Facebook・ごとう 孝二さん投稿記事「あなたが一番苦しんだことが使命」
若い頃私は自分の無力感に苦しんだ。自分は動くことができない。自分にそんな力があるとは思えない・・・
だから今、自分の力を信じられない人が自分の内に既にあった力を見出してゆく瞬間を喜んで共にしている。
不思議なことに人は、一番苦しんだことが一番の力の源泉に変わるようだ。
いちばん欲しくて欲しくてだけど得られなかったものがいちばん人にあげたいものに変わるようだ。
苦しみ、痛みや、恥でしかなかった過去の中に、自分の本来の力と使命が既に育まれていたことに気づいた時。
自分の存在と人生をまったく新しい眼で受け止めている人になっている。
恥ずべき闇が、誇らしい宝に一瞬で変わる。その原点から、生きる力が蘇ってくる。
苦しんだからこそ、その大切さがわかる。その有り難さがわかる。
それほど苦しんで格闘してきたのだから、もう十分それをやる力はついている。
それは生半可な長所なんかじゃない。泥をくぐって根っこから生え抜いたオンリーワンの強みだ。だからこそ、こんどはそれを人にあげていく番だ。
それほど大切なものだからこそ、それを人にあげることに深い喜びを感じるのだ。
やがて同じ苦しみを持つ人があなたに何かを感じ、何かを見出すようになるだろう。
あなたに触れることで再び立ち上がる力を得ていくようになるだろう。
たった一人で苦しんできたそのことがたくさんの人ための力へと変わっていく。
狭い家族の中で必死に培ってきたその力がもっと広い世界のための力へと変わっていく。
人生の不思議と妙味。
だから苦しみを見ないでやりすごすことはその宝を埋もれさせて終わることになる。
苦しんできた自分に真正面から向き合い飛び込むことの意味はそこにある。
自分にOKを出して前に進むブログより。
Facebook・相田 公弘さん投稿記事 「ホンネとタテマエ」
心理学の榎本博明氏の心に響く言葉より…
「すみません」という言葉には、単なる謝罪という以上の深い意味が込められている。
そのひとつが、相手に対する「思いやり」だ。
自分が一方的に悪い訳じゃないと思っても、とりあえず「すみません」という言葉を添えることで、「場」の雰囲気を良好に保つことができる。
その場合、ホンネで悪いと思っているかどうかが重要なのではない。
タテマエであれ、「すみません」と言うことに重要な意味があるのだ。
「すみません」と口にする人物に対して、それ以上責め立てるのは無粋だといった感覚が日本の中では広く共有されている。「すみません」と言われることで、抗議や怒りの気持も和らぐ。
このような二重構造を認めない欧米社会では、みんながホンネと信じるものをストレートにぶつけるために、非常にギスギスして争いごとが絶えないといった感がある。
欧米人の正論の主張と、それに基づく断固たる行動。言うことは立派なのだが、どうにも利己的な匂いが漂う。
欧米人こそが、じつはタテマエ主義なのではないのかと思えてならない。
この種のタテマエ主義は、自身の中に潜むホンネの存在を認めず、相手の気持ちや体面を思いやることもないため、非常に攻撃的になりやすい。
本来、日本流のタテマエには、他人の気持や立場を配慮することで、利己的なホンネをコントロールする役割があるのではないだろうか。
日本人の国際感覚の欠如を指摘する議論が目立つが、逆に日本流を国際的にアピールし、
理解を求めていくことも必要だろう。
自分たちの文化の仕組みについて発信を行なっていくことも大切である。意見をはっきり言わないのが相手の視点を「察し」てしまうからだとすれば、その共感性は寛容につながる。
日本的なホンネとタテマエの二重構造が争いごとにブレーキを掛けているのだとすれば、
それは国際的な対立の融和に役立てられるかもしれない。
◇『「すみません」の国』日経プレミアシリーズ
日本の悪いところは、「すぐに謝ること」、と言われることは多い。
昨今はそれとは逆に、交通事故など起こしたときでも、すぐに謝ったら不利になるから謝らない方がいい、などと言うこともある。
謝るとその責任を認めたことになるから、という欧米流の考えからだ。
しかし、日本のクレームでは、「謝り方が悪い」、「本当に謝っていない」等、苦情内容そのものより、謝り方を問題にするのも事実だ。
「すみません」と謝ることは、謝罪というより、思いやりの気持を示すことであり、誠意を見せることでもあるからだ。
日本は、タテマエ社会だと言われる。
ホンネをなかなか出さないからだが、自分のホンネをすべてさらけ出していったら、争いごとはたえなくなる。社会もギスギスして、アメリカのような訴訟社会となる。
相手の気持ちを察し、すぐに謝ることの必要性は、争いが多い今の時代にはとても必要なこと。
もっと世界に向けて、このタテマエとホンネの大事さを広めていく必要があるのかもしれない。相手の気持ちを察することができる、おおらかな人でありたい。
※【人の心に灯をともす】より
“涙が止まらない”より
「母を誇りに笑い一筋 右耳は聞こえなくても…」
13歳の夏、右耳を激痛が襲った。
耳の奥からは異臭を放つ膿(うみ)があふれ出ていた。
診断結果は「真珠腫(しゅ)性中耳炎」。
中耳炎を繰り返すうちに組織の一部が真珠のように増殖し、耳の周りの骨を破壊する病気だ。
手術で患部を除去。
足の皮膚を移植して鼓膜の形成手術もしたが、聴力は戻らなかった。
滝川広志さん(49)の右耳は、今もほとんど聞こえない。
周囲に打ち明けると、誰もが「うそでしょう?」と驚く。
難聴のハンディを全く感じさせないからだ。
「広志君、右耳がだめでも左耳がある。何とかなるよ」。
そう笑い飛ばした母の強さと優しさに支えられた。
熊本市で生まれた。
幼いころに両親が離婚。
病院の看護助手をしていた母と1歳上の姉の3人家族。
生活は苦しかった。
普段の食事はご飯とおかず1品。
月に1度、80円のラーメンがごちそうだった。
「貧しかったけど、それが普通だと思っていたし、不幸だとも思わなかった」
ただ、子どもなりに家にお金がないことは分かった。
小学生のころから自覚症状があった中耳炎を放置したのも、母にお金のことで心配をかけたくなかったからだ。
右耳の手術後、新聞配達を始めた。
母を助けることができるし、欲しいものを買うこともできる。
初めは夕刊を配り、やがて朝3時に家を出て朝刊も配った。
幼いころから中古の白黒テレビが姉弟の宝物だった。
声が筒抜けの2軒長屋。
音量を絞り、テレビにかじりついた。
「サインはV」「柔道一直線」「8時だョ!全員集合」…。
歌番組では振り付きで歌手をまねし、姉と批評し合った。
ドラマでは動きに合わせて勝手にせりふを重ねる「当てレコ」に興じた。
はまったときは2人で笑い転げた。
そんなテレビ遊びから生まれた「ものまね」が、目立たない存在だった姉弟を変えた。
中学校の教室。
人前でものまねをする快感を知った。
姉がまず人気者になり、広志さんも続いた。
「滝ちゃん、よか」「よかばい」。
教室で、近所のスナックで喝采(かっさい)を浴びた。
歌を覚えるにも、不自由さは感じなかった。
右耳が聞こえない分、左耳に意識を集中し、目で観察した。
「難聴がものまねには良かったのかもしれないですね」。
母譲りの楽天的な性格が、その後の人生も切り開いてゆく。
広志さんは今年、芸能生活30周年を迎えた。
芸名は「コロッケ」。
3月には「長年の夢だった」という博多座(福岡市)の舞台に立つ。
人情喜劇とものまね歌謡ショーの1カ月座長公演。
「あきらめなかったからここまで来れた。ようやく九州出身の芸人として故郷に認めてもらったような気がします」
滝川家の家訓は「あおいくま」。
焦るな、おこるな、威張るな、腐るな、負けるな-の頭文字だ。
幼いころ母が部屋に張り出した教えを胸に、謙虚に芸を磨く。
出典元:(2010/01/28付 西日本新聞朝刊)
---------------------------------------------------------------------------------
コロッケさんが、右耳が聞こえないなんて、初めて知りました。
そんなハンディを乗り越え、あの素晴らしいものまね芸を身に付けたんですね。
コロッケさんもすごいですが、お母さんもすごい。
滝川家の家訓も素晴らしいですね。
あらためて、コロッケさんの偉大さを垣間見た気がします。
これからも、コロッケさんのお笑いが世間を和ませて行くことでしょう。
0コメント