https://news.yahoo.co.jp/byline/yamamurajyunya/20210515-00238078 【京都の「葵祭」はなぜ1400年続いてきたか】より
京都御苑を歩く葵祭「露頭の儀」(2021年は中止) ※以下の写真も全て著者が撮影
葵祭は正しくは「賀茂祭」といい、欽明天皇(6世紀中頃)の時、凶作に見舞われて飢餓疫病が流行した時に、天皇が水を司る神であった「鴨の神」の怒りを鎮めるため、勅使を遣わせて祭礼を行ったのが起源とされている。
その際に行われた祭礼は、馬に鈴をつけ、人は猪頭を被り、駆け比べをするという盛大なものであった。それが現在のような形となったのは、貞観年間(859~876年)だったとされている。
このことから、葵祭の原型は、下鴨神社の流鏑馬神事(5/3)や上賀茂神社の競馬会神事(5/5)で行われる「馬を走らせる」部分に見ることができる。
形は変われども、とにかく1400年以上もの長きに渡って続いている日本でも稀有な祭りである。なぜここまで(途中の中断があったにせよ)続くことができたのか。
一つ目の理由は、「勅祭」という位置づけだ。現在日本には八万以上もの神社があるが、そのうち「勅祭」を行っているのはたった十六社。さらに三勅祭と呼ばれる格式を誇るものは、春日大社、石清水八幡宮、賀茂社(上賀茂神社、下鴨神社)の祭りだけだ。当然ながらその継続には朝廷からの最大限の配慮があったであろう。賀茂社はそもそも平安京遷都の際に、秦氏の氏神を祀る松尾大社とともに王城鎮護の社とされ、優遇されてきた。
二つ目の理由は、そもそもこの祭りを行ってきた「賀茂氏」の存在ではないだろうか。賀茂一族は京都に古くから拠点を置いた名門一族で、鴨川の上流を拠点にして京都の水を支配した。
平安京遷都後、賀茂一族は王城鎮護に指定された賀茂の社を守ることはもちろん、朝廷の中でも陰陽寮を任されることとなり、多くの陰陽師を世に送りした。そのうちの一人が賀茂忠行、保憲父子が育てた安倍晴明だ。晴明は賀茂一族から天道を学び、極めていくこととなる。
晴明神社の安倍晴明像。賀茂氏との関りはあまり知られていない
平安末期から鎌倉初期の時代の狭間に活躍した鴨長明は、文字通り鴨一族であり、朝廷に仕えて和歌の世界でも活躍した。結局その方面では頓挫し、余った時間に任せて執筆を行ったのが、名著として今もなお読み伝えられている『方丈記』だ。
室町時代に入ると、朝廷、貴族の時代は過去のものとなり、武士が台頭した結果、最終的には徳川家康が江戸幕府を開くこととなる。その家康が家紋としたのが三つ葉葵。これは賀茂社の神紋(二葉葵)であったものを、賀茂信仰に厚かった家康(徳川家の前の松平家が賀茂社の神官とも)がアレンジしたものとされる。当然ながら賀茂社や葵祭は徳川家からの援助を受けることとなった。
江戸時代には賀茂真淵などの文学者が現れ、近世では賀茂一族の鴨脚(いちょう)家が、御所の水の管理を行ってきたことも知られている。
このように葵祭が長きに渡って継続されてきたのは、その時代時代に祭りを担当した賀茂一族が没落することなく生きながらえ、新たな時の権力者から援助受けるなどの「縁」にも恵まれて、こうして現代に受け継いできたからだと言えよう。
https://chikusai.exblog.jp/31530813/ 【「をかし」な家#11(京都編) 上賀茂神社 水辺の風景】より
上賀茂神社は平安遷都以前、この地を支配していた賀茂氏を祀る神社である。
境内には、賀茂川を源とする明神川、そこへ合流する御手洗川と御物忌川の清らかな流れが数千年の時を越えて流れている。
石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ
鴨社歌合とて人々よみ侍りけるに、月を……鴨長明
"源の光行主宰の賀茂社奉納の歌合ということで歌合がありました時、私の詠んだ「月」の題の歌を詠みましたところ、判者だった源師光入道が、「このような川はありはしない」と言って、負けとなりました。思うところがあって詠んだのですが、こういう結果になったので不審に思っておりますうちに、「その時の判者には総じて理解できないことが多くある」ということで、また改めて顕昭法師に判をさせました時、この歌の箇所に判をしていうには、「『石川・瀬見の小川』というのは、全く聞き及んでおりません。ただし、この歌はおもしろく続けている。このような川などがあるのでしょうか。土地の者に尋ねて勝負を決めよう」として、結論を出しませんでした。
後に顕昭法師に会った時、このことを話題に出して、「これは賀茂川の別名です。賀茂社の縁起にあります」と申したところ、顕昭は驚いて、「うまい具合に強く批判しないですませましたよ。それでも、この私が聞き及んでいない名所がありはしないと思って、ともすれば批判をしそうに思われたのですが、誰の歌とは知らないが、歌の姿がなかなかよく見えたので遠慮してあのように申したのです。これはまさに年の功です」と申しました。"
この逸話は当時の歌合せを想起させる出来事である。長明の物知り、勉強家ぶり、勝負事に一歩も譲らない気の強さを彷彿させる。後日、この歌は『新古今和歌集』に入れられた。
"賀茂神社の末社の岩本・橋本の祭神は業平と実方である。人が二社の祭神をよく混同するので、ある年参拝したおりに、とおりかかった年配の神官を呼びとめて、このことについて尋ねたところ、「実方を祭ったのは、御手洗にその面影が映ったところということなので、橋本でしょう。このほうが岩本よりも水辺にあるので、そのように思います。吉水の和尚が、
月を賞し、花をながめた遠い昔の風雅な人は、ここに神となっておいでの在原業平です。とお詠みになった場所は、岩本だと聞いておりますが、私どもよりはむしろ、あなたのような方がよくご存じのこでございましょう」と、実に謙虚に語ってくれたのには感心させられた。"
吉田兼好『徒然草』より
兼好は長明に遅れること128年後に生れた人物。『枕草子』を読んでいたことは間違いないので、おそらく長明の『方丈記』なども読んでいたことと思う。兼好は歌人でもあったので岩本社(在原業平を祭る)に関心があったのだろう。実方は清少納言と同時代の人で、一条天皇に「歌枕見て参れ」と陸奥に左遷された。「橋本社」は橋殿の西、明神川の畔に鎮座。
いわゆる外出自粛が明けた日、古くから所有していたズームレンズが
デジタルカメラでどういう写りをするのか知りたくなり、試写のため鴨川の堤を北へ北へと向かって歩いた。
府立植物園に差しかかり、たまには花でも撮ってみようか、と正門に向う。ところが正門にはお年寄り(ワシもその一人)ばかりが数十人並んでおり、体温を測り終えるのを待っている。これは待っておれん、園内は広いとはいえ、花よりも人の数の方が多そうな気配がする。
そして、またまた歩いてたどり着いたところが、北の外れの上賀茂神社であった。 普段気にしたことがない建物を撮影。
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