羽黒山

http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/oku/oku6Tohoku4.html 【 羽黒山】より

6月3日に羽黒山入りしている。ここでは、知人の近藤左吉に世話になり、 羽黒山の高僧のもてなしも受けた。霊験新たかな出羽三山詣でも十分行うことができ、多くの人たちとの俳句の会も堪能している。 6月13日にここを立ち、舟で酒田に向かっている。

「曾良日記」より

・三日 ・・・申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。・・・(中略)・・・本坊若王寺別当執行代和交院へ、 ・・・(中略)・・・再帰テ、南谷へ同道。

・四日 ・・・昼時、本坊へ蕎麦切ニテ被招、会覚ニ謁ス。・・・

・五日 ・・・夕飯過テ、先、羽黒ノ神前ニ詣。・・・

・六日 登山。・・・三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。・・・(中略)・・・ 申ノ上尅、月山ニ至。

・七日 湯殿へ趣。・・・(中略)・・・昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。 ・・・(中略)・・・月山、一夜宿。

・八日 ・・・和交院御入、申ノ刻ニ至ル。・・・(中略)・・・申ノ上尅、月山ニ至。

(注) 曾良日記には、9日から12日の間の記述もあるが、 主にこの地で俳句の会が催されたことやその参加者などが記されている。

羽黒山はぐろさん : 山形県庄内平野にある山。月山、湯殿山とともに出羽三山と呼ばれ、昔から人々の信仰を集めていた。羽黒山山頂に出羽神社があり、修験者の聖地として有名。なお、羽黒山、月山、湯殿山の標高はそれぞれ414、1979、1504メートル。

図司左吉づしさきち : 芭蕉の知人で、染物屋の佐吉。佐吉も俳諧の道を志しており、俳号を呂丸と言った。

別当代べつとうだい会覚ゑがく阿闍梨あじゃり : 別当とは、一山の法務を統括する長のことであり、代が付いているのでその代理を意味する。羽黒山の別当代が、会覚阿闍梨という僧である。

武江ぶこう東叡とうえい : 武江とは、武蔵野国江戸のこと。東叡とは、天台宗の東叡山寛永寺で徳川家の菩提寺。 現在の上野の寛永寺である。江戸時代、出羽三山は多くの人々の信仰を集めた東国一の信仰の地であり、 羽黒山は当時上野の東叡山寛永寺の末寺として位置づけられていた。

天台止観てんだいしかん、円頓えんどん融通ゆづう : 

脚注「天台宗の教え」 参照

延喜式えんぎしき : 平安時代中期 延喜5年(905)に、醍醐天皇の命により編纂された格式すなわち律令の施行細則が延喜式である。 延喜式には、当時の神社の格式、たとえば祝詞(のりと)や、神名帳(じんみょうちょう)と呼ばれる神社の一覧表がある。 神名帳は、神社の名前、祭神、社格などを記載したものであり、 ここに記載された神社は当時の朝廷から格式が高いと認められた神社である。羽黒山神社もその1つであった。

風土記ふどき : 和銅6年(713)に元明天皇が諸国の地名、その地名の由来、産物、土地の状態、言い伝えられている伝説などの編纂を命じ、それによって作られたのが風土記である。 完全版は現存していないが、出雲国風土記がほぼ完成本、 播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記は一部欠損しているが今に残っている。

日月行道にちげつぎょうどう雲関うんかん : 仏経用語で、日月行道とは太陽や月が通る雲の中の道のこと。 雲関とは雲の関所のこと。 したがって、「雲関に入る」とは、頂上を目指して雲を越えて月山に登ることを形容したものである。

龍泉りゅうせん : 中国湖南省にあったと伝えられる、 刀を鍛えるのに適した水を湛えていた泉。

淬にらぐ : 焼きを入れること。 

干将・莫耶かんしょう・ばくや : 干将は、 中国春秋時代の刀鍛冶。その妻が莫耶。呉の王に刀の製作を命じられたとき、干将は妻の髪を炉に入れ刀に焼きを入れ、龍泉の水で鍛えて、 雌雄二振りの名剣を作った。雄剣には「干将」と名づけ、雌剣には「莫耶」と名付けたという言い伝えがある。

月山を降る途中にあった鍛冶小屋を見て、芭蕉が思いを馳せたのが「干将・莫耶」であった。 

行尊僧正ぎょうそんそうじょう : 平安時代末期、 比叡山延暦寺の最高位 天台座主に任ぜられた大僧正行尊(1055~1135)。山伏修験者でもあり、また歌人としても有名であった。 芭蕉は、行尊の詠んだ次の歌を思い出していた。

「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」

羽黒山での逗留日数 

曾良日記によれば、6月3日から12日までの約10日間という比較的長い期間を羽黒山一帯で過ごしている。 羽黒山は修験者の修行の地であり、当然大規模な寺院があり、見るべき所も多く宿にも困ることがなかったと思われる。 また、この地に染物屋の佐吉という知人がおり、その世話で寺院の僧のもてなしを受けたり、 俳諧を解する人たちとの俳句の会も数多く催され、 芭蕉にとっては、奥の細道の旅の中でも最も居心地のよい10日間の逗留であったに違いない。

天台宗の教え :

天台宗の教えは「円頓止観えんどんしかん」 という考え方が中心になっていると言われる。

止観とは、諸々の心の思いを一つの対象に止めてそそぎ、正しい知恵をもって対象を観るという教え。 止観は禅そのものをも意味すると言われている。

円頓とは、すべてが円やかに欠けることなく、たちどころに悟りにいたらしめる(頓はにわかにの意)という教え。

天台宗では、この世界のすべてのものごとを認識する根本的な考え方を「空観」に置いており、 すべてのものごとには普遍の真理や不変の実体があるわけではない。すべての存在をありのままに見、 何ものにもこだわらないものの見方、心のあり方を学ばなければならないと説いている(”天台寺門宗の教え”より)。

このような考え方が、芭蕉の世界観 「諸行無常の観念」 に結びついていったものと考えられる。

https://www.kosaiji.org/hokke/tendai/kyogi.htm 【天台の教義】 より

章安大師灌頂 (561-632)

 天台大師(智者大師智顗)の侍者となり、天台大師の講義の筆録『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』(天台三大部)などを編纂した。後の時代に天台大師の教説に触れることができるのは章安大師灌頂の業績によるところが大きい。

『妙法蓮華経文句』(法華文句) 十巻 

 天台大師が587年、金陵(南京)光宅寺で講義した法華経の筆録。10巻。法華経の経文の解釈。

『妙法蓮華経玄義』(法華玄義) 十巻

 天台大師が593年、荊州玉泉寺で講義した筆録。法華経の要旨を総論したもの。10巻。

『妙法蓮華経』の経題について五重玄義(※)からその特色を述べたもの。

※五重玄義

釈名 題名の解釈

弁体 題名に現された本質を明確にする

明宗 教えの修行宗旨を明らかにする

論用 教えのはたらきを論ずる

判教 仏教全体中で経の教えが占める位置を定める

『摩訶止観』 十巻

 天台大師が594年、荊州玉泉寺で講義した筆録。『法華文句』が法華経の解説、『法華玄義』が法華経の題目の解説とすれば、『摩訶止観』はその実践を説いたもの。円頓止観(序文)、十乗観法(正説-正修-陰入界境)、一念三千(正説-正修-陰入界境-観不思議境)、四種三昧(正説-大意-修大行)、一心三観(正説-正修-陰入界境-修道品)など、天台宗とその発展に不可欠なことが論じられる。

 

荊渓大師(妙楽大師湛然)

中国天台山国清寺 智者塔院(眞覺寺)蔵

妙楽大師湛然(荊渓大師) (711-782)

 唐代中期の僧。天台第六祖 ※ で天台を中興した。その出身地から荊渓尊者。あるいは妙楽大師と称される。儒学の教養があり、730年に左渓玄朗に就き20年間天台を学ぶ。出家は遅く38歳である。

 唐の時代になると、新しく興った華厳宗や禅宗が隆盛であり、さらに新しくインドから唯識仏教(法相宗)伝来していた。妙楽大師は律、唯識、華厳に通じ、それらに対抗し て天台の宗勢を発展させた。また、天台宗の宗旨を発展的に確立しそれを宣揚した。天台大師の典籍を注釈し、なかでも天台三大部の註釈は現在でも天台学研究の必須の書である。弟子のうち、道邃と行満は後に入唐した最澄の受法の師である。

※ 中国天台宗では、歴代先師を第何祖とするかは何種類かの数え方があるようだ。インドの龍樹を初祖とする数え方もあるようだ。ここでは下記の資料の如く天台大師を初祖としている。(天台→灌頂→智威→慧威→玄朗→湛然)

天台實傳唐章安灌頂。,章安傳縉雲智威。縉雲傳東陽慧威。東陽傳左溪玄朗。左溪傳荊溪湛然。『四明尊者教行録』大正新脩大藏經 46巻 P915 c L22

 一方でインドの龍樹を開祖とする数え方もある。『佛祖統紀』(大正新脩大藏經 49巻 P177 c L11)、『天台九祖傳』(下記参照)など。

高祖龍樹菩薩 二祖北斉尊者。三祖南嶽尊者 四祖天台教主智者大師 五祖章安尊者 六祖法華尊者 七祖天宮尊者 八祖左谿尊者 九祖荊溪尊者 (大正新脩大藏經 51巻 P97 a 29)

  開祖 龍樹菩薩 インド 150-250年頃

  二祖 慧文禅師  

  三祖 南岳慧思禅師 (515-577)

開祖 四祖 天台大師智顗 (538-597)

二祖 五祖 章安大師灌頂 (561-632)

三祖 六祖 法華智威(縉雲智威) 大正新脩大藏經 巻49 P187 b L6、 巻51 P101 c L24参照

四祖 七祖 東陽慧威 大正新脩大藏經 巻49P187 c L29、巻51 P102 a L2参照

五祖 八祖 左渓玄朗 大正新脩大藏經 巻49 P188 a L16、巻51 P102 a L12参照

六祖 九祖 妙楽大師湛然 (711-782)

法難と五時八教

 妙楽大師が天台宗を中興し、最澄が遣唐使として入唐(804年)したのち、唐(618~907)の末期の戦乱期に「会昌の法難」(845年)が起こった。これは三武一宗の法難の一つである。道教の教徒による画策で起こされた国家権力による仏教排斥運動(排仏)。天台宗も手痛い被害を受けて衰退してゆく。次に中興されるのは宋(960-1279)の時代である。

會昌焚毀中國教藏殘闕殆盡

(『天台四教儀』 四教儀縁起 大正新脩大藏經46巻P774 a)

会昌の法難により天台の典籍が焼かれ破られ、中国の教蔵は残欠(欠けて完全でない)状態となった。

 会昌の法難では、天台宗の典籍は焼かれたり廃棄されたりして典籍を散逸していた。そこで中国天台宗は朝鮮半島や日本の天台宗に欠けた典籍の復帰支援を請じなくてはならなかった。実際、中国の高僧徳韶は日本に使者を送り、天台典籍を求めた。それに応えて周の時代(953年)比叡山の日延が天台典籍を天台山に運んだ。

 また、宋の時代(961)年 に高麗(朝鮮)では諦観法師が天台山に天台典籍をもたらした。その過程で、中国天台宗に諦観の『天台四教儀』の五時八教教判の教義が混入してしまった。

 五時八教という用語は妙楽大師湛然が既に使用している。しかし、教相判釈としての五時八教が現在の形に完成したのは宋の時代である。諸経に対して法華経が最も優れていることを解りやすく説明していて、天台を学ぶ者がまず教わることであるが、果たしてそれが元々の天台の教義であるのかどうか。また、学術的なインド仏教学が一般的に認知されている時代に、それがどれだけの妥当性と説得力を持っているのか。検証が必要だ。

参考図書・資料

 「聖地 天台山」 陳 公余/野本 覚成 著 佼成出版社

 「天台大師の生涯とその業績」 武 覚越 天台宗務庁(布教課) 非売品

 CBETA 電子佛典測試普及版 完成日期:2001/04/30

 岩波仏教辞典

 「世界大百科事典」第2版 平凡社


https://www.bookbang.jp/review/article/534576【『摩訶止観』を読む 池田魯參 著 】より

[レビュアー] 菅野博史(仏教学者)

◆心の重層性、成仏の可能性

 『摩訶止観(まかしかん)』は、中国天台宗の開祖である天台大師智〓(ちぎ)の瞑想(めいそう)修行の体系とその仏教学的裏付けについて記した書物である。智〓は陳・隋に活躍した仏教僧として著名であり、日本においても、最澄による天台宗の日本輸入以降、天台宗、鎌倉新仏教、とくに日蓮系諸宗派において重要視されてきた。

 『摩訶止観』は、仏教の瞑想修行を、心の散乱を止める「止」と真理を智慧(ちえ)によって観察する「観」との二文字に畳み込んで体系化した書物で、とくに私たちの一瞬の心に地獄界から仏界までのあらゆる世界を備えるという、心の重層性、成仏の可能性を説いた「一念三千」を説き示し、善と悪の両面を包含する人間の全体性を見すえながら、いかなる境界からも仏の境界を実現できることを明らかにした。

 このように歴史的に重視されてきた書物で、岩波文庫からもテキストが刊行されているが、専門家にとってもかなり難解な書物である。このたび、かつて『摩訶止観』の現代日本語全訳を果たした池田氏が、一般の読者のために平易な入門書を刊行した。解説者として最適任者を得て、『摩訶止観』が多くの読者にとってより身近なものになることを願う。

 本書は二十数年前のラジオ放送のテキストに、改めて加筆補正して成ったものである。『摩訶止観』の要文(訓読訳)を引用し、その大意を示し、解説を加えるという体裁を取っている。

 岩波文庫本はサブタイトルに「禅の思想原理」と付し、本書にも帯に「坐禅の原点へ」という語句が見られる。池田氏も「はしがき」でマインドフルネス(注意深く対象を観察すること)の流行に言及している。現代人が自己の心の問題に取り組むときに、『摩訶止観』はすぐれた導き手となってくれるはずである。ポール・スワンソン南山大教授の『摩訶止観』英語全訳がまもなく刊行されるので、『摩訶止観』は仏教に関心のある欧米人の間でも注目されるようになるかもしれない。


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