俳人・与謝蕪村

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/categories/3486667/page/1?type=grid   【与謝蕪村】

https://www.hakkoudo.com/weblog/2021/04/30/0409/ 【俳人・与謝蕪村の生い立ち・作品の評価。俳句・絵画を融合した「俳画」創始者】より

与謝蕪村(よさぶそん)は松尾芭蕉・小林一茶と並び、江戸時代の俳諧の三大巨匠として有名です。蕪村の俳句は、写実的な手法と豊かな色彩感覚で表現されており、情景が浮かび上がるような絵画のような句と評されています。蕪村は画家としても才能を発揮し、数々の作品を残しました。作品の多くが重要文化財に指定されています。

また、俳句と絵画を織り交ぜた「俳画」というジャンルの創始者でもあります。

この記事では、そんな与謝蕪村の画家としての一面を中心に、生い立ちや代表作、作品の魅力についてご紹介します。

俳画、画家、俳人としての顔を持つ与謝蕪村のプロフィール

▲与謝蕪村が生まれた大阪都島にある碑

肉親、師を亡くし失意の若き日々

与謝蕪村は1716年、摂津国東成毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれました。蕪村は俳号で、他にも俳号・画号ともに様々な名前を使用していました。

10代で両親を亡くし、20歳で江戸を目指します。若き日の記録は少なく、蕪村の少年時代がしのばれます。

江戸では松尾芭蕉の孫弟子である早野巴人に入門し、俳諧を学びます。27歳の頃、巴人が亡くなったことをきっかけに江戸を去ることになりました。

10年に及ぶ放浪生活。敬愛する芭蕉の「奥の細道」のゆかりの地を訪ねる

江戸を後にした与謝蕪村は、僧の姿をして東北地方をめぐりました。

憧れであった芭蕉の『奥の細道』の軌跡をたどり、絵で宿代を支払いながら同門の俳人を訪ねるという、蕪村にとって修行の旅となりました。

1744年、28歳の頃、俳号として「蕪村」を名乗りはじめます。

10年に近い放浪生活を終え、42歳のときに京都へ定住をします。この頃、「与謝(よさ)」を名乗るようになりました。亡くなった母親の出身地・丹後与謝より名づけたといわれていますが、定かではありません。

40代以降は京都の寺院に保管されている古典絵画から絵を学び、絵画の制作に励みます。また京都に住む多くの俳人とも交流をしました。丹後の施薬寺には蕪村の作品「方士球不死薬図屏風」が残されています。

45歳で結婚し、ひとり娘を授かります。

晩年は俳画を確立させ多くの作品を残す

与謝蕪村は俳句に絵を入れる独自のジャンル「俳画」を確立させました。俳画の代表的な作品は「奥の細道図巻」です。松尾芭蕉の「奥の細道」を書き写し、そこに挿絵を入れたもので、現在では重要文化財に指定されています。

俳人としては、1770年、55歳で早野巴人の俳諧一派「夜半亭」を引き継ぎます。早野はのちに夜半亭宋阿(やはんていそうあ)と名乗り活躍しましたが、その死後、一門は解散。俳人・画家として蕪村の名声が高まっていたことから、後継に推挙されることとなりました。1777年に出版した句集「夜半楽」には、蕪村の代表作「春風馬堤曲」が収録されています。

また画家としての活躍も目覚ましく、1771年に池大雅と合作した文人画「十便十宜帖」は重要文化財に指定されています。その後も厳しい自然に耐える鴉と鳶を対で描いた「雪中鴉・風雨鳶図」や、山並みを背景に連なる家を描いた「夜色楼台図」など、精力的に制作します。

1783年、蕪村は68歳でその人生に幕を閉じました。このように晩年は、俳句、絵画、そして俳画と、多くの作品を残しました。

与謝蕪村の作品の特長。様々な画風で、親しみやすい作品を制作

与謝蕪村の作品の特長。様々な画風で、親しみやすい作品を制作

作品によって5種類の画風を使い分ける

10年に渡り東北を旅していた与謝蕪村は、絵で宿代を支払っていました。そのときどきで求められるままに描き、5種類の画風を使い分けたといわれています。

代表的な作品である「十便十宜図」は、文人画という中国の山水画を日本画風にアレンジしたもの。文人画の大家・池大雅との合作で、重要文化財として指定されています。

また「鳶鴉図」のような山水画のような筆使いの作品や、「夜色楼台図」のような不安定な線で描かれた作品、「山水図」のように写実的な作品、「奥の細道図巻」のようなユーモアにあふれる軽快な作品など様々です。

あたたかさと親しみやすさを感じるやわらかい描線

与謝蕪村は、代表的な俳句「春の海ひねもすのたりのたりかな」のように、目の前に情景が浮かんでくるような絵画的な句を得意としていました。俳諧では松尾芭蕉を敬愛し、夜半亭宋阿を師としていましたが、絵は独学であったと推定されています。

蕪村は多くの画風を使い分けていましたが、全ての作品を通して朴訥な描線や形のやわらかさが特長です。作品からは見る人が安心するような、あたたかさや親しみやすさを感じることができます。

与謝蕪村の評価。俳諧の三大巨匠として知られる

与謝蕪村の評価。俳諧の三大巨匠として知られる

▲与謝蕪村の墓所がある京都の金福寺

与謝蕪村は、今では松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸期の俳諧の三大巨匠として教科書にも取り上げられるほど知られています。しかし俳人として広く名が知れ渡るようになったのは死後100年が経ってから。明治の俳人・正岡子規の著書『俳人蕪村』によって紹介され、世間に認知されることとなりました。

また、昭和に入ってから詩人の萩原朔太郎も『郷愁の詩人・与謝蕪村』として取り上げました。

絵画は多くの作品が重要文化財に指定されるなど、日本画の最高峰として認められています。特に掛軸は非常に高価買取となります。今なお各地で多くの企画展が開催されており、2021年には府中市美術館にて「春の江戸絵画まつり 与謝蕪村 「ぎこちない」を芸術にした画家」展が開催されました。

与謝蕪村の作品紹介

「奥の細道図巻」

「奥の細道図巻」は1778年に制作された俳画の代表的作品です。全2巻で構成されています。

蕪村が敬愛する松尾芭蕉の紀行作品『奥の細道』の全文を書き写し、そこに13点の挿絵を入れています。書は、場面によって軽妙なもの、重厚なものとで書き分けているのが特長です。絵は簡潔な筆で描かれており、軽快な筆致にユーモアを感じさせます。

現在は重要文化財に指定されていて、王舎城美術寶物館(広島)に所蔵されています。

「夜色楼台図」

「夜色楼台図」は、1778年から1783年頃の作品です。絵巻物のような横長の画面に、山並みを背景にした山村に雪が降る夜の光景が描かれています。

夜空は単色ではなく、黒から灰色で濃淡をつけられており、雲を表現するように部分的に滲ませています。

しんしんと雪が降る中で、家の灯りがあたたかくともる様子は、日本人の原風景にある懐かしさとぬくもりを感じさせます。国宝に指定されている作品です。

「十便十宜図」

「十便十宜図」は1771年に制作された、文人画家・池大雅との合作です。中国・清の時代の劇作家・李漁が、別荘のある伊園での生活の良さを謳った詩「十便十二宜詩」をテーマに、十便を大雅が、十宜を蕪村が描いています。蕪村は天候や時間などの移り変わる自然の「十の良いこと」を、場面によって線を使い分けながら美しく描いています。

重要文化財、国宝に指定されています。

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