Facebook・草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事 ふたつの果実
ある暗い夜のことだった。雲で覆われた空に雷鳴がとどろき、稲妻が走っていた。ひとりの若者が稲妻の光をたよりに行く手を探しながら、ある小屋にたどりついた。そこは、老いた賢者が一生を過ごす場所だった。
若者はしばらくドアの前に立っていたが、それから恐る恐るノックした。
それに応えるように、中から声が聞こえた。「そこにいるのはだれだ。なにを探しているのだ」。
「私はじっさい、自分がだれなのかわからないのです。そして、もう何年も幸せを探し求めてさまよっています。そうやって探すうちに、あなたの小屋にたどり着いたのです」。
中から笑い声が聞こえた。
「自分を知らない者がどうやって幸せを見つけられるというのだ? それでも自分を知らないということを知っている君は十分に知っているとも言えるな。ドアをあけてやろう。ただし、覚えておくがいい。誰か別の人のドアが開いたとしたら、それは君のドアではない」。
こうして賢者は若者を招き入れた。自分の前に立っている老いた僧の眼差しに触れて若者は思わず足にひれふした。「幸せとは何なのですか?どうか教えてください」。
「親愛なる者よ。幸せは自立の中にある。君が自立した途端に幸せがあふれ出すだろう。他人に頼って幸せを探すなど馬鹿げたことだ。実際、幸せを探すことなど馬鹿げている。外に存在するものは探し求めることはできるが、自分の内側にあるものをどうやって探し求めるというのだ?」
それから老いた僧は、ふたつの果実を見せて言った。
「君にこの果実をあげよう。この果実にはどちらにも魔法の力がある。一つ目の果実を食べると、君は幸せが何かを理解する。もし二つ目の果実を食べたら、君は幸せになる。だが、どちらかひとつしか食べることはできない。片方を食べると、もうひとつは消えてしまうからだ。そして、もし二つ目の果実を食べることにしたら、幸せがなんであるかを理解することはないだろう。さあ、君が決めるのだ。どちらを選ぶ?」
若者は少しためらってから言った。「私はまず、幸せがなにかを知りたい。それを知ることなしに、幸せをどうやって見つけられると言うのですか」。
僧は笑い出した。「君の探求がなぜこんなに長くかかったかわかったよ。いやいや、これからも幸せが見つかることはないだろう。幸せがなにかという知識を探すことは、幸せを手に入れることとは違うんだよ」。
●内側にあるものを外に追い求めるかぎり見つかることはないですね。ふたつの果実は、私たちの前にもあるようです。選択しているのは、いつも私たち自身・・・。
Facebook・宇宙の子 マサさん投稿記事【自我を超えた、より大きなものの中に生きる】
今日は僕が感じている、自我の向こうにある命の鼓動について。
『海のゴミ』と言うと、ネガティブな問題として捉えられている思います。
確かに雨季のバリでは、日本では絶対に見ることのない量のゴミが日常的に流れ着きます。
初めは苦しい。何をどうしたら事態が動いていくのか、まったく分からない。
けれど必死に、どうしたらいいかアイディアを出して試行錯誤して向き合っていると、状況が打開され、一段階開ける時が、その時々でやってくる。
時にそれは、バリの新聞やテレビに取り上げてもらったり、バリやインドネシアのみんながくれる、優しさや言葉だったりする。
その時に、ふと、すべてが報われると言うか、『人生を懸けてみたいな』と、それくらいの価値のあるものだという実感に満たされる。
自分を、自我を忘れられるようなものと向き合えている時に、人生の中でなかなか出会えないような、大きなよろこび、生きがい、命の鼓動、と僕は出会えることが出来る。
日本と言う国は、僕にとっては安心できる素晴らしい故郷だけど、僕の場合は、まだ、ここではどうしても自我に自分に必要以上に固執してしまう。
けれど、どうしたらいいのか、手も足も出ないようなものと向き合っている時に、僕は自分を超えた、何か、より大きなものの中に生きている感覚や使命感を得られる。
僕にとっての現在のそれが、バリの海の掃除です。
バリへは【12月渡航】を目標に準備を進めています。
時が来ましたら、また応援をよろしくお願いします✨
📸写真はNHK WORLDでも世界に放送された宇宙の子マサ撮影の映像から。
Facebook・小早川 智さん投稿記事
https://news.yahoo.co.jp/articles/d0f77b00f03accf98c28e89d1bfe0bc77fa3c109?fbclid=IwAR3IJWYEp7f5e7PQYVWxgZw1704ST9hyS7AhB_trvXF7m4nUSdfbqgCqRVI 【稲垣えみ子「ワクチンを打たない人への攻撃、マスコミが加担していませんか?」〈AERA〉】より
元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。
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ワクチンを打たない人に対する偏見的な扱いについて、問題提起したい。
前にも書いたが、ワクチンを打つか打たないかは任意であり、それぞれの事情や信条、ライフスタイルによって、それぞれの人がそれぞれの責任で決めることである。
勿論(もちろん)、新型コロナウイルスの感染を防ぐという一点に注目してみれば、打つ人が多い方が良いという考え方は理解する。だが、コロナの問題は世に数多(あまた)ある大問題の一つであり、それを解決するには他の問題は無視して良いということではないはずで、絶対的な答えなどない。また、感染防止に必要なのはワクチンだけではない。個人が取る行動全てが関わってくる。
なので、打たない人への一方的な攻撃、まるで社会悪であるかのような決めつけは、常軌を逸した行動だと私は思う。職場差別となれば明確に問題だ。
私の周辺でも、会社から事実上接種を強制されているという声をよく聞く。もし非接種を理由に仕事を奪われるともなれば死活問題で、誰かの命を守るためといって誰かの暮らし(命)を奪うことをどのように正当化できるのかといぶかしく思う。
で、こうした行動の背景にマスコミの言動があるのではないかと私は疑っている。
ワクチンを打たない人は「デマを信じている人」「ありもしない心配をしている人」「陰謀論者」と決めつける報道はあまりに一方的である。本誌でも「他人に感染させる可能性があることには無関心」という文言に接し、ひやりとした。
最近つくづく思うのだが、我らがコロナで失った最大のものは、行動制限より何より他者への信頼ではないのか。何が正解かわからぬ世界に怯(おび)え、ゆえにわかりやすい正解に飛びつき、そこから外れる人を許さない。そうなってしまう気持ちはわかる。というか私も多分そうなっている。
でも、その先に待つのは心の牢獄だ。この先、行動は自由になっても心が不自由なままであったなら、それは本当の自由と言えるのか?
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