Facebook相田 公弘さん投稿記事
·「根深ければ葉繁し」というやさしい言葉がありますが、いずれにしても根が先です。
ところが、根のほうはどうしてもやりたくない。地下でいくら努力しても人に認められない、わかってもらえないということで、張り合いがない楽しみがない。
すぐに認めて、ほめてくれないということで、つい根を放っておいて木を伸ばそうとして失敗した人が、世の中にたくさんいます。
私はそうすれば失敗するということをよく知っておりますから、とにかく根を深く広く張るという努力だけを今日までしてきました。結果としてそれが今日、大変大きな力になっております。この張り合いのない、楽しみのないことに、どれだけ耐えられるかということ、これに耐えられないようだったら、私は駄目だと思います。
※出典「凡事徹底」鍵山秀三郎 著致知出版社より
Facebook船木 威徳さん投稿記事【 正当に評価される方法 】
人間誰しも、他人に高く評価されたい、褒められたい、すごいと言われたい。それが本音でしょう。高いお金を払って、女性がお酒をついでくれるお店におじさんたちが通うのも、
「さしすせそ」を言われたいからでしょう。
砂糖、塩・・・ではなく、こちらです。
さ: 「さすがっ♥」 し: 「知らなかった♥」 す: 「すごーい♥」 せ: 「センスいいですね♥」
そ: 「そうなんですか♥」
口先だけの営業トークでもやはり、褒められたい。私も、褒められたい。笑。
以前と違って、私を褒めてくれる人たちは平均70歳の女性たちがメインですがそれでも、うれしいものです。
80代の認知症のおばあさまに「こちらの男性はずいぶんとハンサムね」と言われた時も、うれしかったものです。
それはそうと、本当は、だれもが、正当に、評価されたい、ありのままで「あなたがいてくれてうれしい」と本心から思われたいのではないでしょうか?
言い換えるなら、誰もがうそ偽りなく、「相手に受け入れられたい」のだと私は感じています。何度か、その方法を尋ねられたときのことを想い出したので、私の考える「ありのままで、相手に受け入れられる」方法を書いておきます。
●かっこうをつけない ●うまくいかなかった経験を話す ●ありがとうをはっきり言う
私がこころがけている方法は、この3つだけです。
・格好良く振る舞っている・なにもかもうまくいっている・相手にこびない・・・といった、「かっこよさそうな」人が、かっこよく活躍するのは、ヒーロー映画のなかくらいのもので、現実には誰もが、自分のコンプレックスに悩み、スマートに仕事ができない自分に嫌気がさし親しい人たちの愚痴や嫌みにさびしい思いをしているはずです。
私たちが、眼の前の相手に受け入れられるとするならば、それは、「この人でもこんなだから私も、このままでいいんだ」と、ちょっと、安心できる、時なのだと思います。
そもそも、きらびやかなレストランでシャンパンを傾けながら、高級な料理を食べている様子を誰かに見せられたり、見るからにかわいらしい子どもの写真や飼い犬の写真を見せられて、まごころから自分のことのように喜んでくれる人はせいぜい、親くらいでしょう。
人のうまくいった話になど、自分から、それを聴こうとしている人でなければだれも興味などありません。
そもそも、他人のことにいちいち興味を持つほどみんなひまではないはずです。
私やあなた、あなたの目のまえの人たちより優れた人、運のいい人、力のある人、
美しい人、かっこいい人など、この広い世界にはいくらでもいます。これは事実です。
仮に、あなたが世界でなにか最高の技術を持っているとしても、やがては誰かに抜かれます。他人と比べる意味などまったくないしそれは負けが確定しているナンセンスな行為です。すべての人を測る共通のスコア表などないのです。
自分に言い訳するのをやめ、ムダに着飾ったり、暮らし向きの自慢をしたり、家族が優秀なことを他人に見せつけたり夫婦仲がやたらといい様子を他人にアピールしたりするのはやめたほうがよいと、私は考えます。
そうしたことをしている人を注意深く見ていると多くの場合、なんらかの強いコンプレックスを持っていてどうしようもない空虚が心のなかにあるためにそれをなんとか埋めようとして、やはり、他者に認められる、評価される、すばらしいねと言われることを(意図していなくても)、求めているのだと感じられてなりません。
(子どもが優秀だとか、夫婦仲がいいとかそんなことは家庭の中で喜んでいればいいだけです)相手に、よい評価をしてもらいたいという客観的に考えれば無作法な要求をするのではなく、むしろ、相手を先に受け入れ、その気持ちをうそ偽りなく伝えるために、「いいかっこうをしない」ことなのです。
(相手を不快にしないレベルで)
この人は、着ている服も、話していることも食べているものも、ほんとうに「ありのまま」。
私も、無理をしないで「ありのままでいいんだ」と想えるとき、その相手は、「自分が受け入れられている」と感じます。
あなたが相手よりも優れているからではなくあなたがいつもありのままでいるから、そして無意味な競争をしないから相手は自分が受け入れられていると感じるし支配や依存のない、良好な人間関係が維持できるのだと私は考えているのです。
「それが通じない相手、例えば、上司や面倒な親類にはどうしたらいいのか?」と尋ねられることがあります。
まず、バカになること。バカなふりをすることです。
知っていることも知らないふりをして初めて教えてもらったかのように対応します。
相手のことばや行為の誤りを指摘してはいけません。
念のため言っておきますが、バカなふりをするには相当勉強をし続けなければなりません。
賢くならないと、バカにはなれません。
そして、「さしすせそ」を想い出してください。
さ: 「さすがっ♥」 し: 「知らなかった♥」 す: 「すごーい♥」 せ: 「センスいいですね♥」
そ: 「そうなんですか♥」改めて、私も自分で自分に言ってみるだけでうれしい気持ちになってきました。
うまくいかなかったこと(だけ)を話し、さらにいつもことばに出して、ありがとうを言い続けてください。
~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
Facebook竹元 久了さん投稿記事 🔵日本人は米を作ることで国を築いてきた!
大江戸とよばれたのはほぼ山手線の内側あたりと考えてよい。その外は農村であり、鮮魚以外の生鮮品はすべてこの近郷農家から手に入れていた。採れたての野菜が毎日運ばれてきた。したがって旬のものしか手に入らない。では農閑期の冬から早春にかけては何を食べていたのか。ここでも魚介類同様、漬けるか、干す。
柿、大根、にんじん、かんぴょう、山菜、昆布、椎茸,みかんの皮、芋、栗、豆…収穫したあとも干して保存できるものは何でも干した。冬、乳幼児は日光に当たる機会がおのずと少なくなるが、天日にさらして乾燥させ日光からビタミンDを蓄えた椎茸を子供、あるいは母乳を出す母親か摂ることで日照不足による疾患を防ぐことができる。生野菜のない冬場のビタミンCは干し芋、干し大根、大豆を発芽させたモヤシでじゅうぶん補うことが出来た。
大豆は一旦乾燥させたあとは一年をとおして蛋白質を安定供給できる重要な作物だ。味噌、豆腐、納豆は季節を問わず庶民の口に入る基本の食材である。
ちなみに大豆、小豆、昆布などの乾物や酒、醤油をはじめとする醸造品は全国から大阪に集められてから各地へと取引された。日本中の特産物がくまなく流通していたことになる。
青菜はもちろん根菜や今では捨てている根菜の葉を漬物として保存した。塩水に漬けてもビタミンは破壊されない上、寒ざらしにして萎びさせてから漬けるので栄養は凝縮される。とくに糠漬けの場合は野菜本来の味と栄養だけでなく、糠、海草、魚のアラ、鷹の爪、古釘などの添加物が作用して野菜をまったく別の発酵食品として生まれ変わらせる。江戸では庶民までが白米を食べていたが、結果招いたのが脚気の蔓延であった。「江戸患い」とも呼ばれた脚気の原因は玄米から糠を取り去ることで起こるビタミンB1不足である。糠漬けと味噌などの大豆製品を食することで脚気は防ぐことはできたであろうが、糠漬けを「糠臭え」といい好まなかった裕福層は庶民より脚気に悩まされることが多かった。その後、鈴木梅太郎が糠に注目し脚気の原因を突き止めたのは明治も終わりになる頃である。糠漬けに限らず各地にそれぞれ違う漬物がありその種類の多さは世界一である。今の日本人が漬物を食べなくなったのは食料保存の必要がなくなったことが大きな理由のひとつだが、その損失は計り知れない。
日本人と稲の出会いは遠く神代にさかのぼる。日本人は米を作ることで国を築いてきた。
常に飢えにあえぐ農民の姿は西欧的民主主義を礼賛し封建制度を蔑視する教科書が誇張している。農民は我々が思い込んでるよりはもっと米を食していた。飢饉の影響を真っ先に、そして最後まで受けるのが農民だったということだ。麦や雑穀を裏作して食べたのは米を売るため、または飢饉に備えて備蓄する手段であった。米は食料であったと同時に通貨だったと考えてよい。
次号の「住」と重なるが、たたみ一畳は成人が寝起きするのに必要な広さという基準がある。一畳は六尺かける三尺、すなわち1.82m×0.91m、つまり敷布団がそれくらいということになる。では当時の成人の身長は?というと、大柄の男でもせいぜい1.6mくらいではないだろうか。米飯中心で一汁一菜、獣肉と乳製品をほとんどと摂らない食生活を続けた結果として当然だが、「小さいのはよくない」というのは考え物。人体は肉や卵などの効率の良い動物性蛋白質を摂れば摂るほど速く成長するのはいまや常識といえるが、それがよいことなのかも考え物だ。大きな体を維持するためにはそれだけ余計にエネルギーが必要となる。体がどんなに大きくなろうと五臓六腑の働きはそうは拡大しない。我々の先祖は米が基本の粗食を守り小さい体で日本を築いた。大阪を筆頭とする地方都市との連携、そして農村を含めたすべてが米を中心に機能した上で「江戸」という華が咲いたのだ。
米は連作障害を起こさない特殊な作物である。逆に米作りをやめると稲と共存する土中の微生物が減り田んぼが死んでしまうのだ。米は作り続け、食べ続けてこそ意味がある。しかし今や主食と副食の量が逆転し、人は米飯から離れ終わりなき美食の後追いをはじめた。おのず米をつくる農家は減った。
全国の休耕田にソーラーパネルを「仮設」しエコ発電をするなどという姦計を以って世の支持を得ようとする輩がいる。農地を他の用途に使えないという法律に対し「仮設」という逃げ道を自ら示しさも名案のように吹聴するが、常設であれ仮設であれ田を殺してしまうことに何のかわりもない。戦後60年をかけてすこしづつ米を忘れさせられた日本人はこの案の狡猾さがもう判らなくなっている。日本は米の自給の道を断たれ外に依存するほかなくなるか、米食と決別することになりかねない。孫正義の電田プロジェクトは「脱原発」のためではなく「脱日本人」が目的である。これが日本人の口から出なかったということだけが救いであるが異論を唱える日本人の少なさが危惧を大きくする。そしてこの後ろにはTPPというさらに危険な国際協定が控えている。
遠く神代のころから日本人は米を作ることで国を築いてきた事を忘れてはならない。
魚の骨をはずし、茶碗に残った最後の米粒までを食べるには箸を使いこなす必要がある。我々は子供の頃からこうして手と脳をきたえて育つ。工芸品から自動車まで何を作っても世界一の所以はここにある。ジャンクフードをかぶりつくか噛む必要のない食品を匙で掻きこんでいたのではたかが知れていよう。
懐石料理にラーメンに宅配ピザに中華フルコースにケーキ食べ放題、本当に味がわかって飽食しているのか甚だ疑疑わしい。結核や先に記した脚気の流行は栄養の「不足」か問題になるが、逆に「過多」が原因の病は挙げだしたらきりがない。今の世の飽食がもたらす不健康は異常とするほかない。が、日本人はこの現状に慣れきっており、その理由も解法もわかりきっているのに誰も後戻りしようとしない。食料、資源を無駄に消費し廃棄物を垂れ流し、体は病気の巣窟、医療と美容と廃棄物処理にさらにカネをつぎ込む。
そうまでして死守しようとしている現代生活とはいったいどれだけありがたいものか、考える時だ。
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