<季語>と<キーワード> (一外国人の心からの願い)

http://oobooshingo.blogspot.com/2018/02/15.html 【<季語>と<キーワード>(一外国人の心からの願い)】より

日本の俳人の方々、日本源流の俳句の世界への発展のために、目を開けてください。

俳句は決して皆様方が一つの信仰の様にお考えなさるように狭いものではありません。俳句は文学です、そして世界の文学です。伝統だけが俳句ではありません、伝統も俳句の一部ですが全部ではありません。惜しむらくは子規が短命だったことです。若し子規がもう少し長生きだったら、子規の知力と迫力を以てして俳句への改革はそこまでで止まったでしょうか、そうではない筈です、その子規の遺志を続けようとしたそしてする方々の努力がなぜこうまでに一般大衆から無視された、またされるのでしょうか、外国人の私は理解に苦しむのです。すべての物事は変遷、改革、進歩するものです、芭蕉の言う<不易流行>、俳句の精神真髄は変わりませんが俳句はまた時の流れに従って変わりゆくものです、それが流行です。伝統を守るとおっしゃいますがご存知の如く、子規は俳句の改革を求め改革をしたのです、そして芭蕉も、蕪村も、一茶も同じように俳句の改革をなしたのです、おなじ575ですが内容が違います、そして改革進歩は永遠に続くのです。

一般大衆の作句をご覧ください、伝統を守ると言いながら、言葉も文言から口語に変わりました、仮名遣いも変わりました、漢字も変わりましたと同時に常用漢字と言う使用制限も出てきました、古い時代に合わない季語は捨てられまた新しい季語もどんどん出て来ています。花鳥諷詠と言いながら春燈では人事も許されています。また客観写生と言うても一般に主観的の作句が主流の様に見えます(強いて言えば詩は皆主観です)、例えばネット上の<俳句のサロン>には多くの結社の俳句集の俳句が季語別に載せてあります、その一つを選び出して見てみましょう、例えば季語<汗>の項を見てみると1996~2016年間の1143句の内大部分が主観を述べた句で特に伝統俳句結社の名だたるメンバーが主観的俳句を詠んでいます、これが自然また当然で間違ってはいませんが、問題はこの方たちが俳句を説くとき真っ先に出るのが季語、花鳥諷詠、客観写生と言うことだ。日本での場合一般的に知らず知らずのうちに慣れてしまっている故問題にはなりませんが、外国人に説く場合外国人は戸惑ってしまいます。ハッキリ言えば言うことと為す事が違うのです、これでは他人を承服させられません。正直のところ未熟者の小生にとっては季感の無い季語、即ち季語あって季感がない句が多すぎます。また、ただ季感につていう場合日本の北海道から沖縄での同じ季語の季感、日本と外国での季感の違いはもう古臭く、文献も山ほどあり、また河東碧梧桐が明治の昔に言ったように月を見ても日本人とドイツ人では感じるのが違うばかりでなくドイツ人は別に感じません。

周知の如く俳句での詠みと読みは違うとともに自選自解もよくタブーとされているように季語の解釈も人によりけり。XX忌などは季感と言うよりはその俳人に対する感触と言った方がよさそうだ。また<228>と言った場合台湾人にとって連想するのはあのむごたらしい大虐殺の228事件で決して冬の二月の季感ではありません、<226>と言った場合日本人が連想するのはあの226事件の青年将校の決起かそれとも二月の冬場でしょうか、またおなじように<311>は春先よりもあの大震災を連想するはずです、所謂の<歴史文化の記憶>、それゆえ小生は<季語>よりも<キーワード>または<基語>という方が適切じゃないかと思います。一外国人のたわごとのように聞こえますが日本国内でもよく聞かれる話です、ただ多くの一般大衆がとりつきやすい伝統俳句(虚子ら曰く)に押された多数決(ポピュリスム)の果でしょうか、また日本人は伝統に弱いと言われますがそうでしょうか?ああ俳句よHaiku.

でわ伝統俳句の守護者はどうすればよいのでしょうか?いたって簡単です、俳句とはと問われた場合<これ以上縮めることが出来ないまでに縮めた最短の詩で瞬間の感動を詠んだ詩であり、其の中の所謂伝統俳句は日本人の習慣に則て季節を詠み込んだ俳句の一部であると、そして伝統俳句には守らなければならない三縛りがあると>。

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