http://www.soseinippon.jp/taidan/2016/201608.html?fbclid=IwAR0OjEEVqm9jvb0XacoXFyqhGB96Jx0-4WljNov2WcKV_-1ksnPxxHrBO4I 【素晴らしい日本人に聞くシリーズ】より
「土蜘蛛の精」のお話
藤原美津子:「土蜘蛛の精」は世界的に上演してもいいくらい、華やかな場面がありますね。投げる蜘蛛の巣は、すごい見せ場になります。
石山裕雅様: 誰が見ても「どうやってやっているのだ?」と興味をそそられる演出だと思います。いわばマジック神楽なのです。ただ、私はそんなに好きではありません。
先述の「幽顕分界」等の方が、覇権を争っているので、騙し合いや、色恋もあったりして、話が非常に深く、真理があって面白いのです。ただし、心理劇になればなるほど会話は多くなりますが、セリフではなく和製パントマイムの「手事(てごと)」をいろいろ使いますから、分かる人でないとつまらないかもしれません。
藤原美津子:やはり、意味が分かる方が数段楽しいですから、解説が欲しいところですね。 「土蜘蛛の精」では、石山様が製作を依頼したという「土蜘蛛」の面(おもて)がとても印象に残っています。
見せ場の蜘蛛の巣
石山裕雅様: 通常、「土蜘蛛」で使われている面(おもて)は「しかみ」という、しかめっつらをしている顔なのですが、それですと神楽では物足りないと考えて、鬼のような様子にしたのです。能で「獅子口」という面(おもて)があるのですが、その中で私が良いと思ったものをベースにして、顎をもっとしゃくらせ、角を付け、新たな面(おもて)を作りました。角の生え方にもこだわっておりまして、よくある鬼の角の角度ですと敵を突けないと思いました。ですから、先端を下向きにして敵に向かう刃というかたちにしたのです。
藤原美津子:すごく迫力がある面(おもて)ですね。遠目で見ても、怒りの形相がよく分かります。
石山裕雅様: 「土蜘蛛」の話は、本来、土着の民を征伐したという理不尽な話です。「土蜘蛛」の方が先に仕掛けてきたから征伐したという脚色で、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)で楽しめるようになっていますが、本来はむしろ可哀想な話なのです。歴史というものはあくまで勝者の歴史であり、勝者が正当化されています。ですから、この怒っている顔には、「何故、私たちを」という深い悲しみも潜んでいるのです。そういう思いも込めた造形です。
藤原美津子:これは、新しい時代を開いた面(おもて)ですね。
石山裕雅様: 一方的に退治されたくないという「土蜘蛛」の主張が、蜘蛛の巣をまくという行為にもなっている。必死な抵抗をしているお話なのです。
藤原美津子:その場面は舞台ではすごい見せ場です。やはり、面(おもて)の持つ役割というのはすごく大きいですね。
石山裕雅様: 「人形は顔が命」というのと同じで、神楽も仮面劇ですから、面(おもて)が演出をすべて決めてしまいます。面(おもて)をつけないとその役にならないわけですから、御神体みたいなものですね。
石山様が製作を依頼した「土蜘蛛」の面(おもて)
第4章 次世代へ繋げていく
名人の見立て
藤原美津子:以前にお伺いしたのですが、面(おもて)にも出来の良い悪いがあるそうで、それはどういうところで見分けるのですか?
石山裕雅様: やはり、目です。
ただ、良い面(おもて)と悪い面(おもて)の違いというものは、例えばラーメンの美味しさを完全に言葉で説明しきれないように、言葉の限界があって説明するのが難しい。しかし、パッと見た時に分かる、つまり勘(かん)なのです。それと、出会いを感じられるか否かでしょうね。良いものとの出会いでは、「これは私に使って欲しくて、私を待っていた」というような感覚を持つものです。
藤原美津子:千利休が茶器の見立てをした時のように、「名人の見立て」というものがあると思うのです。どうしてこの茶器が良いのか、言葉ではうまく説明できないけれども、きっとそういうことなのでしょうね。
石山裕雅様: 出会った瞬間に、そのものの本質と、可能性や将来が見えるということでしょうか。
藤原美津子:素晴らしいですね。
稽古場では、面(おもて)がまだ新しすぎるからと、わざと日に当て焼けるようにして置いているところも拝見しました。
石山裕雅様: 日本人の美意識として、こういうものは古ければ古いほど良いとされます。面(おもて)は使われることで、人の汗や息で水分を吸い、それが表面に浮いてきて、時代と共にだんだん色が落ち着いていくのです。
百年くらい経つとちょうど良い感じになります。それを過ぎて黒くなり過ぎてしまうと、塗り替えたりすることもあるのですが、そうすると価値は落ちてしまいます。
「どんなに技術があっても、時代は超えられない」という言葉があります。百年の古さは作れませんし、結局、百年経たものの方が良く見えるということです。ただし、これは使っていてこそで、博物館のようなところで飾っていたのではダメなのです。
藤原美津子:使っていないと、命が吹き込まれないということなのでしょうね。面(おもて)として人と一緒に舞っていて初めて、そこに命が吹き込まれるのですね。
石山裕雅様: 本来、飾るものではなく、舞台で使われるものですから。また、部屋の中では良く見えても、舞台で着けた際に思ったより良くない、ということもあります。すぐそばで見るのは作っている職人の視点ですが、本来は遠くから見るものですから、舞台でこそよく映えるべきなのです。
次世代へ引き継ぐために
藤原美津子:石山様は、息子さんが生まれてすぐ「この子が十一代目です」と宣言し、命名の時からずっと仲間のみなさんに知らせておられますね。私はこういうことがすごく大事だと思っています。
石山裕雅様: 石山家の「里神楽」はもちろん残していかなければいけませんが、私は息子にただ引き渡すだけでは無責任だと思っています。私の父は農家も兼業でしたが、私は父と違うことを行い続けて、今では「里神楽」専業の体制を作りつつあります。この体制をある程度成り立つようにしてから息子に渡したい、と考えているのです。
「子は親を選べない」という言葉がありますが、私はそう思っていません。むしろ、子は親を選んで生まれてきた。幽界のようなところで、使命をおび、「あの家に生まれなさい」というようなことがあったに違いないと考えているのです。子供は必ず意味があって、そこの家に生まれている。
藤原美津子:私の会でも「天命」ということを教えています。天から命じられた使命のことです。「天命」には三つあり、その人本人が持っている「天命」、どの家に生まれたかという家筋としての「天命」、そして、日本に生まれた日本人としての「天命」があります。
中でもどの家に生まれてきたかということは、実はものすごく意味があるのです。親の志を継ぐということ、先祖からの思いを受け継ぎ、次へと繋げていくことによって、自分も鎖の一つになっているのです。
石山裕雅様: 私も、子供には試されているという感じがします。
藤原美津子:石山様は、お七夜で命名するところから、お食い初め、みなさまへの初お目見え、お宮参りと、伝統行事をしっかりされています。私はそこに次世代に繋ぐということ、そして神への祈りを感じました。現代では伝統行事を省略する家庭も多いようです。しかし、それらを一つ一つ丁寧にすることで、その子の魂が育っていくのではないでしょうか。そういった積み重ねがその家の伝統を受け継ぐことになり、神様とも繋がり、守られ成長していくことになるのだと思います。
石山裕雅様: 私はある意味では、我が子を十一番目の人柱のようなものだと考えているのです。それは、古いものがどんどん捨てられていく時代の流れの中、伝統を残していくということは激流の中に一本の柱を立てるようなものだからです。普通の仕事で生きていくのとは一味違う苦しみがあります。しかし、石山家十代目までの人柱の DNAと思いを受け継いでいるのですから、それをよく理解させることが、生きていくための強い背骨を作っていくことになるはずです。
藤原美津子:人は決して自分一人で立っているのではなく、木で言えば根っこにあたる先祖や親たちが、目に見えないけれども支えてくれているのです。
石山裕雅様: ボクシングのチャンピオンの拳一つには、おそらくものすごくたくさんの人々の思いがのっているでしょう。だからこそパンチも重いし、簡単には倒れない。我々で言えば、笛のひと吹き、舞のひと足、、太鼓のひと撥であったり、それらが一般の人々より重く深くならなければいけない。そういう精神的な糧を宿らせつつ、「里神楽」を残していく道筋をしっかり固めてバトンを渡す、という段階にしないといけないですね。
石山様演奏
石山様演奏
そして絶対に一人ではやっていけませんから、いかに人に応援したいと思ってもらえる人間になるか、ということでもあります。
藤原美津子:その家に生まれてくることも、天命ですね。 私もそう思います。
石山裕雅様: 私も、子供には試されているという感じがします。
藤原美津子:これからが楽しみですね。石山様がおっしゃられたように、激流の中を立っているだけでなく、鮭のように遡っているのですから大変だとは思います。しかし、本来持っている力を出そうとしておられるのだ、と思っています。ますますのご活躍が楽しみです。
石山様のお子様のお話のときに、赤ちゃん誕生の際のしきたりの話が出ましたので、詳しくお知りになりたい方は、当会 「心を添えてこそ美しい 日本のしきたり」をどうぞ
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