「一時流行」の『流行』が一句の中に統一されて存在することを理想としたことから誕生したものです。
要約すれば、「変化を求めて流行するのが俳諧ですが、それはまた永遠性を備えたものでなければならない。」ということです。
しかし、俗人である我々が常にこの理念を意識して活動すると日常の行動に支障をきたしてしまいます。おそらく松尾芭蕉本人でさえ、そうであったろうと推察しています。そのことは、芭蕉の教えを説いた「三冊子」に『高悟帰俗(高く悟りて俗に帰るべし)』の言葉が記載されていることからも分かります。文学者としては、高邁な芸術精神としての「理念」を持つことが重要であることは明白です。しかし、その「理念」を盾や矢面とするなど攻守の手段とすると傲慢さが際立ち、様々な軋轢を生じることになります。
芭蕉は、心は常に「理念」の上に立ちながらも、具体的な作品においては通俗であり卑近である表現をとることが望ましいと思っていたのです。
このことは、簡素なものの中に存在する閑寂で潤いのある美が自然に外に匂い出るような趣である「さび」・「わび」を提唱していた芭蕉。その域を超越した晩年に最終的に達した境地、日常的な題材を詠みながらも形式にとらわれないでさらりとした感じが出ている趣である『かるみ』と理解すると芭蕉の創作理念の真髄に近づくことができるようです。
知識の量は多ければ多いほど良いのですが、そのことを上段に構えて振り下ろすのではなく、心身ともにゆったりとリラックスした姿勢から受け手が理解可能な表現技法をとることが大切です。言語による伝達は受け手が理解してこそ初めて成立するからです。
さて、これらのことは文学にとどまらずに日常生活や教育活動にもあてはまります。教師は教材研究や授業構想を練る中で、常に心に響く授業を展開することを心掛けているはずです。私の教育活動を振り返る時、常に脳裏に浮かぶのは「教える側と教えられる側が教材を媒体としてICTを活用する等した『感動を共有できる授業の展開』こそ、知識を教授する分野の真の教育活動である」という経験に基づいた考えです。教科において感動を共有するためには、児童生徒が理解できる手段や方策を用いての授業展開がなされなければなりません。教えを受ける側をないがしろにする唯我独尊的な授業展開は、知識のみを教授しようとする教師の典型ですが、児童生徒の心に響くことはありません。
難解と感じる一つの事象も、具体例を媒介として易しい言葉を用いて解説することで児童生徒を教師側の世界に誘うことが可能となります。ポイントはわかりやすい言葉で具体的事例を示してやることができるかにあります。具体的事例、それこそ生きている知識です。教える側が自ら体験したことで例示できれば、それに勝るものはありません。しかし、すべてが上手くはいきません。少なくとも教師は日常の研鑽を積む中で見たり聞いたりしたこと、そして、教育に有意義な内容はデータ保存しておく習慣を身に付けておくべきだと思います。そして、保存して安堵するだけでなく、児童生徒に対して臨場感あふれる言葉と語気、そして表情で伝えることが大切です。日本人として、日本語が通じない寂しさを味わうことは辛いことです。未来を担う児童生徒には「寂しさ」を味わうことのないように教育していきたいものです。
松尾芭蕉は、旅という動きの中で創作活動を行いました。また、旅先での日々の心境などを日記形式で書き留めておきました。旅を終えた後は、それを紀行文としてまとめることも行いました。いわば、「動きの中で静」を「静の中で動」を実践したわけです。
江戸時代前期、元禄時代の芭蕉の理念や作品が、三百有余年の時空を超えた現代に継承されているのは文字として残存していたからです。創作活動は一人の人間が生きていた証しとなり後世に残ります。日々の感動を、文字として残すことに教育の大切な一面を感じ取るのは私のみでしょうか。
教育することへの使命感と責任を心に刻み付けて教育に携わっている方にお願いしたいことは、「人間には言語があり、感情があるということ。」をあらゆる場面で児童生徒は勿論のこと、多くの人々に伝達可能な言葉で語っていただきたいということです。
さて、平成13年度に「教育改革国民会議」の報告を受け、学校教育法と社会教育法が改訂され自然体験活動や社会奉仕活動の大切さが条項に盛り込まれました。その趣旨を踏まえ、翌年には活動の事業評価も加味することも念頭に立ち上げた〈子どもと大人が共通の体験活動等で感動したことや共感したことを話し合い、日本古来の5・7・5の17音(俳句形式)で謳い上げる「17字のふれあい」〉事業が、県教委の重点事業として14年間にわたり継承していることは、本県の教育の歴史に刻まれる素晴らしい業績であると感じております。相双教育事務所で編集した域内選考作品集(7,815組の応募から788組選出)が国立国会図書館に蔵書されたり、何組かの作品が千葉県のコーラスグループにより作曲がなされ愛唱されていることを聞き及んでいます。東日本大震災での津波や原発事故で被災なされた子どもと大人の作品もあり、復興の心の支えにもなっていることに安堵しております。
https://ameblo.jp/shiyouzi/entry-12203161106.html 【大自然と芭蕉】より
『笈(おい)の小文』で芭蕉は「見る処花にあらずといふ事なし。思う所月にあらずといふ事なし」と述べる。俳諧の心を持てば、日常の自然や事物に花を見出し、思いや感じ方の内に月を思うことができ句にすることができるというのである。さらに、俳諧の心については、「高く心を悟りて俗に帰るべし」といい、高悟帰俗(こうごきぞく)を強調する。芭蕉のいう俳諧の心は、志を高く持ち風雅への悟りを目指すが、「俗」としての日常生活に戻り句をなせというのであろうか。
花鳥風月、大自然の息づきを求め、その形而上的な抽象世界に浮遊するだけでなく、人の思いとして獲得して大地に足をつけるという形而下の世界に根を下ろせということであろう。
『笈の小文』で、芭蕉は「造化にしたがひ造化にかへれ」といい、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と教えている。「習う」は簡単ではない。自己本位の解釈で、人々は本当に習うことがいという。松や竹に習うことは、人のように語らない松や竹から何を聞くかが大きな課題になる。
芭蕉はいう「習へと云ふは、物に入てその微の顕(あらわ)れて情感(じょうかんず)るや、句となる所也」。
つまり、自分が自然の中に入っていって、その物のなかに息づいている幽(かす)かな動き、大自然の息遣いを感じ一体となった時に松や竹の声を聴き句が作為なしに自ずから生まれるとういのである。ここに芭蕉の俳諧の真髄があるといえる。
「私意を払い捨て、対象に肉薄することによって見えてくる対象固有の生命(誠)作者の内なる誠とが感合する時、句がおのずから結晶する。」と弟子が述べている。
さらに、「水に住む蛙も、古池に飛び込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙の入る響に、俳諧を聞付けたり、見るに有。作者が感ずる句と成る処は、則俳諧の誠也。」
和歌では蛙の鳴き声が詠まれるが、芭蕉の「物我一如」では心が物に入ってそこから顕われる情感を池に飛び込む音としたのである。
ニコ俳諧は十七音という世界一短い詩形の中に、「不易流行」を追求した。例えば、「不易」は、形式的に五七五の音形と季語の存在や、「切れ」と呼ばれる詩としての形式などの不変的の原則を維持した。「流行」については、新しい句材を求め、模倣や陳腐な類型的な句を排し絶えざる新鮮さの追求である。さらに、この「不易」と「流行」は、「俳諧」という作品のなかで止揚され、「風雅の誠」として根源では、一に帰すべき作法の原則を謳ったのである。
ところで、「不易流行」は、実は世の中のあらゆる分野で通じるものである。芭蕉一門によると、「不易とは人の心が社会の隆替まで世の中の森羅万象を司る不変の法則、時を超えた真理である。流行は時代性や環境条件により時に法則性を打破する様々な変化である。しかも、この不易と流行の基は一つで、不易が流行を、流行が不易を動かすという。・・・・」
しかし、芭蕉は、風雅(風流)の誠を責め悟ることは難しいものだと述べる。「此道の我に出て百変百化す」、「俳諧いまだ俵口をとかず。」と述べる。芭蕉の俳諧の中心思想は、不易流行を厳しく責め続ける俳諧道に身を投じろというのであろうか。
ニコ芭蕉は、伊賀上野(三重県伊賀市)で生まれ、藤堂家の料理人であった。三十歳ごろ江戸の日本橋に出て、神田上水の工事関係の職についていた。ところが、三十七歳の冬、突然、日本橋から隅田川を渡り寂れた深川の草庵に引っ越す。このことを「深川隠棲」と呼ぶ。このとき、芭蕉は華やかな実社会をすて「風雅(風流)の世界」に入ろうとしたのであろうか。深川の芭蕉庵に移って六年後、「古池や蛙飛びこむ水のおと」を詠んで芭蕉の俳諧の世界(蕉風)を開くことになる。その三年後、深川を旅立ち『おくのほそ道』の旅へ出かけ、その五年後、深川から大阪へ東海道の最後の旅に向かうのであった。芭蕉の俳諧は、旅から生れているともいえる。
ここで、日本の歴史を眺める時、応仁の乱から百三十年間続いた内乱を経て日本の国があらゆる面から大変貌をとげる。芭蕉はこの内乱終結後の俳人であり、芭蕉が求めたものは内乱で滅んだ王朝や中世の古典文学を江戸時代によみがえらせたのが風雅の世界といわれている。芭蕉の俳句や文章に中世の代表的歌人、西行が引用され尊敬していたことがうかがわれる。西行は上皇側近の武士であったが、三十そこそこの若さで将来も家族も捨てて出家する。しかし、西行は現世の全てを捨てて仏の道に精進したのではなかった。
「ねがはくは 花のしたにて 春しなんそのきさらぎの もちづきのころ」
西行の名歌である。西行の心は、仏の道を求めたのでなく、修行の妨げになるはずの花や月を愛し、そして旅をし歌を読むことに専念したのである。
ところで、芭蕉の「深川隠棲」と旅は、西行をまねたといわれている。
0コメント