https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/2576 【癌になって考えたこと】より
長谷川 櫂
二〇一八年は惨憺たる年だった。
はじまりはささいなことだった。朝日俳壇の新選者選びのゴタゴタに巻きこまれて慌ただしく過ごすうち、ふと気がつくと右太腿ふとももの外側に小さな突起ができていた。春のことである。
はじめは気にかけていなかったが、しだいに盛り上がってきて着替えやシャワーのとき、つい目がゆく。よくよく観察すると、海坊主がぬっと海から頭を出したようで、てっぺんが赤黒い。嘲笑っているような悪意あるものにも見える。
しばらく放っておいたが、前々から家内が慶應病院の皮膚科に通っていたので同じ日に診てもらうことになった。
「問題はないと思いますが、念のため摘出して検査しましょう」
指で押したり拡大鏡で覗いたりしていた若い大内健嗣医師はそういった。あとで知ったことだが、大内先生は金子兜太の担当医だった人である。
ここから回りくどくなるのだが、今後の話に関わってくるので書いておきたい。二〇一〇年の梅雨時だったか、毎週金曜日に開かれる朝日俳壇の選句会にゆくと、金子さんの左手首から甲にかけて皮膚が赤く爛ただれている。包帯はしているものの、数千枚の投句葉書をめくるのだから、ゆるんだ間から患部がのぞいて痛々しい。同じような赤い水疱が脚や胸にも広がっているらしい。
金子さんは「知り合いの医者に診みてもらっているんだが、病名もはっきりしない。お手上げの状態だ」と気のせいか寂しげにいう。慰めようもなく「熊本の皮膚科の名医を知っていますので、必要なときはおっしゃってください」といった。熊本は私の故郷である。
忘れていたころに家の電話が鳴った。「この前のお医者さんを紹介してもらえないか。熊本まで出かけたい」と受話器の奥から金子さんの真剣な声がきこえた。金子さんはこのとき九十歳だった。
私が「皮膚科の名医」といったのは当時、熊本保健科学大学学長だった小野友道先生のことである。早速、小野先生に手紙を書いて電話で相談すると、先生は「私が診てさしあげてもいいが、熊本まで来られるのは大変でしょう。慶應病院に名医がおられるので紹介状を書いておきます」ということだった。この「慶應病院の名医」が天谷あまがい雅行教授だった。
天谷先生の診断では金子さんの皮膚病は「類天疱瘡るいてんぽうそう」という聞きなれない病気だった。高齢者がかかりやすい免疫病で痒かゆみのある赤い斑点を放っておくと、水膨れが広がって皮膚が崩れ、悪くすれば死に至る難病なのだという。
早速、天谷先生の治療がはじまり、金子さんの類天疱瘡は快方へ向かいはじめた。その直接の担当医として金子さんの治療に当たったのが大内先生だった。
さて私は二〇一八年六月末、大内先生の指示で別の執刀医によって右太腿の突起の切除手術を受けた。肉片はすみやかに病理検査に回された。
この年の夏は記録的な猛暑だった。梅雨明けとともに炎天がつづき、街に出るとたちまち炎のような熱風に包まれる。
切除手術からひと月近くたった七月下旬、精密検査の結果を聞きに家内と病院に行った。まだ午前中というのに信濃町駅から慶應病院へ渡る横断歩道の、そして明治神宮外苑の森を越えて建設中のオリンピック・スタジアムへつづく青空の何とまぶしく輝いていたことか。
私は診察室に入るまで、不覚にも「異常なし」といわれるものと思いこんでいた。ところが大内先生の口から出たのは想像もしない言葉だった。
「皮膚癌でした。……もう一度、患部のまわりをきれいに切除しましょう。その前にPET検査を受けてください。転移が見つかれば、化学治療や放射線治療をすることになります」
二日後にPET検査、一週間後に複数の医師による総合診断という予定がすぐ決まった。総合診断で再手術と治療方針が話し合われる。
素人知識を披露すると、PET検査は癌発見の最新技術らしい。癌の患部は従来のレントゲン写真やCT検査では正確にとらえにくい。そこでPET検査は目印となる放射性物質を体内に注入し、癌細胞に吸収させて癌を探り出す。
細かくいえば癌細胞はブドウ糖が大好きなので、ブドウ糖に似た検査薬に放射性物質を仕込んで注射すると癌細胞に検査薬が集中する。こうして全身をPETカメラで撮影すると、癌患部に取り込まれた検査薬から出る放射線で癌が赤く炙り出されるのである。
CT検査と同じ狭いベッドに横になって白い百合の花のようなトンネルを出たり入ったりしながら撮影する。後日、私のPET画像を見せてもらったが、それは静寂をたたえた感動的な(!)画像だった。闇の中で人体が青く発光し、脳と腎臓だけが赤く染まっていた。どちらもブドウ糖が集中する臓器らしい。発光する深海生物のようでもあり、宇宙の彼方に浮かぶ星雲のようでもある。
総合診断の日、パンツ一枚になって診察室のベッドの端に腰掛けていると、白いカーテンの隙間から医師たちが次々に入ってきて、右太腿の患部に顔を近づけたり触ったり質問したりして、また白いカーテンの外へ消えてゆく。
男女二十人ばかりだったろうか。終わり近くに天谷先生が現れたので、思わず立ち上がって(パンツ一丁なのだから、なかなか変な格好である)、「金子兜太さんのときはありがとうございました」というと、「やあ、あなたでしたか。……(皮膚癌が)また見つかっても取れば大丈夫ですよ」といわれた。
PET検査で転移は見つからなかった。医師たちの総合診断の結果、八月八日に念のための再切除、半年後の一月に二度目のPET検査をすることが大内先生から告げられた。
再手術は患部を一回目より大きく切除し、内部と表面の二層で縫い合わせる。縫合直後の傷跡は鬼の口を黒い糸で縫って塞いだように見えた。ところが、傷口の中心部分が異物の糸に反応したのか、いつまでも腫れが引かないので、今年(二〇一九年)二月、三度目の切除を受け、肉片は病理検査に回された。
二度目のPET検査も三度目の病理検査も結果はどちらも陰性。ただ大内先生によると「診断がまだ確定していない状態」であり、完治ではないらしい。来年二〇二〇年一月に三度目のPET検査を受けることになっている。鬼の口のようだった手術の痕跡は、しだいに肉の奥へ消えてゆきつつある。
二〇一八年七月に皮膚癌と判明したときは自分でも驚くほど冷静だった。驚くほど、というのは癌にかぎらず深刻な病気とわかれば、ふつう誰でも驚くものと思っていたからである。すぐ思い浮かぶのは正岡子規である。
日清戦争の末期、新聞「日本」の記者だった子規は周囲の反対を押し切り、従軍記者の一団にまじって中国大陸、旅順りょじゅんに渡った。同じ世代の若者たちが戦場で命をかけて戦っているのに、自分一人、病気とはいえ何もせずにはいられない。明治二十八年(一八九五年)四月、満二十七歳のときだった。
ところが、往復の船や戦場でのひどい待遇のせいで、帰りの船中で大喀血し病状は一気に悪化する。翌年三月、医師の診断で脊椎カリエスと判明した。脊椎カリエスは肺にとりついた結核菌が全身とくに背骨、脊椎を侵す結核の末期的段階である。当時は死病だった。
そのときの心境を子規は郷里松山の高浜虚子への手紙にこうつづっている。
余は驚きたり。(略)医師に対していふべき言葉の五秒間おくれたるなり。
(虚子宛ての手紙)
しかし皮膚癌になってみると、「医師に対していふべき言葉の五秒間おくれたるなり」という子規の言葉が私には嘘っぽい演技のように思える。
人も生き物である以上、いつかは死ぬ。ただ漠然とそう思っていた死という人生の期限が、癌の宣告でいくらかはっきりしたくらいのことである。やれやれ、人生には思いも寄らぬハプニングが用意されているものだ。そうならば人生の最後まで見届けねばならない。
最後まで見届けるというのは、癌患者である自分に最後の瞬間まで寄り添うということである。俳人にとって世界で起こるすべては、自分自身や家族や友だちのことであれ、俳句の素材にすぎない。人生のある時期から、そう思って生きてきたのだし、これからもそうして生きてゆくだろう。
たしかに子規と私では状況が違いすぎる。病気の正体が判明したとき、子規は若いさかりの二十七歳、私はすでに六十四歳。それに子規は脊椎カリエス、私は癌といっても皮膚癌。こうした明らかな違いのほか明治と現代という時代の違いもあるのではないだろうか。
まぶしい七月のあの日、癌を宣告されたことは死そして生について、あらためて考える絶好の時間を私にもたらしたのである。
しんかんとわが身に一つ蟻地獄 櫂
(はせがわ かい・俳人)
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