97歳で反骨を貫く現役俳人 金子兜太

https://diamond.jp/articles/-/101275 【97歳で反骨を貫く現役俳人 金子兜太】 より

佐高 信:評論家

 昨年夏、国会を取り巻いた安保法制反対デモの中に「アベ政治を許さない」と書かれた紙を掲げる人たちが目立った。それはいまも続いているが、あの字を書いたのは9月23日に97歳となる現役俳人の金子兜太(とうた)である。1919年に生まれた金子の前年に田中角栄と中曽根康弘が生まれている。

「お前は兜太ではなく与太」

 金子とは何度か対談しているが、『俳句界』の2009年1月号では、中国に招かれた時、会場で金子の名前が呼ばれるたびに、場内に何ともくすぐったいような笑いの雰囲気が漂ったことを披露していた。

「悪意とは思えないけど、どうしてでしょう」と尋ねたら、こう明かされた。

“兜”という字が中国語の発音の具合で“褌”になるので、“褌、太い”と聞こえる。しかも苗字が金子だからソノモノだ、と。

「ははあ(笑)」と私は受け応えするしかなかった。

 金子の父親は政治家にしたくて兜という字をつけたらしい。

 母親は最後まで「俳句なんて毒にも薬にもならないものをやってとんでもない。お前は兜太ではなく与太だ」と言っていたという。

 それで金子は悔やしまぎれに

○夏の山国母いて吾を与太という  という句をつくった。

父が金子を選んだ偶然に驚く

 金子より10歳上の私の父が、90歳の時に郷里の山形県酒田市で「かな書作展」を開いた。一応、日展入選5回の書家だったのだが、その元気さに感謝しながら作品を見て歩いて、ある色紙額の前で足が止まった。そこには、

○冬青しヒマラヤ越ゆる風の鳥 という金子の句が書いてある。

 私が金子と何度か会い、手紙も遣り取りしていることを父は知らなかった。

その偶然に驚き、父に事情を話して、その作品を金子に贈ってもらうことにした。金子には迷惑だったかもしれないが、親孝行のマネゴトである。

 金子と最初に会ったのは『日刊工業新聞』の記者から作家になった本所次郎の仲介でだった。その後、今度は『時事通信』の記者から転じて日本銀行副総裁となった藤原作弥の仲立ちで会った。金子、本所、藤原、私の4人で歓談したおぼえもある。

金子の句で有名なのは、○銀行員等朝から蛍光す烏賊のごとく だが、前記の句を父がどこで知ったのか、尋ねたことはない。

日本銀行で組合運動

 野人という言葉がぴったりの金子は東大の経済学部を出て日本銀行に入ったエリートである。しかし、本気になって労働組合運動に取り組み、“安楽椅子”への道を拒否しつづけて退職した。

 そのため、金子は最初、エリートからも非エリートからもウサンくさい目で見られたという。いくら、「学閥の廃止」を唱えても、金子自身がその総本山の出身者なのである。

 金子が断固として「エリート」(差別する者)であることを拒否したのだとわかった時、逆に離れていく非エリートもいたとか。

 そうした金子からはエリートたちの生態が実によく見えた。

「これからの経営者は俳句ぐらいつくれなくてはダメだな。しかし、これを会社に持ち込むようでは、なおダメだ」金子はこう言っているが、片倉チッカリンの社長をしていて、俳人として金子を支援した鷲見保佑は、金子の○朝はじまる海へ突込むカモメの死(原文ではカモメは漢字)という句を愛誦した。

 この句の「死んで生きる」精神に励まされて、鷲見は経営をつづけたのである。

金子が見た種田山頭火と尾崎放哉

 金子に『種田山頭火』(講談社現代新書)という本がある。

「放浪と行乞、泥酔と無頼の一生を送った漂泊の俳人の放埒な生涯が、なぜにかくも私たちの魂をゆり動かすのか」という視点から書かれた熱書だが、その中で金子は、山頭火の「行乞記」を引いている。それによれば、山頭火は、その行乞の道中で、さまざまな「世間師」と行き会っている。

 世間師とは、世間を渡り歩きながら商売をして生きている者、つまり「フーテンの寅さん」のような渡世人だが、山頭火は、世間坊主、修行遍路、親子連れ遍路、尺八老人、絵具屋さん、箒屋というむっくり爺さん、馬具屋というきょろきょろ兄さん、按摩兼遍路、研屋、行商の五人組、鋳掛屋、猿まわし、大道軽業の芸人、おえびすさん、朝鮮人の飴屋さん、印肉屋の老人、売卜(ばいぼく)師、競馬屋さん、失業の活弁、旅絵師、八目鰻売、勅語額売、櫛売二人、人参売、浪花師屋、曲搗(きょくづ)きの粟餅屋等々の世間師と出会った。

 いまでは、ほとんど見かけなくなり、“死語”と化している存在も多いが、「寂蓼」と「空漠」をまといつづけて放浪の旅をつづけた山頭火も、つかの間、こうした人たちに心を慰められることはあっただろう。

○山路きて独りごというてゐた     ○酔うてこほろぎといっしょに寝てゐたよ

○酔ひざめの星がまたたいてゐる

 といった山頭火の名吟も、「世間という海」から、まったく離れては生まれなかったのではないか。

日本銀行という、これ以上ないシンキ臭い空気が、逆に、金子の卓吟を育んだように。

 巷の世間師たちと日本銀行行員をいっしょにしたら、エリートの行員は怒るかもしれないが、生きることについては同じなのだ。

 山頭火には他にもこんな句もある。

○雨ふるふるさとははだしであるく         ○生死の中の雪ふりしきる

○どうしやうもないわたしが歩いてゐる

山頭火と並び称される放浪の俳人の尾崎放哉をこの連載で取り上げたが、金子は山頭火を推し、放哉に厳しい。

『俳句界』の対談で、山頭火と比較して、「放哉の句のほうが甘えた感じがします。放哉みたいな男とは付き合いたくないですよ」と吐き捨てる金子に、「放哉はエリートからの挫折。金子さんはエリートというしがらみに耐えつつ生きぬいた。金子さんの中に放哉の要素はあったと思いますか?」と尋ね、「あったでしょうね」という答えを得て、私は、「放哉にはそれを見せつけられるという思いがおありなのでは。生意気ですが、私なりに金子さんの人生を思うと、エリートで組合の長に立てば、キャリアからもノンキャリアからも反感があったでしょうが金子さんは耐えた。要素があるのに耐えたからこそ、放哉に甘えを感じるのでは?」と問いを重ねた。

 すると金子は、こう応えてくれた。

「そう言われるのは初めてですが鋭いご意見です。自分自身も軽く驚いています」

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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