https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/17345707?categoryIds=4001213 【土壁は大地?】
http://osoto.jp/takeme/tradition02/ 【能の“変化”を知って、 “文化”を受け継ぐ。】より
私たちの生活や文化、考え方の根っこの部分を形づくるものは、気候や地質などおそとの様々な要素、つまり「風土」です。そんな風土に根ざした、古くから受け継がれているものはたくさんあります。では、それらが、なぜ長く受け継がれているかを考えたことはありますか?ここへ気持ちを向けることは、今の不安定な日本において大事なことであり、生きる上で何かしらのヒントを得られるかもしれません。そこで、この特集では、OSOTOが興味を抱く、受け継がれているものと、その保存や継承、さらには研究に力を入れている方のお話を紹介します。まずは知ることから。そして、OSOTOと一緒に考え、おそとへ足を運び、少しだけでも受け継ぐことに関わってみませんか?
(取材・文(人物)/しみずかおり 編集/福田アイ)
能の“変化”を知って、“文化”を受け継ぐ。
日本の伝統芸能の原点とも言われ、ユネスコの無形文化遺産に指定されている「能」。起源は定かではないものの、平安時代に生まれた豊作を祈る民族芸能「田楽」や物まねの芸能「猿楽」などが影響し合い、変遷し、芸術性を高め、室町時代に、世阿弥によって大成されたと言われています。その後、幾度となく衰退の道を辿るものの、保護する人などの出現により、約600年もの間、受け継がれてきました。
とはいえ、現在も、存続の危機に瀕しています。このことを憂慮し、普及のために独自の活動をおこなう能楽師が現れています。彼らに聞けば、受け継ぐことの意義がわかるかもしれない。そこで、関西を拠点に活動する能グループ『鼓舞志座』のひとりで、舞台では小鼓を受け持つ上田敦史さんにお話を伺いました。
能の現状、その魅力、受け継ぐために必要なことや長く受け継がれてきた理由などをお聴きしていると、受け継ぐためには、時代に合わせて変化させていくところと、変化させてはいけないところがあることがわかりました。そして、伝統芸能を含むその国で育まれてきた文化は、その国で生まれ育った人の本来の姿を表すと言っても過言ではないことも。さらには、文化そのものが、自分の進む道がわからなくなったときに帰れる場所となり得ることも理解しました。だからこそ、そういう意味でも、いつまでも受け継いでいく必要がある、という思いに至りました。
果たして、みなさんは、どのように感じるのでしょうか。
『鼓舞志座』上田敦史さんのお話
世の中は変わっても能はなくならなかったし、これからもなくならない。
能は今、底を打つときが目前に来ていると思います。底を打つときというのは、能1本で生活を成り立たせられる人が限られてくるということです。こういう状況は過去にもあって、まずは明治維新のとき。それまで幕府のお抱えだった能楽師が解雇されてしまったんです。その次は第二次世界大戦後。欧米文化が急速に浸透して、日本文化が失われていきました。それらの危機に面したとき、どちらも名手といわれる人が能を救いました。その名手たちがなぜ生まれたかというと、能が職業として成り立たなくなり、他の職業に就くことを強いられながらも、彼らが秘かに猛稽古を続けていたからです。
やっぱり能を受け継げるのは、人でしかないんですね。何十年もかけて、息子や弟子に伝え、彼らが技を自分のものとし、自分の内面を見つめ人間性を高めていくことで、素晴らしい演者になれる。でも、能が職業として成り立たない状況では、息子に能を職業として強いることは到底できません。近い将来、多くの能楽師たちは能という家業とは別に生計を立てる手段を持つ必要もあるかもしれない。そういう危機的状況のなかでも、先人たちに学び、伝えていくことが大事なのではないかと思うのです。
そして、もうひとつ。受け継ぐためには変わらないことも大切です。
“能は神様に見せるもの”という前提を絶対変えてはいけない。
能は、元々神事から発生した芸能です。神事の根本は何かというと「感謝」と「祝う」ことです。神社で手を合わせるとき、私たちは、“お願い”をすることが多いと思います。しかし本来“祈り”というものは、お願いすることではなく、「無事に田植えができます、ありがとうございます」「収穫できました、ありがとうございます」という、“感謝”を示すことなのです。既に与えていただいたことと、必ず与えていただけることに対する感謝を示す、能はそのために存在していました。
そして、陰陽五行思想という中国の易学から来る考えに基づいて、能舞台に、あの世とこの世が重なる一種の結界を顕現(けんげん)(※)させます。その術というのが、能の舞であり、囃子の音であり、舞台の後ろに描かれている老松、橋掛りという本舞台へつながる廊下の突き当たりにある五色の幕などといった舞台の構成です。
能を観ていると何の意味もない動きや時間がたくさん取ってあって、それが転じて退屈だと思われてしまう理由でもあるのですが、でも本当はそこがすごく重要で、全ては能舞台を特別な結界にするための決まり事なんです。
これこそが能の本質であり、“神様に見せるもの”という前提を失ってしまったら、能は能でなくなってしまいます。
※顕現(けんげん)=はっきりした形で現れること
能の“変化”を知って、 “文化”を受け継ぐ。
この世からずれたような感覚に襲われるのが能観賞。
能には、映画やドラマのように、人にとって面白い演出やドラマティックな展開はさほどありません。では能は、人が観ても面白くないのかと言うと、決してそうではないのです。
能の演者は、「翁」のように奉納を目的とする舞台の前に精進潔斎(しょうじんけっさい)(※)をおこない、自分の精神と肉体に深く向き合います。このような過程は、人間の究極の身体技法を追い求めるジャンルに共通していることではないでしょうか。囃子にしても舞にしても、何十年にも渡る身体技能の向上である修練をおこなわなければ、難曲を演じることはできません。身体技能が優れている人が演じる能は、立ち姿から違い、とても美しいオーラがあり、人が演じているとは思えない錯覚を覚えるほどです。
能は、個々の演者がそれぞれに追求した高い身体技法を披露する場です。神事である能には、決まり事がたくさんありますが、それ以外はとても自由度が高く、個人主義の芸能なんです。個々の身体、動きに大きく左右されるので、同じメンバーでおこなったとしても絶対その都度違うものが生まれます。
そして、その場、その瞬間にしか生まれない何かは、観ている側にも伝わるはずです。この世から少しずれたような場所へ誘導される感覚…そういった体験ができるのが、能舞台の魅力であり、素晴らしさだと思います。
※精進潔斎(しょうじんけっさい)=肉食を断ち、おこないを慎んで身を清めること。
野外でおこなってこそ能の神髄が味わえる。
能舞台で、この世のものではないような感覚が味わえるのは、やはり能が神事であるという本質を全うしてこそだと思うのです。人に見せることを考えると、演劇の要素をもっと盛り込む必要が出てくるでしょう。でもそういった作業は、演者にとって邪念となってしまい、「これこそ能だ」と言う舞台を作ることはできない。
しかし今の日本では、能を観てもらうためには自分たちでチケットを売らなければなりません。
そこで、私たち『鼓舞志座』では、お客さんを集めるためではなく、お客さんが集まっている場所に出かけて行って、能をしようという試みをはじめています。例えば、「水都大阪フェス」で囃子を観ていただいたり。また、神社仏閣のご神事やお祭りなどにもアプローチしていきたいと思っています。今年の5月には、「農ライフ能ミュージック」というイベントもおこないました。田植えをされる場所に出向き、能を観ていただくというイベントなのですが、これがとても好評だったんです。里山の谷間に囃子の音が響き、人が素足で泥に触れる。自然と人との関わりが調和したなかで、田植えができる喜びを感謝して一日過ごせました。農と信仰と音、調和のとれたそれらの融合に、演劇の要素はあまりいらない。そこに私たちが伝えたい能の本質が含まれていると思いました。
元々、能は野外でしかおこなっていませんでした。現在、能楽堂は屋内にありますが、舞台に屋根があるのは当時の名残です。囃子に使う鼓の胴は砂時計のような形をしていますが、それは遠くに音を出すため。笛も強い音が出るように作られています。このように元々能は、自然との調和が図れる構成になっているんです。能の神髄は、野外でこそ発揮できるものなのだと思います。
能の音や動きは日本人のDNAに訴えかける。
能が日本で長く受け継がれてきたのは、日本人の心に響くものが多く宿っているからでしょうね。
例えば、能の囃子というのは、笛が1本に対して打楽器が3つという構成です。西洋の音楽なら、ここに弦楽器が入るなど、もっと複雑な音階が作れる組み合わせになるでしょう。でもそれは左脳で感じる音楽なんです。日本人は右脳で音を感じます。虫の声や川のせせらぎ、木々が風に揺れる音など、左脳で聞くと、ただの雑音でしかない音にでも、情緒を感じることができる。能の笛は、正確なドレミファソラシドの音は鳴りません。打楽器の音やかけ声も、どんな音階が出るかはランダムです。でも、それらの音が、日本人の心に直接訴えかけて、寂しいとか温かいという気持ちを喚起させるのです。
能の動きにも日本人の原点を見ることができます。歩き方の基本である“すり足”は、昔はナンバ歩きと言われ、日本人が体を安定して移動することができる効率のいい動き方でした。ぴょんぴょん跳ねる西洋の武術に対して、日本の武術がすり足を基本としているのも、日本人が最もスムーズに人間としての強さを発揮できる動作だからです。
今、日本人の生活はすっかり欧米化しています。そのようななかでも、DNAレベルでは、日本人である誇り、核となる部分が残っているはずです。能の動きや音は、その部分に訴えかけてくるのだと思います。
能の“変化”を知って、 “文化”を受け継ぐ。
日本人が忘れかけていたものが能には存在する。
日本で長く受け継がれている能には、現代の日本人が忘れかけていたものを思い出させてくれる作用もあると思います。日本人が忘れかけているもの…それは速度ではないでしょうか。今の日本人は、何でも速く身につけようとしますが、そういうものって失うのも速いんです。本質はじっくり取り組むことでしか得られません。「ゆっくり」という時間を受け入れることが、今の日本人には必要ではないかと思います。
能の面って微妙に左右非対称に作ってあるんです。そのため、面自体は無表情なんですけど、下から照らされると、少し動くだけで表情が曇ったり明るくなったりする。面をちょっと下に向けるだけで陰るようになっていて、そこに手を添えるだけで泣いているように見える。そう見せるためには、バタバタした速い動きは究極に排除しなければなりません。
能のあらすじは、はじまりから結末まで書いてもたいてい10行ほどにしかならないんです。静かな曲ならそれを2時間近くかけて、粛々と最後まで滞りなくすます。速度はゼロに近いかもしれません。次々と新たな展開を待つような慌てた気持ちでは、能を観賞することはできない。ゆっくりという時間を受け入れなければ、能を観ることはできないのです。
今の日本人はとにかく速く理解しようとする。でも、能を観るときは、理解することなんてどうでもいいと思っていただいて、まずはその場に身を置いていただきたい。演じている私たちですら、そのときその瞬間何が起こるかは分からないし、能をどうすれば理解できるかなんて、私が聞きたいくらいです(笑)。
能が日本人のもともと持っている感性に訴えかけるものであることは間違いありませんが、その扉が開くかどうかは、出会いによります。一回観ただけで面白いと思うものではないだろうし、一生面白いと思えるものではないかもしれない。一回観て結論を出すのではなく、何度も足を運んで、理屈では言い表せない鳥肌が立つような感覚にぜひ出会っていただきたいですね。
※写真はすべて鼓舞志座の活動内容です。
上田敦史さん
鋭い着眼点とアイデアで『鼓舞志座』の活動を支えるフロントマン的存在。昭和48年生まれ。能楽大倉流小鼓方。大倉流小鼓16世宗家 大倉源次郎に師事し、平成4年「小鍛冶」で初舞台を踏む。企画公演「能楽囃子の世界」や「五人囃子ライブ 能楽オーケストラ+α」などを開催するほか、シンガポール・アメリカ・カナダ・韓国・ヨーロッパ各都市での海外公演にも多数参加。
大鼓方上田慎也、小鼓方上田敦史、笛方野口亮、シテ方山中雅志が、鼓、舞にてお客様を鼓舞し、また自らも鼓舞するべく結成された能グループ。「日本人の遺伝子を持ちながら日本人であることを忘れてしまった人に、能が、我々の生み出した誇るべき文化であり、国の共通財産だという共通認識を取り戻し、能によってお客様と自らが、日本人であるというアイデンティティを鼓舞する」と上田敦史さんは付け加える。さらに、“鼓舞”は奮い立たせるという意味だけでなく、応援するという意味も含み、「様々な苦難や不安定な世のなかを、もう一度日本人本来の強い精神を取り戻し前に進めるよう、背中を押せる存在になれば」と上田敦史さん。特定の小屋で能を披露するというスタイルをとらず、ニーズがある場所に自ら出かけていき、能を披露するというフットワークの軽さも特長。
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