http://www.shirayama.or.jp/hakusan/belief.html 【白山信仰】 より
富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つ「白山」。雪を頂き、光を浴びて輝く姿に、古来より人々は白山を「白き神々の座」と信じ、崇めてきました。 また、農耕に不可欠な水を供給する山の神としてだけではなく、日本海を航行する船からも、航海の指標となる海の神として崇められていました。
北陸は、『日本書紀』の時代には「越の国」と呼ばれており、白山はそこにそびえる白き山という意味を込めて、古くは「越のしらやま」と呼ばれていました。
古来より白は神聖な色であったことから、平安時代には「越のしらやま」は都人にとって憧憬の山となり、当代一流の歌人たちの歌にも白山の名を見ることができます。
思ひやる 越の白山 知らねども ひと夜も夢に 越えぬ夜ぞなき 紀貫之『古今和歌集』
消えはつる 時しなければ 越路なる 白山の名は 雪にぞありける 凡河内躬恒『古今和歌集』
日本では、もともと「山」に対して二つの信仰が存在してきました。一つは遠くから眺めて神秘を感じ、山の神に感謝を捧げる「遥拝(ようはい)」で、北陸道筋には、白山を眺めるための「遥拝所(ようはいじょ)」が設けられていました。
もう一つは、山中に分け入って厳しい修行を積み、宗教的境地を目指す「修験」で、白山には全国から修験者(山伏)が集まりました。
どちらの信仰においても、白山ほど霊峰という冠が似合う山はなく、神々しいまでの美しさは多くの人を魅了し続けています。
白山信仰の始まり
養老元年(717)、越前(福井県)の僧「泰澄(たいちょう)」が初めて白山に登拝し、翌年山頂に奥宮を祀りました。以来、神々しい神の山は人々の憧れとなり、白山信仰は急速に全国に広まっていきました。
白山登拝が盛んになると、加賀(石川県)、越前(福井県)、美濃(岐阜県)には、その拠点となる馬場(ばんば)が設けられ、多くの人々で賑いました。
白山比咩神社は、加賀馬場の中心として栄え、比叡山延暦寺の末寺として多くの衆徒(しゅうと)を擁し、北陸道全域に勢力をおよぼしました。
武家の崇敬も厚く
前田利家奉加帳鎌倉時代には、源頼朝の寄進を受けるなど、武家からも厚く崇敬されました。しかし、戦国の混乱や一向一揆の台頭によって一時衰退します。
江戸時代になると、加賀藩主前田家の庇護のもと復興し、前田家の祈願所にもなりました。
そして明和7年(1770)、時の10代藩主前田重教(しげみち)によって現在の本殿が寄進されました。
前田利家奉加帳
天正14年(1586)に加賀藩祖前田利家が白山本宮に金品の奉加を行った。これ以後、歴代の藩主によって奉加が行われている。
今に生きる白山信仰
重要文化財「銅造十一面観音立像」明治時代を迎えると、神社と寺院を区別させる神仏分離令が発令され、仏像や仏具が白山の頂より下ろされることとなりました。それらの仏像は「白山下山仏」として現在も白山の山麓の白山本地堂や尾添白山社などに安置されています。
明治10年(1877)には、白山比咩神社を本宮、山頂の神祠が奥宮と定められ、御鎮座二千百年を越える信仰の地として親しまれています。
https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/08_vol_121/feature01.html 【白山|女神と菩薩の座 神仏混淆の白山信仰】より
三所権現が鎮座する神体山 霊峰白山巨大な山塊を雪に覆われた白山は崇高にして、気高く、優美である。
その姿に、古代より人々は神威を感じ、敬虔に仰ぎ、祈りを捧げた。
神が鎮座するという霊峰白山へと続く古道、禅定道を辿り、神体山の霊気にふれた。
「白山曼荼羅図」(三幅一組)。白山三所権現が座所とする大汝峰、御前峰、別山とともに、それぞれの禅定道(登拝の道筋)が描かれている。(能美市蔵)
北陸路の旅の楽しみは車窓から眺める白山の風景だ。晴れた冬の青空に、一点の染みもない真っ白な姿を横たえる姿は、堂々として気高く優美である。 とくに、日本海に夕陽が沈む前の白山は神々しいまでに紅色に染まり、色彩が微妙に変化して荘厳である。
加賀大聖寺生まれの作家、『日本百名山』の著者である深田久弥は「白山」というエッセイに神秘的な美しさを描いている。「青い月光を受けて、白銀の白山がまるで水晶細工のように浮き上がっているさまは、なにか非現実的な夢幻の国の景色」。古代の民人がそこに神威を感じ、神々が座す山と崇めるのはなんの不思議もない。白山信仰とは本来、そういう素朴な敬いであった。
白山は独立峰にして、広大な山麓をかかえる大山塊である。石川県、福井県、岐阜県にまたがり、手取川、九頭竜川、長良川、そして富山県の庄川の4つの河川の水源でもある。白山に源を発したそれぞれの河川は裾野に肥沃な土を運び、広大な扇状地を作り、田畑を潤して山麓や平野の暮らしに豊穣をもたらす。ゆえに白山は、農耕を司る水の神、龍神であり、さまざまな山の恵み、養蚕などの殖産の神なのである。そして、海上における「山だめ」の指標として、白山は航海や漁労の守護神としても崇められてきたのである。
存在自体が神体山であり、禁足の霊山だった。民人はただ遠くから祖神である白山大神がおわす白山を遥拝し、崇敬した。その白山は一つの山でなく連峰である。最高峰の御前峰[ごぜんがみね](2,702m)、大汝峰[おおなんじみね](2,684m)、別山[べっさん](2,399m)を白山三山と称し、剣ケ峰、白山釈迦岳を加えて白山五岳[ごがく]と称している。富士山、立山と並んで日本三名山、あるいは三霊山と呼ばれたりもする。
やがて白山は素朴な土俗の信仰の遥拝の対象から、登拝の霊山へと性格が変わる。ここに越前の修験僧、泰澄[たいちょう]が登場する。白山は泰澄によって開山された。平安時代中期の『泰澄和尚[かしょう]伝記』には、泰澄は飛鳥時代の682(天武11)年に越前麻生津(現福井市)に生まれ、幼少の頃から神童の誉れ高く、一人山に籠って行を積み、36歳の時に白山を開山したことなどが記されている。
伝記によると、越知山の岩屋で修行する泰澄は霊夢を見る。泰澄の前に「身を飾れる貴女」が現れ、「白山に来るべし」とお告げを受けた泰澄は、険しい尾根を辿って山頂に到達し、千日間籠って精進潔斎した。同様の伝承は加賀にもあり、「白い馬に乗った貴女」の「私は伊弉冉尊[いざなみのみこと]で、白山妙理大菩薩である。真の姿が見たくば白山山頂に来れ」との霊言に誘われて赴くと、そこで泰澄は白山大神の真の姿に遭遇するというものだ。
伝記では、白山の開山は717(養老元)年。泰澄は後に奈良に招かれ、病の元正天皇を快癒させた功によって「神融禅師」の称号を授かり、さらに聖武天皇から「泰澄大和尚」の尊号を賜り大師となる。晩年は故郷、越前の越知山山麓に蟄居し、86歳の天寿をまっとうしたと伝えている。いずれにしても泰澄の白山開山を境に、素朴な土着神の白山信仰は神仏混淆の白山三所権現として民人の心をとらえていく。
神仏混淆は平安時代中期に本地垂迹説で確立され、鎌倉、室町時代を通じて隆盛を極める。その白山信仰の広がりは全国津々浦々に及び、その数は約3000社を数えるという。
白山は加賀平野から眺めるのがもっとも美しいといわれる。片山津温泉の柴山潟から見た白山は「白き神々の座」と呼ぶにふさわしい姿だ。(撮影:吉澤康暢氏)
白山を開山した泰澄と2人の弟子像(室町時代)。1493(明応2)年の銘があり、泰澄像としては最古の像である。(福井県大谷寺蔵)
白山麓、白山市白峰の集落にある林西寺。この寺の白山本地堂には、明治時代の神仏分離令の折、白山から下ろされた8体の仏像が安置されている。
白山の最高峰、御前峰の山頂。山上は白山比咩神社の社有地で、奥宮には白山比咩大神が鎮座する。(撮影:高羽 央氏)
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