キリスト教・死と再生

https://www.cbcj.catholic.jp/faq/dead/ 【死者の日とは?】 より

死者の月

 カトリック教会で行われる通夜の式は「親しい人との別れは、だれにとっても悲しいことです」という招きの言葉で始まりますが、特に身近な人の死を前にして、死という現実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかしキリストを信じる者にとって死が人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを信じているからこそ、人の死を素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。通夜での祈りはそのことを表明します、「キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる』と教えられました。別離の悲しみのうちにもわたしたちは、このキリストのことばに慰めと希望を見いだします」(カトリック儀式書「葬儀」)。

 このようにキリスト教においては、死いうものが神のみもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということですから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることをかねてから教えてきました。またわたしたちは生者同士の関係だけでなく、生者と死者との連帯関係にあります。故人が天国に入るためにはその霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のみもとで永遠の幸福にあずかることができるように祈ることによって死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。

 教会の典礼暦で11月2日は「死者の日」とし、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。キリスト者の間では2世紀頃から死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、次第にミサが伴うようになりました。亡くなったすべてのキリスト者を1年の特定の日に記念することは、7世紀初めにセビーリャの司教イシドルスが、聖霊降臨の祝日の翌日に死者を記念するミサを行なうように指示したことに始るとされています。さらに、諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院院長のオディロンによって始められ、その修道院の修道士たちの影響によって11世紀には広く行なわれるようになりました。ローマ教会には1311年の暦に始めて記されていますが、それ以前からローマでも死者の日の記念日が行われていたと思われます。この記念日は西欧諸国に広まり、15世紀には、スペインのドミニコ修道会で盛んに行なわれ、司祭がこの日に3回のミサをささげるようになったのもこの頃だといわれています。18世紀になる頃には、3回のミサの習慣が世界各地に広まり、1915年に教皇ベネディクト15世がこれをすべての司祭に許可することによって、全教会に広めました。現在はこのような規定はありません。

 11月が「死者の月」として定着してきたのがいつからなのか定かではありませんが、死者への思いがミサをはじめとする様々な祈りの形で表され、それが広がりを見せ、伝統・習慣となって次第に死者の月になったと考えられます。

11月2日は「死者の日」

諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院のオディロンによって始められ、クリュニーの修道士たちの影響によって11世紀には広く行われるようになりました。ローマ教会には1311年の暦に初めて記されていますが、それ以前からローマでも死者の日の記念が行われていたと思われます。

『毎日の読書』より

わたしたちは生者と死者を問わず万人との連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としています。「聖徒の交わり」とは、「聖なるものの分かち合い」と「聖なる人々の交わり」という意味を持ち、聖徒たちの交わりが、まさに教会なのです。すべての罪はこの交わりを損なうものです。

教会はキリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができるのです。

『カトリック教会のカテキズム』(946、953、958)を参照


https://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/shiseigaku/kouza/kouza_annai/2007/pdf/20080112.pdf

【日本人キリスト者の死生観 ―まとめ―】より

内容紹介: 死は生きているものにとって必然の出来事である。しかし、私の死と他人の死は全く違う。他人の死、それも「親しい者」との死別は耐えられないものがある。人生最大の危機である。その悲しみは、信仰の有無に関係がない。たとい厚い信仰に生きている者にとっても「親しい者」との死別は、その信仰を根底から揺るがすことになりかねない。内村鑑三にとって愛娘との死別は、まさにそうであったが、その悲しみは、新しい境地へと彼を導くことになった。それは内村だけの経験ではない。今回は波多野精一最後の著書『時と永遠』に記述された「死」の理解と田辺元の「死の哲学」を取り上げ、その特色を内村と対比することで、私の研究のまとめとしたい。

【人は死後どこにいくのか―使徒パウロと「神の国」―】

内容紹介: 人は死んだ後どうなるのか、キリスト教においては、実はあまり明確ではない。すなわち、人は死後直ちに天国(あるいは地獄)に行くのか、あるいはキリストの再臨(いわゆる「最後の審判」)の時まで眠り続けるのか、曖昧なのである。新約聖書の中のパウロの手紙においても、この二つの考えが見られる。すなわち『テサロニケの信徒への手紙一』では、「主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません(4章15節)」と書かれているが、『フィリピの信徒たちへの手紙』では、「(私は)この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい(1章23節)」とも言われている。このようなパウロの発言の背景を探ることにより、初期キリスト教と終末の問題について、考えてみたい。


https://www.ifsa.jp/index.php?Guchimurakanzou 【内村鑑三】より

渡米後、日本再発見  良心の声に忠実

 渡米した内村は、二つの大きな発見をする。一つはキリスト教の真髄。もう一つは、日本。たとえば武士道は、キリスト教の本質と決して矛盾するものではない。むしろ、アメリカのキリスト教徒よりも、キリスト教的ですらあると悟り、「日本人」として生きる自覚を持って帰国した。

札幌農学校とキリスト教

 内村鑑三は独立した在野のキリスト者として、言論活動を生涯貫いた稀有な思想家であった。キリスト教の日本化を目指し、日本人を啓蒙することを自らの天職とした。その生涯は、誤解と偏見に彩られ、時には国賊として蔑まれた。内面からわき上がる良心の叫びに忠実であろうとしたからである。まさに「野に叫ぶ預言者」であった。苦難と迫害の中で、彼の信仰と思想はますます錬磨され、明治の思想史に計り知れない足跡を残した。弟子の中から、東大総長が2人(矢内原忠雄、南原繁)、文相5人(前田多門、安部能成など)を出し、他にも多くのリーダーを育て上げたことも特筆されるべきことである。

 1861年3月23日に、上州(群馬県)高崎藩士内村宜之(よしゆき)とヤソの長男として生まれた。武士であった父は、同時に四書五経(儒教の聖典)をほとんど諳んずることができた儒学者でもあった。父から厳格な儒教的教育を受けた内村は、5歳から「大学」(儒教の経典)を読み始めたという。後に「武士道に接ぎ木されたキリスト教」を標榜する内村の思想は、幼い時に親しんだ儒教や武士道的倫理が素地になっていたのである。

 内村が官費生募集に応じて、札幌農学校(北大の前身)の第二期生として入学したのは、16歳の時である。札幌農学校は、教頭W.S.クラークの影響で、キリスト教徒になっていた第一期生全員は信仰に燃え、新入生に入信を迫った。

 執拗な勧誘により同期生の仲間が次々に陥落する中、内村だけは頑強に抵抗した。彼は神社に詣でて、この新宗教熱を鎮めよとまで祈願したという。しかし、孤立無援の寂しさに耐えられず、「自分の意志に反して、また幾分の良心にも反して」、ついに内村は降伏した。その彼が、同期生の中で最も敬虔で熱心なキリスト者としての生涯を送ることになるのである。この同期生の中に、新渡戸稲造、宮部金吾らがいた。

渡米と回心

 内村鑑三は、札幌農学校を最優秀の成績で卒業した。規定に従い、一時期、開拓使に奉職したものの、官吏の腐敗ぶりなどに我慢ができず、開拓使を辞職。東京で農商務省に職を得たが、彼の内心は満たされなかった。健康もすぐれず、悶々とする日々が続く。浅田タケと出会ったのは、そんな時期であった。

 キリストのために働きたいと言うタケとの理想的なクリスチャン家庭を夢見て、結婚に踏み切ったものの、破局はすぐに訪れた。7ヶ月後には、タケのことを「羊の皮を被った狼であることが判明した」と宮部金吾宛ての手紙で破婚を報告している。内村が受けた打撃は大きかった。なすすべを失い、「神は私を捨てられた」とまで思い詰めてしまう。そんな彼を心配した家族や友人は、彼にアメリカ行きを勧めた。失意の内に、内村がアメリカに向かったのは、1884年11月6日のことである。

 ここで内村は、彼の信仰の生涯最大の転機と言うべき回心を体験する。クラークの母校アマスト大学で学び始めて6ヶ月目のことである。シーリー総長が内村を呼んで言った。「君は自分の内ばかりを見るからいけない。何故、十字架上のイエスを仰ぎ見ないのか」。

 アメリカに渡ってきても、彼の深い懊悩は容易に解消されなかった。タケから復縁を迫る手紙には、女児の誕生が記されており、それが彼をますます苦しめた。逃げるようにアメリカに渡り、日本も、親も捨て、その上子供までも捨てるのか。深刻な罪悪感に押し潰されそうになっていた。シーリーの言葉で、内村は信仰の何であるかを悟った。神の無限の愛は、すでにキリストの十字架によって示されている。自分はただ、この無限の愛を信じ、それに任せるだけでいいのだ。

 回心を体験したとはいえ、アメリカのキリスト教の現実は、理想主義的な内村を失望させた。友人の一人が財布をすられたことがあった。キリスト教国にもスリがいる!衝撃が彼を襲った。その上、人種差別の横行。内村自身もジャップとあざけられたことも一度や二度ではなかった。渡米前の内村にとって、アメリカは、魂の故郷とも呼ぶべき幻の聖地であった。それだけに失望感も大きい。彼は、日本人、日本文化を強く自覚するようになるのである。

 彼を育んだ日本文化、武士道的風土は、アメリカのキリスト教徒よりも、キリスト教的だと彼には思われた。「多くの点において、イエスとその弟子とを武士の模範と見ることができる」と言い、「日本的なキリスト教」のあり方を模索することになる。これが、生涯彼が主唱した「二つのJ」(JesusとJapan)である。彼の心の深奥に染み込んでいた愛国心とキリスト教が一つにつながった。

不敬事件

 内村が帰国したのは、28歳の時。愛国心に目覚め、日本のために働く決意を固めての帰国であったが、痛撃な仕打ちが彼を待ち構えていた。国賊と罵られた「不敬事件」である。彼は日本中を敵に回してしまった。

 第一高等中学校(後の旧制一高、東大教養学部)の嘱託教員として働いていた時のことである。天皇の神格化を強化したい明治政府の意図のもと、官立の高等中学校に教育勅語(近代日本の最高規範書)が授与された。そこには明治天皇直筆の署名があり、一高では各教師がそれを全校生徒の前で深々と頭を下げ敬拝する儀式が挙行された。

 内村には心の準備ができていなかった。勅語の前に出て、頭をちょっと下げたものの、礼拝はしなかった。内村は生涯、皇室に対する尊敬心を抱き続けた人物である。しかし、天皇を神とすることとはまた別問題である。彼にとって礼拝の対象は、唯一の神のみであり、天皇ではなかった。その良心の声に従っただけのことである。これが大問題となった。

 国粋主義者たちは、内村を糾弾した。新聞各社もこれを取り上げたので、内村への非難の声は全国的に高まった。内村は折から流行していたインフルエンザに感染。それが悪化して肺炎を引き起こし、ついに病床に伏してしまった。内村は生死の境をさまよっていたが、激昂した学生たちは容赦がない。内村宅を訪ね、詰問し、玄関に石を投げつけた。

 事態は深刻さを増し、内村は退職を余儀なくされた。不幸が追い打ちをかける。妻の加寿子(かずこ)を失った。彼女は病床に伏す夫を不眠不休で看病し、押しかけてくる荒々しい学生たちに対応した。その嵐の中、過労と心労のゆえに倒れ、3ヶ月間病床に身を横たえた後、23歳の若さで昇天した。内村との結婚生活はわずか1年9ヶ月であった。

苦難を越えて

 不敬事件と妻の死の体験から、思わぬ副産物が生まれた。彼は処女作『基督信徒の慰め』を出版し、世に問うたのである。「愛するものの失せし時」「国人に捨てられし時」「不治の病に罹りし時」などの章を立て、悶絶の苦しみの中から彼自身がつかみ取った内面を語った。全ての試練は、当座は暗く悲しいものである。しかし、それを堪え忍んで辿り着いた先に待っている平安がある、と。

 作家の正宗白鳥は、若かりし頃、この書を紙がすり切れるまで愛読したという。正宗はこの書を当代最高の私小説と見なしている。著者の迫真性のゆえであろう。内村は月刊誌『聖書之研究』などを通して、生涯にわたり膨大な著作を残したが、この一書がその嚆矢となったのである。

 苦難は、時に人を鍛えると言う。内村の生涯は、この言葉が真実であることを証明している。苦難と迫害の中で、信仰を深め、思想を錬磨した。彼の精神が必ずしも屈強だったわけではない。むしろ弱さを自覚していたからこそ、押し迫る試練の中で良心を研ぎ澄まし、その声に耳を傾けた。そして、その声に忠実であろうとした。

 日本が韓国を植民地とし、国民の誰もが欧米列強並みの強国になったことに歓喜したことがあった。しかし内村は違った。時流に逆らい、「国を失って悲しむ民あり」と言って、韓国民に同情した。その上、「もし人が全世界を獲るとも、その霊魂を失うならば、何の益があろうか」と言って、日本を断罪した。その結果、売国奴、国賊と罵られる結果となったが、彼は良心の声を裏切ることができなかったのである。

 内村が51歳の時、人生最大の試練に直面した。最愛の娘ルツ子の死である。しかし、彼はルツ子との永遠の別れを認めず、「今日のこの日は葬式ではなく、ルツ子が天に嫁ぐ結婚式です」と宣言し、参列者を驚かせた。さらに埋葬の折、内村は棺にかける土をつかみ、その手を天に高くさし出し、「ルツ子さん、万歳」と絶叫した。その場にいた矢内原忠雄(後の東大総長)は、雷に打たれたように立ちすくんでしまったという。

 天から打ちのめされ、人から罵倒され、足蹴にされ、それでも内村は倒れなかった。か細い、消え入るような良心の声を探し続けたからである。ルツ子の死の意味を聖書の行間に探り、彼は再臨の希望に辿り着いた。キリストが再臨すれば、ルツ子にまた会えるという希望である。彼はルツ子の墓に「また会う日まで」と刻み、後に再臨運動を展開するのである。

 1930年3月28日、家族と弟子たちに見守られ、内村は静かに息を引き取った。かつて内村は、「後世に遺すべきものは何か」と問い、それは「勇ましい高尚なる生涯」だと書いた(『後世への最大遺物』)。まさに内村の生涯は、艱難は栄光に至る関門であることを我々に示した勇ましく高尚な生涯であった。享年69歳。


https://plaza.rakuten.co.jp/adjapanaichi21/diary/201002010001/ 【死と再生の神】より

生きている神話的存在が、一度死に、死者の存在する地下世界に行った後、再生するという説話は世界中に広く分布している。「死」と「再生」は文字どおりのものである必要はなく、食(日食、月食)などで象徴される場合も含む。

このような神としては、オシリス、アドニス、イエス・キリスト、ミスラなどがあり、女神ではイナンナ 、ペルセポネも死の国に行って戻ってきた。死と再生はエレウシスの秘儀の中核をなすものでもある。日本神話のイザナギの黄泉訪問、アマテラスの岩戸隠れも類縁である。また、二十世紀怪奇文学のクトゥルフ神話のモチーフの一つである。

神話学的研究

近年の創作物であるクトゥルフ神話はおくとして、このように、死と再生の神は広く世界各地で語られた。歴史的には、このカテゴリーは宗教における二つの異なった研究法と強く関連してきた。第一は「自然派」とでもいうべき方法で、自然現象を元にそれらが並行して生まれたと説明するものである。第二は「内面派」とでもいうべき方法で、これらの神話を人間個人の精神的要素からの変型として説明する方法である。

死と再生の神を一般的なカテゴリとすることについては、還元主義的であるという批判がある。曰く全く異なる複数の神話を一つの箱に押し込み、その上で論争を闘わせても、本当の問題であるそれらの間の差違を隠蔽するだけである。そればかりでなく、死と再生は多くの他の信仰よりもキリスト教的信仰にとって中心的なものであるから、この種の論法はキリスト教をもってあらゆる宗教を判断する基準としかねない。この点に関して詳細は例えばBurkert, 1987 及び Detienne, 1994 を参照されたい。

Detienneを例にとると、彼はアテナイのアドニア祭におけるハーブガーデンの成長と枯死の儀式を研究した。アドニスの園は、麦などの作物を鉢植えにし、八日めにアドニスの像とともに水中に廃棄する儀式である(後に転じて、長期的な展望を伴わないずさんな育成を指すようになった)。もっぱら女性がおこなった。

彼によると、これらハーブ(及び、その神アドニス)は作物一般の代理人というより、香辛料をとりまくギリシア人の心と関連して形作られる複合体の一部をなしている。性的な誘惑、策略、健啖、出産への不安などといったものがその複合体には関連している。この観点からは、アドニスの死というのは祭や神話や神を分析するための多くのデータの中の一つに過ぎない。一方、オシリスのような神は、香辛料や愛よりも作物と枯死にむしろ関係しており、「一旦死ぬ」というテーマは共通していても、極めて異なった解釈を導く。このようにエウヘメロス的解釈には異議を唱えざるをえない。

キリスト教信仰

世界中に共通の死と再生の神というモチーフがあると思われること、殊に地中海沿岸地域にその種の信仰を持つ秘教(Mystery religion)が存在していること(例えばオシリス、ディオニュソス、アッティス)から、イエスは歴史的に実在した人物というよりも、このカテゴリを「原型」とした統合的発展ではないかと推測する人々がいる(キリスト神話説)。また、イエス自身は実在の人物で、復活に関わる部分が後にその種の秘教の影響下に加わったと考える人々もいる。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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