白梅や老子無心の旅に住む

https://kanekotota.blogspot.com/2015/05/blog-post_60.html 【『語る兜太』より95歳自選百句】 より 

 白梅や老子無心の旅に住む       『生長』

 裏囗に線路が見える蚕飼かな

 山脈のひと隅あかし蚕のねむり     『少年』

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

 霧の夜の吾が身に近く馬歩む

 蛾のまなこ赤光なれば海を恋う

 木曽のなあ木曽の炭馬並び糞(ま)る

   トラック島三句

 被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ

 水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む

 朝日煙る手中の蚕妻に示す

 独楽廻る青葉の地上妻は産みに

 墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に

    会津飯森山

 罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期

 きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中

 雪山の向うの夜火事母なき妻

 暗闇の下山くちびるをぶ厚くし

 白い人影はるばる田をゆく消えぬために

 霧の車窓を広島走(は)せ過ぐ女声を挙げ

 原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む

 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて     『金子兜太句集』

 人生冴えて幼稚圉より深夜の曲

 朝はじまる海へ突込む鴎の死

 銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく

 豹が好きな子霧中の白い船具

 殉教の島薄明に錆びゆく斧

 湾曲し火傷し爆心地のマラソン

 華麗な墓原女陰あらわに村眠り

 黒い桜島折れた銃床海を走り

 果樹圉がシャツー枚の俺の孤島

 わが湖あり日蔭真つ暗な虎があり

 どれも囗美し晩夏のジャズー団      『蜿蜿』

 男鹿の荒波黒きは耕す男の眼

 無神の旅あかつき岬をマッチで燃し

 最果ての赤鼻の赤魔羅の岩群

 霧の村石を投(ほう)らば父母散らん

 三日月ががめそめそといる米の飯

 人体冷えて束北白い花盛り

 林間を人ごうごうと過ぎゆけり     『暗緑地誌』

 涙なし蝶かんかんと触れ合いて

 夕狩の野の水たまりこそ黒瞳(くろめ)

 谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな

 二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

 暗黒や関東平野に火事一つ

 馬遠し藻で陰(ほと)洗幼な妻       『早春展墓』

 海とどまりわれら流れてゆきしかな

 山峡に沢蟹の華(はな)微かなり

 ぎらぎらの朝日子照らす自然かな     『狡童』

 日の夕べ天空を去る一狐かな

 霧に白鳥白鳥に霧というべきか    『旅次抄録』

   (弘川寺にて)

 大頭の黒蟻西行の野糞

 人刺して足長蜂(あしなが)帰る荒涼へ

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている      『遊牧集』

 山国や空にただよう花火殼

 谷間谷間に満作が咲く荒几夫

 猪が來て空気を食べる春の峠

 山国の橡の木大なり人影だよ

 花柘榴の花の点鐘恵山寺

 麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人     『詩經國風』

 抱けば熟れていて夭夭の桃肩に昴

    (中国旅吟)

 朝寝して白波の夢ひとり旅

 若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥

 麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな

 どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ

 桐の花遺偈(ゆいげ)に粥の染みすこし     『皆之』

 牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ

 唯今ニ一五〇の白鳥と妻居り

    (中国旅吟)

 漓江どこまでも春の細路を連れて

 夏の山国母いてわれを与太と言う

 冬眠の蝮のほかは寝息なし

 雪の日を黄人われのほほえみおり     『黄』

 酒止めようかどの本能と遊ぼうか     『両神』

 長生きの朧のなかの眼玉かな

 春落日しかし日暮れを急がない

 大前田英五郎の村黄落す

    愚陀仏庵  

 二階に漱石一階に子規秋の蜂

  中国四川省の旅(2句)

 桂花咲き月の匂いの成都あり       

 燕帰るわたしも帰る並みの家

  じつによく泣く赤ん坊さくら五分

 おおかみに螢が一つ付いていた

 狼生く無時間を生きて咆哮

 狼墜つ落下速度は測り知れ 

 妻病めば葛たぐるごと過去たぐる

 定住漂泊冬の陽熱き握り飯     『日常』

 長寿の母うんこのようにわれを生みぬ

 源流や子が泣き蚕眠りおり

 秋高し仏頂面(づら)も俳諧なり

 沢上りつめ初日見る月の出待つ

 言霊の脊梁山脈のさくら

 子馬が街を走っていたよ夜明けの『こと

 大航海時代ありき平戸に朝寐して

 老母指せば蛇の体の笑うなり

 病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき   

 ブーメラン亡妻と初旅の野面(のづら)

 合歓の花君と別れてうろつくよ

 左義長や武器という武器焼いてしまえ

 津波のあと老女生きてあり死なぬ  『日常』以後

 被曝の人や牛や夏野をただ歩く


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12656096844.html  【白梅 金子兜太】 より

白梅や老子無心の旅に住む     金子兜太

今日も寒いことは寒いが景色はすでに春だ。今日は10時から15時まで仕事。

15時から17時まで散歩、そのあとは夜まで仕事。とても疲れる…。

散策の時間も仕事に回せばいいのだが、それでは気が滅入ってしまう。散策はいい気晴らしになるのだ。

今日は海沿いを歩こう、と昨日ブログで書いたが、休日の海は混む。で、やはり里山散策にした。

掲句。

初めてこの句を見たときは、なんかかっこつけた句だ…、と思っていたが、今日、しみじみ「梅」を見上げたら、ふいにこの句が浮かんで来た。

「梅」をゆっくり見ていたら、なんとなく「漢詩」の世界へ紛れ込んでゆくような気分になったのだ。

「老子」は詩人ではないが、「梅」は文化の香り豊かな古代中国「唐」の匂いがする。

この句、実は北原白秋の「老子」という詩の本歌取りだ、と聞いたことがある。

青の馬に白の車を挽かせて、老子は幽かに坐つてゐた。

はてしもない旅ではある、無心にして無為、飄々として滞らぬ心、函谷関へと近づいて来た。

ああ、人家が見える、馭者は思はず車を早めたが、何をいそぐぞ徐甲よと、老子の微笑は幽かであつた。

相も変らぬ山と水、深い空には昼の星、道家の瞳は幽かであつた。

前衛俳句の代表のような彼だが、「本歌取り」という伝統をしっかり継承していることに驚く。

が、これは「本歌取り」というより、この詩をモチーフにした、というべきだろう。

「無心の旅」…これはきっと兜太さんにとって生涯目指すものだったのかもしれない。

この句、18歳の作なのだそうだ。

その才にも驚くが、私が感じた「かっこをつけた」感じは、やはり18歳という若さの気負いとも思える。

http://yasumasa.jp/2009/02/09/post_459.html 【白梅や老子無心の旅に住む】 より

金子兜太

白梅が春の季語。梅、野梅(やばい)、春告草(はるつげぐさ)、臥竜梅(がりょうばい)、枝垂れ梅、盆梅(ぼんばい)、老梅、梅林、梅園なども同意の季語がたくさんあります。

散歩道の農家の庭に梅の木がいくつもあります。その中の一本の木が白い梅を咲かせ始めました。毎年のことですが、いよいよ春の訪れかとこころが躍ります。いいですね。その旧家には、白梅、紅梅、枝垂れ梅の木が並んでいます。このところは、雨戸をずっと閉めたままです。もう人が住んでいないのかしらと案じられます。

この句は、1年中旅にある、俳人の感慨を句にしています。老子は兜太、御大のことです。

同じ作者に次の句があります。感覚は現代詩に近いでしょうね。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている    兜太

作者かねこ・とうたの紹介は、2005 年1月27日を参照。

(出典:「合本現代俳句歳時記」角川春樹事務所、2004年刊)

https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/91c3061af3387c066cfa3ad2efba135a 【金子兜太の一句鑑賞(一)  高橋透水】 より

白梅や老子無心の旅に住む   兜太

 句集『少年』に収録された十八歳の時の作品であるが、俳句を始めての第一作目のものという。兜太は埼玉県の秩父で育ち旧制熊谷中学、旧制水戸高等学校文科乙類を経て、一九四三年に東京帝国大学経済学部を卒業した。句作の切っ掛けは高校在学中に一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加したことである。実は母親から俳句をやることは固く禁じられていたのだが、三太の巧みな言葉に乗せられてしまったのだ。

 母親が反対したのは、父親の金子伊昔紅が秋桜子系の俳人で、自宅で開かれる句会の様子を見てのことだった。句会の後酒を飲みながらの争いはいつものことで、兜太にはそういう真似はさせたくなかったのだ。しかし兜太は高校時代に約束を破って句会に出た。

 鑑賞句の〈白梅や〉はその時の句だ。下地には北原白秋の『老子』という詩に、「青の馬に白の車を挽かせて、/老子は幽かに坐つてゐた。/はてしもない旅ではある、/無心にして無為、……」というフレーズがあり、それが基になっている。

 初めての句会に出た翌年には全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得たことは、兜太の人生を大きく変えたと言ってよい。東京大学入学後は、楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事した。草田男からは俳句、楸邨からは人間性の影響を受けたという。

 さて「白梅」であるが、水戸の偕楽園などがある常磐公園の梅を念頭においてのことらしい。ただ「しらうめ」と読むか「はくばい」と読むかだが、「孔子無心の旅」の語感から察して「はくばい」と読むべきだろうか。最初の句会でなかなかの好評を得たことが兜太の俳句人生を決定したと言ってよいくらいだが、いずれにせよ「無心の旅」という措辞に既に兜太の「定住漂白」への思いが芽生えていたようだ。当時の戦争社会に対するレジスタン的な気分と、一方では山頭火などに惹かれ老荘の思想に憧れる心があったのだ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000