那須連山

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%B2%B3 【那須岳】より

那須岳(なすだけ)は、広義には栃木県北部に位置する那須連山の総称[1](特に茶臼岳や朝日岳、三本槍岳三山の総称)[2]。狭義には那須連山の主峰の茶臼岳(標高1,915m)をいう[1]。那須火山帯の南端に位置する。深田久弥の日本百名山の一つ[1]。本項では那須五岳や那須連山について記す。

概要

那須岳は栃木県の最北端に位置する[2]。日本百名山の著者である深田久弥は書中に『那須岳とは那須五岳の中枢を成す茶臼岳、朝日岳および三本槍岳のこと』と記している。

主峰の茶臼岳(栃木県那須郡那須町、標高1,915m)は関東地方を代表する活火山で、噴火口の「茶臼の釜」からは蒸気と火山ガスを盛んに噴出している[1][2]。茶臼岳の山頂の西側には噴火口を望む「無間地獄」がある[2]。茶臼岳の国有林は「茶臼岳自然観察教育林」に指定されている[1]。

標高が最も高い地点は三本槍岳(1,917m)で主峰茶臼岳の山頂より2m高い。茶臼岳と三本槍岳は山頂部が丸く、鋭鋒は朝日岳のみである。また、茶臼岳と朝日岳は山頂部が全体的に岩場であるが、三本槍岳は山頂部がほぼ土と砕石の堆積した斜面で草木も生える。

那須岳の主な峰(那須五岳)

茶臼岳(栃木県那須郡那須町)

標高1,915m。噴気あり。山頂部は非常に広く、噴火口に近い区域は硫黄の臭気が漂う。山頂部に緑は殆ど無い。

朝日岳(栃木県那須郡那須町)

標高1,896m。最も峻険な山体を有する鋭鋒。山頂部狭い。山体は岩場やガレ場が多い。山頂部に緑は殆ど無い。

三本槍岳(栃木県那須塩原市、福島県西白河郡西郷村)

標高1,917m。那須岳の最高峰。低木など緑も見られる。三本槍岳という勇壮な名称を冠するが、実際には山頂部は丸く狭い。

南月山(みなみがつさん)

標高1,776m。

黒尾谷(くろおや)岳

標高1,589m。

火山活動史

那須火山群は約60万年前から活動が始まり、まず始めに北側にある甲子旭岳が60万年前から噴火した。次はそのやや南側にある三本槍岳が40万年から25万年前に噴火し、20万年前から5万年前までさらに南側の朝日岳と南月山が活動した。これらの火山は流動性の少ない安山岩質溶岩以外に、流動性の良い玄武岩質溶岩も噴出し、現在見られる広大な裾野を形成した。現在噴気活動をしている茶臼山は3万年前から活動しているが、この山は流動性の少ない安山岩のみを噴出しているため、こんもりと盛り上がった溶岩ドームになった。有史後の噴火は爆発型で泥流を生じやすく、1408年から1410年の活動では茶臼岳溶岩ドームが形成されると共に、噴出し降下した溶岩による火砕流が発生し、犠牲者180余名を出したとの記録が残る。以降は小規模な水蒸気噴火や地震群発を繰り返している[3][4]。

現在、那須岳の活発な火山活動は、周辺にたくさんの温泉を噴出させている。有毒な火山ガスを出して近づく生き物を死に至らしめる場所もあり、とくに殺生石は有名で、周辺は公園化しており、駐車場も整備されている。ただし、殺生石の周りは危険につき立ち入り禁止である。

「殺生石」も参照

なお本火山は火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている[5]。

登山

毎年、5月に開山祭、11月に閉山祭が行われる[2]。

峠の茶屋

峠の茶屋は那須岳の登山口であり自動車で行くことができ駐車場がある[1][2]。峠の茶屋には登山指導センター(登山カード投入所)がある[2]。

那須山麓駅から栃木県道17号那須高原線(旧ボルケーノハイウェイ)をさらに上ると那須岳登山口『峠の茶屋』(標高1,462m)に着く。東野バスの路線バス(那須塩原駅・黒磯駅 - 那須山麓駅間)利用の場合は那須山麓駅から徒歩で20分前後で到達できる。マイカーはこれより先には進めない。この駐車場から那須岳に続く登山道は、最初広葉樹が生え木製の階段と土、ところどころに岩の段差などがある道であるが、やがて岩と小石の道となり木々も少なくなって見晴らしが良くなる。坂もさほど急ではなく岩には要所要所にペインティングがあるので初心者や子供連れでも問題なく登れる。ただし大小岩石の道が続くので落石させないように注意して歩く必要はある。登山道の北側は急な谷であり、その向かい側には朝日岳の鋭鋒が見える。

登り続けると茶臼岳から下りて来て朝日岳方面に向かう尾根道に合流し、『峰の茶屋』(標高1,678m)に着く。峰の茶屋は茶臼岳、朝日岳方面、三斗小屋温泉方面の各登山道の分岐点でもある[2]。

那須ロープウェイ

茶臼岳を目指す場合、那須ロープウェイを利用すると、終点の那須山頂駅が茶臼岳9合目にあり山頂駅より茶臼岳山頂まで1時間弱で到達できる[2]。

ロープウェイは最終時間を過ぎると無人になり、登山時に稼働していても強風時や雷の接近時など悪天候の場合は最終時間前に運休となるため山頂付近での天候急変には注意を要する[2]。

平地と山頂付近では約10度ほど温度差がある[2]。軽装のまま茶臼岳を目指す観光客も少なくなく、中にはサンダル履きや日傘を差しての散策者も見られるが、足元には火山礫の大小の岩石が多く歩き難い上、(2002年以降の新装ゴンドラは強風対策の制振装置が搭載されたとはいえ)強風など天候の急変でロープウェイが運休となることも考えられ、下りは歩いて帰る事態も想定してロープウェイ利用時であっても歩き易い運動靴を履き適切な飲食物を持参するのが望ましい。なお、山頂駅では登山靴を貸し出している。

マイカーの場合、国道4号または東北自動車道那須インターチェンジ利用で栃木県道17号那須高原線(那須街道、ボルケーノハイウェイ)に入り、那須湯本、那須高原、大丸温泉、そして那須ロープウェイの那須山麓駅を目指す。殺生石、弁天温泉、大丸温泉を通過してさらに登ると那須山麓駅に着く。

高山植物

那須岳は2000mに満たない山であるが、涼冷かつ保水性は低いが日照がよい砂地土壌のため高山植物が豊富。尾根筋にはハイマツが茂り秋にはリンドウの紫が目を引く。少し下るとあちこちにアズマシャクナゲの群落があり、那須温泉郷の周辺は各種のツツジが咲く。


https://nattoku-travel.com/%E8%8A%AD%E8%95%89%E3%80%81%E9%82%A3%E9%A0%88%E3%81%AE%E6%97%85%E8%B7%AF-2/  【芭蕉、那須の旅路】より

松尾芭蕉が、那須町に滞在した5日間を残された資料と共に足取りを解説。

高久家滞在

 芭蕉(当時46歳)は、元禄2年(1689)4月16日、13日間を過ごした黒羽を発ち、一路那須温泉に向かいます。お弟子さんの「曽良」が残した随行日記には、昼頃、馬にて黒羽の余瀬を出発したが、野間で馬を返したなどと書かれています。この途中で作られた俳句が有名な「野を横に馬牽きむけよほととぎす」です。

 余瀬から高久家までは4里(16km)の道のりと記されています。高久家(大字高久甲)では、角(覚)左衛門(28歳)に迎えられます。若い当主ながら、角(覚)左衛門は、黒羽藩の大名主です。年の違う二人はどんな話をしたのでしょうか。

 この日の朝、天気は良く、やがて雨になったようです。芭蕉が角(覚)左衛門に与えたとされる懐紙が当家に残っていますが、それには、「殺生石を見ようと那須の篠原をたずねてきたが、雨が降り出してきたので、ここに留まることにした」というようなことが書かれています。そして芭蕉(風羅坊)の発句と曽良の脇句が下記のように残されています。「落ちくるやたかくの宿の郭公 風羅坊」「木の葉をのぞく短夜の雨 曽良」高久家では次の17日も雨で天気に恵まれませんでした。芭蕉と曽良はここに二泊し、18日の昼頃、雨が止んだ空の下、那須殺生石へと高久家を後にしました。松子まではやはり馬に乗ったようです。昼過ぎは快晴だったようですから、芭蕉は馬上から那須連山をはっきりと見たのではないでしょうか。やがて芭蕉は徒歩で湯本へと向かいました。

高久家に伝わる 「芭蕉懐紙」

浮世絵版画 「九尾の狐」 作=歌川国貞 

湯本滞在(那須湯本 那須温泉神社)

「湯を結ぶ誓いも同じ岩清水」

 18日の、午後早いうち(3時頃ヵ)に湯本に着いた芭蕉は、現在の民宿街の和泉屋(主人は五左衛門)に草鞋をぬぎ18、19日と宿泊します。この両日は天気に恵まれ、芭蕉は曽良とともに、那須温泉神社を訪れ参拝し、神主の室井越中に迎えられて、那須与一ゆかりの宝物などを観覧しています。ここでは「湯を結ぶ誓いも同じ岩清水」の俳句を残しています。

湯本滞在(那須湯本 殺生石)

「石の香や夏草赤く露あつし」

 午後には、五左衛門の案内で殺生石を見学しています。「殺生石」は、その物語性のおもしろさから、室町時代には謡曲(お能)、やがて浄瑠璃、歌舞伎でも上演され、江戸の文化元年(1804)に、高井蘭山により大作「絵本三国妖婦伝」が出版されるに及んで、世間に広く知られるようになりました。芭蕉は、文化元年のこの出版物は読んではいませんが、博学の芭蕉は、室町時代の「下学集」「玉藻の草紙」その他の文献に目を通していたのではないでしょうか。芭蕉の湯本への旅の中心目的はこの殺生石にあったのですから。「おくのほそ道」には、この殺生石の光景を次のように活写しています。「石の毒気いまだ滅びず。蜂蝶のたぐい真砂の色の見えぬほど重なり死す」また、「おくのほそ道」には収録されていませんが、この地で次の名句が造られています。「石の香や夏草赤く露あつし」。

芦野の里(那須芦野 遊行柳)

「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」

4月20日(新暦の6月7日)の朝、芭蕉は和泉屋を出て、一路芦野の里に向かいます。曽良の随行日記には、小や村とウルシ塚を通り、計5里余り(20Km少々)で芦野に着いたと記されています。しかし、どの道を通ったかは定かではありません。曽良は、「湯本ヨリ総て山道ニテ能く知レズシテ通リ難シ」などと記しています。今では、想像もつかない、道無き道だったのかもしれません。「おくのほそ道」では、芦野について8行ほど費やしていますが、この8行がいろいろな情報を与えてくれます。19代芦野領主が芭蕉の門下であったこと、領主は「遊行柳」を自慢して、芭蕉に一見を勧めていたらしいこと、そして注意すべきことは、芭蕉が、「遊行柳」とは言わず、「清水流るゝの柳」と呼んでいたことです。まさにここにこそ、西行法師に対する芭蕉の深い敬慕の念が表れているのです。すなわち、西行の名歌、「道野辺に清水流るゝ柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ」の「清水流るゝの柳」をとっているのです。 芭蕉は、少なくとも、昼頃には、この「清水流るゝの柳」に着いたと思われます。芭蕉一行を案内したのは、当地の茶屋松本市兵衛なのですが、この時、領主や芦野氏家来がどのように関わったのかは、残念ながら資料がなく分かっていません。芭蕉は、「どこにあるのかなと思っていたが、今日やっと、この柳の影に立つことをえた」という意味の文章を、次の名句とともに残しています。「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」。芭蕉は、ここから寄居村を経て宿泊地へ、4里少々(約17Kmヵ)の道のりを旗宿村へ向かいました。


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