生の源泉

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今朝は群馬へと。

その前に雨風後の道路に落ちた真っ赤な紅葉集め。

濡れたコンクリートには葉っぱがくっついてしまい、なかなかホウキではとれません。

今朝は大量豊作で~😊持ち時間の一時間では集めきれず。しかし、葉っぱは決してゴミじゃない。昨日近くの美しく紅葉途中の街路樹がばっさばっさと刈り取られていました。

落ちた葉っぱの掃除の手間はぶきなのかもしれませんが、、、まだこれからなのに~

今朝、美しく真っ赤に染まった葉を集めてしまうのも、何か申し訳ない氣が、、、

しかし、家のあたりはご高齢な方々が多く、葉を風が運んでしまうと、ご近所の方々のお仕事を増やしてしまうので、なるべく~

掃き掃除も動きながらの瞑想体験。深呼吸をしながら一枚一枚にありがとう。を心掛け😊

これからは運転瞑想。

車内では先日に岡野弘幹さんと物々交換した岡野さんのCDを聴きながら。

素晴らしい美しい響きで、大のお氣に入りです。

また新たなる一日この今に感謝いたします。KNOB拝


FacebookOSHO Japanese投稿記事

 すべてのものはその源泉に帰る――その源泉に帰らなくてはならない。生を理解するなら、あなたは死をも理解する。生とは源泉を忘れることで、死とは再び思い出すことだ。生は源泉から離れ行くことで、死は我が家に戻ることだ。死は醜くくはなく、死は美しい。しかし死は、自らの生を妨げることなく、邪魔することなく、抑圧することなく生きてきた者たちにとってのみ美しい。死は、生を美しく生きてきた者たち、生きることを恐れてこなかった者たち、生きる勇気を持っていた者たち――愛し、踊り、祝ってきた者たちにとってのみ美しい。

https://www.osho.com/.../highlights.../osho-on-death-quotes 【死はもっとも誤解されている現象だ】より

 死は最も誤解されている現象だ。人びとは死は生の終わりと考えてきた。それが、最初の根本的な誤解だ。

 死は終わりではなく、新しい生の始まりだ。そうだ。死は、何かすでに死んでいるものの終わりだ。死はまた私たちが生と呼ぶものの頂点でもあるが、生とは何かを知る人はほとんどいない。彼らは生きるが、あまりに無知に生きるので自分の生に直面することがない。そしてこのような人たちには、自らの死について知ることは不可能だ。というのも、死は今世の究極の体験であり、来世の始まりの体験なのだから。死は、二つの生をつなぐ扉だ。ひとつは後に残され、ひとつは前方で待ち構えている。

 死に何ひとつ醜いところはないが、人は恐怖のあまり死という言葉さえ、醜く、言葉にするのもはばかれるものにしてきた。人は死について語るのを好まない。死という言葉を聞こうとさえしない。

 その恐れには理由がある。死ぬのは常に他人だから、恐れが生じるのだ。あなたは死をいつも外側から見ているが、死は最も内なる存在の体験だ。それはちょうど、愛を外側から見ているようなものだ。愛を何年見たとしても、愛とは何かを知ることはない。愛がどう表現されるかについては知るかもしれないが、愛そのものについて知ることはない。死についての知識も同じことだ。ただ表に見えることだけ――呼吸が止まった、心臓が止まった、話し、歩いていたその男はもはやそこにはいない――生きている体の代わりにただの死体がそこに横たわっている。

 こういったことは単に外側の症候にすぎない。死はひとつの体から別の体への魂の移行であって、もしその人が完全に覚醒していたなら、ひとつの体から宇宙全体という体への魂の移行だ。それは大いなる旅だが、それを外側から知ることはできない。外側から見ることができるのは症候だけで、そしてこうした症候が人びとを恐れさせてきた。

 死を内側から知った者は、死への恐怖のすべてを失う。

死は生の終わりではない

 私のサニヤシンたちは、死をも祝う。というのも私にとって死は生の終わりではなく、生の最高潮であり、生の絶頂なのだから。それは生の究極だ。あなたが正しく生きてきたなら、瞬間から瞬間を全面的に生きてきたなら、生のジュースをすべて搾り出してきたのなら、あなたの死は究極のオーガズムになるだろう。

 セックスのオーガズムは、死がもたらすオーガズムとは比べものにならない。しかしそれも、全面的であることのアートを知る者にのみもたらされる。セックスのオーガズムは死がもたらすオーガズムと比べればとても微かなものだ。

誰もが死を恐れている

 まだ生を味わったことがないという単純な理由から、誰もが死を恐れている。生が何かを知る者は、決して死を恐れることはない。彼は死を歓迎する。死がやってきたならいつでも、彼は死を抱き、死を抱擁し、死を歓迎し、死を客人として受け入れる。生が何かをまだ知らない者にとっては、死は敵だ。そして生が何かを知る者にとっては、死は生の究極のクライマックスだ。

 しかし誰もが死を恐れている。そしてそれも感染する。親たちが死を恐れていて、隣人たちが死を恐れている。小さい子供たちは、たえず周りにあるこの恐怖に感染し始める。誰もが死を恐れている。 人びとは死について話そうとさえしない。

 この世にタブーは二つしかない。セックスと死だ。セックスと死がなぜ、話題にあげられるべきでなく避けられるべき二つのタブーなのか、とても奇妙なことだ。その二つは深くつながっている。あらゆる生はセックスから生じるのでセックスは生を象徴し、死は終わりを象徴する。そして両者はタブーとされてきた――セックスについて話してはいけないし、死について話してはいけない。

死が消えるなら生に神秘はなくなるだろう

 宗教的な人、神秘家は、死の神秘を探求しようとする。死の神秘を探求していると必然的に、生とは何か愛とは何かを知るようになる。これらは彼の目標ではない。彼の目標は死を理解することだ。というのも死以上に神秘的なものはないように思えるからだ。愛にいくばくかの神秘が存在するのは死ゆえに、生にいくばくかの神秘が存在するのも死ゆえにだ。

 もし、死が消えるなら生に神秘はなくなるだろう。だからこそ、死んだものの中に神秘はなく、死体に神秘はない。死体はこれ以上死ぬことができないのだから。生が消えてしまったから神秘がなくなったとあなたは考える。そうではない。神秘がなくなったのは、それはもうこれ以上死ぬことができないからだ。死が消えてしまうと、死と一緒に自動的に生が消える。生は、死の表れ方のひとつにすぎないのだ。

あなたの内側には死ぬ者はいない

 人びとは死を恐れているのではない。彼らは分離を失うことを恐れ、エゴを失うことを恐れている。存在から分離していると感じ始めたとたん、あなたに死の恐怖が生じる。なぜならそうなると死が危険にみえてくるからだ。あなたはもはや分離しなくなるだろう――あなたのエゴ、あなたの人格はどうなる? あなたはとても大切に大変な努力をして人格を育ててきた。全人生をかけて人格に磨きをかけてきたのに、死がやってきてそれを破壊してしまうだろう。

 自分は存在と分かたれてはいないのだと、自分はそれとひとつなのだと理解し、分かり、感じ、体験することができたなら、死への恐怖のすべてが消える。というのも、あなたの内側に死ぬ者はいないのだから。そもそもまったく誰もいない。存在が、あなたを通じて生きているのだ。

あなたの死があなたがどう生きてきたのかを明かす

 自分の生を全面的に強烈に情熱的に、何も恐れることなく――何世紀にもわたって聖職者たちがあなたの中に捏造してきたどんな恐怖もなく――生きてきた者、もし人が自分の生を何も恐れることなく、真摯に自発的に生きたなら、死が彼の中に恐怖を生み出すことは、一切ないだろう。実のところ、死は大いなる休息としてとしてやってくるだろう。死は生の究極の開花としてやってくるだろう。彼は死をも楽しめる。死をも祝えるだろう。

 そして覚えておきなさい。これが基準だ。 人が自らの死を楽しみ祝うことができるなら、その人は正しく生きてきたという証だ。他の基準はない。あなたの死が、あなたがどう生きてきたのかを明かすのだ。

死は生の集大成だ

 生の最大の神秘は生そのものではなく、死だ。死は生の集大成であり、生の究極の開花だ。死において一生が総括され、死においてあなたはたどり着く。生は死へ向かう巡礼の旅だ。事の初めから、死が近づいている。 誕生の瞬間から、死はあなたに近づき始め、あなたは死に向かって動き始めた。

 そして人のマインドに生じた最大の災難は、人が死にあらがっているということ。 死にあらがうと、最大の神秘を見逃すことになるだろう。そして死にあらがうということは生そのものを見逃すことにもなる――なぜなら両者は深く関わりあっているのだから。それらはふたつではない。生は成長で、死はその開花だ。旅とその目的地は別々ではない。旅は目的地で終わるのだ。

笑いが死に対する禅の態度だ

Osho, 死に対する禅の態度とはどのようなものでしょうか?

 笑いだ。そうだ、笑いが死に対する禅の態度で、生に対する態度でもある。というのも生と死は分かたれてはいないからだ。あなたの生に対する態度がどんなものであれ、それが死に対する態度になるだろう。なぜなら死は生の究極の開花としてやってくるのだから。生は死のために存在する。死を通して生は存在する。 死がなければ生はまったく存在しないだろう。死は終わりではなく集大成、最高潮だ。死は敵ではなく、友人だ。死が生を可能にする。

死はあらわにする

 すべてのものはその源泉に帰る――その源泉に帰らなくてはならない。生を理解するなら、あなたは死をも理解する。生とは源泉を忘れることで、死とは再び思い出すことだ。生は源泉から離れ行くことで、死は我が家に戻ることだ。死は醜くくはなく、死は美しい。しかし死は、自らの生を妨げることなく、邪魔することなく、抑圧することなく生きてきた者たちにとってのみ美しい。死は、生を美しく生きてきた者たち、生きることを恐れてこなかった者たち、生きる勇気を持っていた者たち――愛し、踊り、祝ってきた者たちにとってのみ美しい。

 あなたの生が祝祭のとき、死は究極の祝祭となる。このように言わせてもらおう。あなたの生がどのようなものであれ、死はそれのみを明るみにする。もし、あなたが生において惨めであったなら、死は惨めさを晒しだす。 死がすっかりあらわにする。あなたが生において幸せでいたなら、死は幸せをあらわにする。あなたが肉体的な心地良さや肉体的な快楽のみの生を送ってきたのなら、もちろん死はとても不快でとても心地悪いものになるだろう。なぜなら肉体は置いて行かなければならないのだから。肉体はただの仮設住宅、一晩泊まって翌朝には立ち去らなければならない宿に過ぎない。それはあなたの永遠の住処ではない、あなたの家ではない。

それはいつでも起こりうる

 死は生に反していると考える者は、非暴力的ではあり得ない。それはあり得ない。死が敵だと考えるものは決して落ち着けないし、安らげない。それは不可能だ。いつなんどきも敵が待ちかまえているというのにどうして安らげよう?  死はあなたに飛びかかり、あなたを破壊するだろう。死が角で待ち構えていて、死が常にあなたに影を落としているというのに、どうして緊張しないでいられるだろうか? それはいつでも起こりうる。死がそこにあるのに、どうして休めよう? どうしてくつろげよう? その敵はあなたがくつろぐのを許そうとしない。

 だからこその、人類の緊張、不安、苦悩だ。死と戦えば戦うほど、あなたはより不安に駆られるようになる。そうならざるを得ない。それは当然の帰結だ。

あなたの内なる実存的状態は死だ

 あるがままの、あなたの内なる実存的状態は、死だ。あなたはそれを隠そうとするかもしれないし、無視しようとするかもしれないが、あなたの内なる実存的状態は、死だ。一瞬一瞬あなたは死に揺さぶられている。一瞬一瞬死はあなたの中で共鳴している。あなたの肉体は高速で死に向かって旅している。一瞬ごとに死が少し近づき、そこら中から死があなたを見つめている。老人を見てあなたは死を思い出す。朽ち果てた家を見て死の記憶があなたをざわつかせる。一輪の枯れた花が、死の香りをもたらすに充分だ。泉が涸れた――またしても、あなたを見つめているのは死だ。見渡してみなさい。死が蔓延していて、あなたはそれに揺さぶられている。

なぜ私たちは生に執着し、死を恐れるのだろう? あなたはそれについて考えたことがないかもしれない。私たちがなぜそれほどまでに生に執着し、なぜ死を恐れるのか、まったく理解しがたい。これほどまでに生にしがみつくのは、私たちが生き方を知らないからだ。これほどまでに生にしがみつくのは、私たちが本当に生き生きとは生きていないからだ。刻一刻と時は過ぎ、死がだんだんと近づいてくる。そして私たちは、死が近づいてきているのに自分はまだ生きていないのを恐れている。

 これが恐れだ。死がやってくるのに私たちはまだ生きていない。私たちはただ生きる準備をしているだけだ。何一つ準備が整っていない。生はまだ起きていない。私たちは生というエクスタシーをまだ知らない。生という至福をまだ知らない。私たちはまだ何も知らないでいる。息を吸ったり吐いたりしていただけだ。ただ存在していただけだ。生は希望にすぎず、死が近づいてきている。生がまだ起きていないのに、その前に死が起きたなら、もちろん、当然のこと、私たちは死にたくないから恐れるだろう。

 生きてきた者たちだけが、本当に生きてきた者たちだけが、死を迎える準備があり、死を歓迎し、受け入れ、死に感謝する。そのとき死は敵ではない。そのとき死は成就となる。

生の両端は死に囲まれている

 誕生は死につながり、死は誕生の前にある。だから生を実際のありのままに見たければ、生の両端は死に囲まれている。死が始まりで終わりは再び死、そして生はその間に挟まれた幻影だ。ふたつの死の間で、あなたは生き生きとしていると感じる。ひとつの死から次の死へとつながる通り道を、あなたは生と呼んでいる。仏陀はこれは生ではないと言う。この生はドゥッカ、苦だと。この生は、死だと。

 だから、生という催眠にかかり、何としてでも生き生きとしていようとこだわる私たちにとっては、仏陀は生に否定的であるかのように見えるのだ。私たちにとっては、ただ生き生きとしているだけが目的のようだ。私たちはあまりにも死を恐れているので、仏陀が死を愛しているように見え、それは尋常ではないように思われる。彼が自殺志向のように見える。このために多くの人が仏陀を批判してきた。

 私にとって、人とは死の気づきだ。 私は死を恐れるようになりなさいと言っているのではない。それは気づきではない。死が近づいていてあなたはそれに備えなければならないという事実に、ただ気づいていなさい…。

 だからまず第一に、死に気づいているようになりなさい。死について考え、死を見て、死について熟考しなさい。恐れず、その事実から逃げずにいなさい。死はそこにあり、あなたはそれから逃れることはできない! それはあなたと共に生まれてきた。

 あなたの死はあなたと共に生まれた。あなたはそれから逃れられない。あなたは自らの内に死を隠してきた――それに気づきなさい。自分は死ぬことになる、死は確実だということに気づくようになるや否や、あなたのマインド全体が異なった次元から物事を見始めるようになる。そうなると、食べ物は肉体にとって基本的に必要なものだが実存にとってはそうではない。というのも、食べ物を得ても死は起きるのだから。食べ物はあなたを死から守ってはくれない。食べ物はただ延期してくれるだけだ。食べ物はあなたが先延ばしにする手助けをしてくれるだけだ。たとえあなたがいいシェルター、いい家を手に入れても、それがあなたを死から守ってくれるわけではない。便利に快適に死ぬのを助けてくれるだけだ。そして死は、それが快適に起きようが不快に起きようが、同じだ。

 生においてあなたは貧しいかもしれないし金持ちかもしれないが、死は等しくやってくる。最大の共産主義は死にある。あなたがどのように生きようとも、何の違いも生じない。死は等しくやってくる。生においては平等は不可能だ、死においては不平等は不可能なのだ。それに気づきなさい。それについて沈思しなさい。

人は死の扉を通過しなければならない

 死は生よりも重要だ。生はただ些細なもので、ただ表面的にすぎない。死はもっと深い。死を通じてあなたは真の生へと成長する。生を通じてあなたはただ死に至るのみで、それ以外にない。

 生について何と言おうがどんな意味を持たせようが、生とは死に向かう旅に過ぎない。あなたの一生は単なる旅に過ぎず、他の何ものでもないと分かれば、生への関心が減り、死により興味を持つようになる。そして、死により興味を持つようになれば、生の深みへと入っていくことができる。さもなければただ表面に留まったままになるだろう。

 しかし、私たちは死にはまったく興味がない。むしろ、その事実から逃げようとする。その事実から逃げ続ける。死はそこにあり、一瞬一瞬私たちは死んでいっている。死ははるか遠くにあるものではなく、今ここにある。私たちは死んでいっている。しかし、死んでいっている最中に、私たちは生を心配し続ける。この生への関心、この生への過剰な関心は、ただの逃避、ただの恐れだ。死はそこに、内側深くにある――育っている。

 強調する対象を変え、注意の方向を変えなさい。死に関心を持つようになれば、初めてあなたの生が明らかになる。というのも、死に対してくつろいだ瞬間、あなたは死ぬことのない生を手にするからだ。死を知った瞬間に、あなたは永遠の生を知ったのだ。

 死は、表面的な生、一般的にいう生、些細なものからの出口だ。そこには扉がある。その扉をくぐったなら、あなたは別の生へと至る――より深く、永遠で、死なない、不死の生だ。だから一般的にいう生から――それは実は死んでいくことに他ならないのだが――人は死の扉をくぐらなくてはならない。そうして初めて、人は本当に実存的で生き生きとした生を達成する――そこには死は存在しない。

死ほどの大嘘はない

 死についてまずあなたに伝えたいのは、死ほどの大嘘はないということだ。それでもなお、死は本当のように見える。死は本当のように見えるだけでなく、生の基本的事実のようでもある――あたかも生全体が死に取り囲まれているかのようだ。死について忘れようが、無関心になろうが、どこにいっても死は私たちの身近にある。死は自分たちの影以上に私たちの身近にある。

 私たちの生は私たちのもつ死への恐れを土台にして構築されてきた。死への恐れは、社会や国家や家族や友人たちによって作りあげられてきた。死への恐れが私たちに金を追い求めさせ、より高い地位への野心を持たせてきた。そして中でも最も驚くべきは、私たちの神々や寺院もまた、死への恐れから生まれてきたということだ。死を恐れて祈りに跪く人びとがいる。死を恐れて空に向かって手を合わせ神に祈る人びとがいる。そして、死以上の虚偽はない。だから、どのような生のシステムを私たちが作り上げてきたにせよ、死は真実だという信じ込みを通じて作った以上、すべては偽りとなった。

 しかし、どうしたら死が偽りだとわかるのだろう? どうしたら死は存在しないとわかるのだろう? それを知るまでは、私たちの死への恐怖も去らない。死が偽りだと知るまでは、私たちの生は偽りのままだ。死への恐れがある限り、本物の生はありえない。死の恐怖に怯えているうちは、自分の生を生きる力を呼び起こすことはできない。死の影が永遠に消えてしまって初めて、人は生きることができる。恐れ震える心がどのように生きられよう? 死が一秒ごとに近づいているように思われるとき、どうして生きることが可能だろう? どうして生きられよう?

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https://rekisi.info/ryuukonroku.html 【吉田松陰の遺書・留魂録】より

 留魂録(りゅうこんろく)とは、吉田松陰が死の2日前の10月25日に書き始め、翌日の26日夕刻までに書き上げた弟子たちへ宛てた遺言です。

 全16節、5000字という長文の遺言ですが、その内容を少し見ていきましょう。

 まず、冒頭には「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂」と辞世の句が綴られています。この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、日本を思う魂だけでも、この世にとどめて置きたい。という松陰の思いが込められています。

 次に松陰は「志誠にして動かざる者は、未だこれあらざるなり」(意味:誠意を尽くして事にあたれば、どのようなものでも必ず動かすことができる。逆に不誠実な態度で事にあたれば、何ものをも動かすことは決してできない)という孟子の言葉を胸に真心が伝われば幕府の役人もわかってくれるであろうと考え、まだ発覚していない老中暗殺計画などを話したが何も変えることはできなかった。しかし、誰も恨むことはない。自分の徳が薄かったためのことだと思う。と、投獄された経緯を語っています。

 それから松陰は、弟子たちに向けて出来る事なら自分の意思を受け継いで欲しいといった言葉を書き綴ります。「私は三十歳で、すでに四季は備わっており、また花咲き実は結んでいるはずだ。それが実のよく熟していない籾殻なのか成熟した米粒なのかは、私の知るところではない。もし同志の中でこの私の心あるところを憐れんで、私の心を受け継いでくれるものがいるのであれば、それはまた種子が絶えないで、毎年実ることと同じことだろう。同志よ、そうしたことをよく考えてほしい」と人間の一生を四季に当てはめ自身の思いを書き残しました。

 そして、最後に「かきつけおわりて後」とし、歌を五首並べています。

 「心なることの種々かき置きぬ重ひ残せることなかりけり 呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな 討たれたる吾れをあはれとみん人は君を崇めて攘仏へ 愚かなる吾れをも友ととめづる人はわがとも友とめでよ人々 七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや」

 (もう思い残すことはなにもない 役人の呼び出しの声を待つほかに、今の世の中に待つべきことはない 処刑される私を哀れと思う人は天皇を崇めて外国人を追い払ってほしい 愚かな私を友としてくれる人は諸君で結束してほしい 7回生き返ろうとも外国を追い払うという心は私は決して忘れない)

 7回生き返るというところは、足利尊氏に敗れた楠正成が自害する際に「七生滅賊」を誓ったことに、松陰自身を重ね合わせています。

 この松陰の遺言である「留魂録」は確実に弟子たちの手に渡るよう2通作られ、1通は弟子たちへ送られ、その後、彼らは奮起し明治の近代日本を作り上げていくことになります。もう1通は同囚の沼崎吉五郎に託され、それが今日に伝わっています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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