https://www.ashramcenter.jp/column/%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E8%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%AF%E8%81%9E%E3%81%8F%E3%81%8C%E3%80%81%E6%B1%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%81%9B%E3%81%9A%E3%80%81/ 【あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。 マタイ13:14】 より
日光へ行ってきた。雨の中でも大勢の観光客が訪れ、さすが「日光を見ずして結構というなかれ」の言葉通りの場所である。念願の日光彫の小さな花台を買うことはできたが、もう一つの目的、新しくなった『日光東照宮』の『三猿』を見に行けなかったのが心残りである。
別に、私は名工左甚五郎について造詣深いものでもなければ、そこに祀られている徳川家康公に特別な思い入れがあるわけでもない。ただ、この「見ざる、聞かざる、言わざる」の『三猿』をこの目で見たかったからだ。実は、この『三猿』は、日本独自のものではないらしい。「ざる」の音と「猿」が韻を踏んでいるため、日本発祥のものと思われがちだが、世界中にこの『三猿」はあるのだそうだ。孔子の教え『論語』の中にも、「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」という教えがあるという。また、英語にも「Three wise monkey(三びきの賢い猿)」という言葉もあるらしい。中でも、私の興味を引いたのは、インドのガンディーが、この『三猿」の像を生涯肌身離さず「悪を見ず、悪を聞かず、悪を言わず」という「自戒」の言葉としていたということだ。
考えてみると不思議なもので、私たち日本人には、自分にとって都合の悪いことは、見ても見ぬふり、聞いても聞かぬふり、そして言いたくても言わぬ方が良い、という処世術として解釈されがちな『三猿」の教訓を、ガンディーは全く反対のものとして受け止め、自分を戒めていたのだ。「悪を見ず、正しいものだけを見、悪を聞かず、正しいものだけを聞き、悪を言わず、正しいものだけを言う」。「悪を見ず、悪を聞かず、悪を言わず」とは、まさにこのガンディーの生涯を貫いた生き方そのものだったのではないか。大英帝国の植民地からの独立運動を非暴力で成し遂げ、何度も投獄されても、自分の信念を曲げず、同時に「目的達成のためには手段を選ばず」と、暴力に訴えようとする仲間たちに対してにも、頑なに首をたてにふらなかった。「非暴力無抵抗の抵抗」とは、ガンディーにとってまさにこの「三猿」の教えそのものであったのだ。
私たちのアシュラム運動の創設者スタンレージョーンズ博士の書かれた本の中には、ガンディーに対するこんな記述がある。「しかしお互いの間には深刻な思想の違いがあった。それにもかかわらず、私は彼に惹きつけられるある種のものを感じた。彼の結論に達するに至った精神的過程に私が同意できない場合でさえ、彼は事態の正しい面から出発しているのだと思ったし、また誤っていると気遣われる時でさえも、彼は結局正しい方法をとっていた。彼の霊性は知的過程を超越し、物事の正しい面から出発していたのである。」(「マハトマガンヂー」より)
キリスト者であるスタンレー師にとって、ヒンズー教徒のガンディーと全ての点で合致することはできなかった。しかし、彼はガンディーの中に、宗教や思想、哲学といったものを軽々と乗り越える「正しさ」を見出したのだ。「悪を見ず、悪を聞かず、悪を言わず」とその生涯を貫き等したガンディーの正しさ、それをスタンレーは、イエスキリストの教えと通底するものだと悟った。「(ガンヂーは)おそらく東西両洋のいずれの人よりもより多くキリストの精神を私に教えてくれた。」とスタンレー師はその著書の中で語っている。
さて、両手で目を覆い、耳を塞ぎ、口に手をあてる「三猿」を、現代を生きる私たちはどう見るのか。世渡り上手な生き方の手本としてそれを見るのか、またなんの揉め事も起こさぬ賢い生き方の見本としてそれに倣うのか。それとも…。
いや、ここから先は、やはり見ざる、聞かざる、言わざるとしておこう。
http://tamagawaholy.xsrv.jp/bible/2017/02/05/2017-2-5/ 【解ってしまっている】より
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、 耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
マタイによる福音書 13章10〜17節
▼マタイ福音書13章には、神の国の「譬え話」が多数収録されています。「譬え」旧約聖書・ヒブル語では箴言です。マーシャールをギリシャ語に翻訳する時に、パラボレーが用いられ、これを日本語にすると、何故か、箴言ではなくて「譬え」になりました。そうしますと、旧約聖書の箴言とイエスさまの譬えとは、本来、同じものであるということになります。しかし、実際には、誰が読んでも、この二つには大きい違いがあります。これが、日本語訳に於いて、箴言、譬えと使い分けられている理由だろうと想像します。
▼今日の「譬え話」は、3つの福音書にあり、3つとも、イザヤの預言を引用しています。分量で言いますと、マルコが3節、ルカが2節、マタイが8節、つまり、共通部分はほぼイザヤの預言だけです。
当然、イザヤの預言そのものを読まなくてはなりません。
これが、何とも、難解なものです。誰が読んでも、哲学的な深みを感じる、とも言えますが、別な言い方をすれば、禅問答染みています。本当に理解出来るかと問い詰められれば、答えに窮します。皆さんそうではないでしょうか。
▼譬えというのは、簡単に定義すれば、或る事柄の内容を、別の事柄に擬して、説明し、分かり易くするという目的を持っている話となります。一番はっきりしているのは寓話です。しかし寓話と譬えとは全く同じではありません。
イザヤの預言は、この定義には嵌まりません。寓話でも譬えでも説明仕切れません。隠喩とか暗喩とかの定義を持って来た方が、未だ、近いように思います。隠喩とか暗喩とは、直接には表現することをためらわれるような事を、別の言葉、表現をもって表すことです。ヨハネ黙示録などは、この隠喩に満ちています。しかし、イザヤの預言は、これともちょっと違います。
▼決定的に重要なのは、『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない』という表現だと思います。『あなたたち』と呼ばれている者を、教会の会員と取ることはごく自然だと思います。11節の『神の国の秘密』は、教会に対して開かれているので、他の者には、隠されている、こういう表現です。
『秘密』とは、口語訳聖書では、『奥義』です。教会の聖礼典を指す言葉と同じです。
▼この箇所の解釈は明らかです。神の言葉は、イエス・キリストによって教会にもたらされ、教会の働きによって、教会の働きによってだけ、宣べ伝えられ、そして、実を結ぶということです。
「聞く耳のある者」つまり、信仰をもって聖書に向かい合う者にだけ、この言葉は開かれているのであって、それ以外の意図・それ以外の関心で向かい合う者には、閉ざされているのです。
神によって、信仰を与えられ、教会に数えられた者に、その奥義・秘密は、明らかにされるので、教会と離れた所では、つまり、礼拝、聖礼典の場ではない所では、それは、閉ざされているのです。
▼今日は結論を先に言ったことになります。
これから順に読みます。
10節。
『弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いて
お話しになるのですか」と言った』
弟子たちは『何故』と聞きました。何故、『何故』と聞いたのでしょう。『たとえを用いてお話しになる』理由が分からなかったからに違いありません。言い換えれば、譬えではなく、もっとはっきりと言われた方が良いのではないですかという、弟子たちの意見です。
そこにもまた理由があるのでしょう。これはまったくの想像ですが、イエスさまの譬え話を聞いた人の中に、イエスさまの譬え話はちっとも解らない、という批判があったのではないでしょうか。
▼もう30年以上も昔の話ですが、新しい家庭集会を2箇所で持ち始めました。1箇所は、「友の会」のメンバーを対象として、ある教会員のお宅で始めました。何しろ「友の会」ですから、ご婦人ばかり7~8人が集まりました。
3回守った後だったでしょうか、会場を提供してくれた教会員の婦人が、「先生のお話は、皆さんには難しすぎて解りません」と言います。がっくり来ましたが、その通りでしょう。この人が、羽仁もと子先生の本を3冊ばかり持って来て、これからは、これに基づいたお話しをお願いしますと、言われてしまいました。
仕方がない、一所懸命に読みました。これを下敷きにして若干聖書にも触れるようなお話しに切り替えました。
▼ところが集まった方々から、逆に反発が出ました。「私たちは聖書に興味を持ったので、聖書そのものを学びたいと思っていました」。「先生のお話は確かに難しいけれども、聖書そのもののお話しなので、これからも学び続けたいと思います。羽仁先生の本はこれまでも読んでいますし、自分で読めます」。
会は続けられました。その一人は、その土地では最も格が高いお寺の住職夫人でした。
▼諄いかも知れませんが、もう一つの集会の話もします。端折って結論部だけお話しします。会場を提供してくれた教会員の婦人が、私が帰った後で、ある有名なカリスマ性のある牧師の説教録音を、皆で聞いていたというのです。それが毎回、集会の度毎にです。
私の話では、せっかく集まってくれる人たちが、教会につながる、洗礼を受けるまでに至らないと不満を感じていたのです。
本当に結論だけ申します。この教会員の婦人は、大きな工場の工場長夫人です。集まっていたのは、そこの会社員の夫人とその友人たちです。
この家庭集会が閉じられた後も、3人ばかりの婦人たちによって、この会は続けられました。夫の転勤で転居するまで続けられました。確かに、そこからついに受洗者は現れませんでした。
▼これは後日談です。その時から四半世紀も経ってから、私はこのカリスマ性のある牧師の講演を聴きました。『教団新報』に掲載するためです。
なかなか味がある、確かにこの先生ならではのお話しなのですが、正直、話に起承転結がありません。あっちに行ったりこっちに行ったり、元に戻ったりします。聞いていて楽しい話でも、原稿に落とすと、意味をなしていない場合があります。それでは新聞記事にはなりません。
そこで、あくまでもこの先生の言葉表現エピソードを使いながら、話の順番は入れ替え、省略し、半分ほどの分量にして書き直しました。
この先生に見て貰ったところ、「なかなか立派な講演だ。こんなに良い講演したかな」とにやりと笑いました。 確かに、カリスマ性のある立派な牧師でした。
▼ちょっと個人的な思い入れもあれりました。余計なことまで言ったかも知れません。
11節。
『イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが
許されているが、あの人たちには許されていないからである』
表面的に読めば、他の人々はあなたたちのレベルまで到達していないから、比喩で話すしかないのだよということになりましょう。
しかし、本当にそうでしょうか。
弟子、教会員だけには特典プレミアムがあって、限定品のお話しが聞けるけれども、一般人には、それは買えないのだという話でしょうか。
▼むしろ全く逆ではないでしょうか。
そのように考えて、諄くなっても、二つの家庭集会の実例を話しました。
ちょっと読み込みしすぎかも知れませんが、こんなことを感じるのです。
『なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか』
そのように感じたのは事実だから仕方がありません。しかし、弟子たちは、その『たとえ』を本当に聞いたのでしょうか。イエスさまにずっと従っていれば、同じ話を何度も聞いたでしょう。その分、初めて聞いた人よりもよくよく理解し納得していたのでしょうか。
それならば、『なぜ … お話しになるのですか』とは言わないでしょう。
意図的なのか無意識でなのかは解りませんが、彼らは、イエスさまの話に、イエスさまに、反発しているのです。
それは若い未熟な牧師のためにと、自分でそれを補おうとした、先程紹介した婦人二人と同じことです。
▼12節。
『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は
持っているものまでも取り上げられる』
これも難解な言葉です。しかし少なくとも、財産・預貯金の話ではありません。信仰の話です。
御言葉に謙虚に聞くことを止めた時に、聞く側から教える側に変わった時に、この危機は訪れます。
▼13節。
『だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。
見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである』
イザヤ書そのものの文脈でお話しすることは時間的にも困難ですし、話を複雑にするでしょう。あくまでも、マタイで読みます。
理解力が低い人には、分かり易い例話で話す、単純にそういう意味でしょうか。違うと考えます。
もっと言えば、これは一般大衆のことを言っているのではなく、ファリサイ派や律法学者のことを念頭に置いており、更には、『なぜ … お話しになるのですか』と聞く弟子たちをも念頭に置いているのではないでしょうか。
一言で言えば、解っている人たち、解ってしまっている人たちのことです。
理解力や知識がないから解らないのではありません。全く逆です。
▼ファリサイはや律法学者のことを念頭に置いており、更には、『なぜ … お話しになるのですか』と聞く弟子たち、彼らは解ってしまっているのです。
つい先日の説教で脱線してお話ししたばかりですので繰り返しませんが、一番大切な戒めは何ですかと尋ねた律法学者、永遠の生命を得るためには何をしたら良いでしょうかと問うた青年、彼らは解ってしまっているのです。
▼14節。ここがイザヤの引用部分です。
『イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには 聞くが、
決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない』
極めて難解に聞こえる表現ですが、実は単純にそのままのことを言っているのではないでしょうか。
『聞くには 聞くが』、決して聞こえていないわけではありません。声が届いていないのではありません。
『決して理解せず』、それは理解したくないからです。認めたくないからです。
『見るには見るが』、決して見えないのではありません。
しかし、『決して認めない』のです。見えたものまでも、見えないと言い張り、見たことを否定するのです。
▼15節。
『この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、
彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない』
14節にありますように、彼らは耳が聞こえないのではありません。見えないのでもありません。しかし、それを自ら否定しているのです。
『彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない』
言い換えれば、目で見たものを見えないと言い張り、耳で聞いたことを否定し、理解しまいと頑なに心を閉ざしています。何故なら、『悔い改めない』、悔い改めたくないからです。つまり、これまでの生きたか、これまでの人生を変えたくないからです。
永遠の生命を得るためには何をしたら良いでしょうかと問うた青年などは、正にそのためにはどんな風に生きた方を変えたらよろしいのでしょうかと、問うている筈なのです。しかし、変えないし変えたくないのです。
▼16節。
『しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。
あなたがたの耳は聞いているから幸いだ』
弟子たちに向けられた言葉です。もしかするとこれは強烈な皮肉ではないでしょうか。あなたがたは、聞いたのだ、聞いているのだ、それなのに何故、聞かなかったかのように、聞いていないかのように、問うのだと仰っているのではないでしょうか。
▼17節。
『はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、
あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、
あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである』
イエスさまと、同じ時代に一緒に生きた者がどんなにか幸福か、あり得ないほどの奇跡に与っていたのか、それなのに何故、それを感謝しないのか。
この問は、私たち自身にも向けられてます。
『多くの預言者や正しい人たちは、
あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、
あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである』 聖書がありませんから、教会がありませんから。
それに比べて、私たちは、実に恵まれ、イエスさまのお話も、使徒パウロや他の弟子たちのことも、教えられているのです。御言葉に飢え乾いていた人たちが、どんなに羨ましいと思うことでしょうか。
0コメント