三更月下(さんこうげっか)入無我(むがにいる)

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=477450 【《第拾一》 逸話連発】 より

「なるほどおもしろい解釈だ」と独仙君が言い出した。こんな問題になると独仙君はなかなか引っこんでいない男である。

「苦沙弥君の説明はよく我が意を得ている。

 昔の人は己を忘れろと教えたものだ。今の人は己を忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中『己』という意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。

 天下に何が薬だといって、己を忘れるより薬な事はない。※三更月下(さんこうげっか)入無我(むがにいる)(真夜中、月の光の下で無我無心の境地に入る)とはこの至境を詠じたものさ。

 今の人は親切をしても自然をかいている。※イギリス人のナイス(nice)などと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになっている。英国の天子(ヴィクトリア女王の長男エドワード7世のこと。皇太子時代にインドを訪れた)がインドへ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出してジャガイモを手づかみで皿へとって、あとから真っ赤になって恥じ入ったら、天子は知らん顔をしてやはり二本指でジャガイモを皿へとったそうだ……」

「それがイギリス趣味ですか」これは寒月君の質問であった。

「僕はこんな話を聞いた」と主人が後をつける。

「やはり英国のある兵営で連隊の士官が大勢して一人の下士官を御馳走した事がある。御馳走が済んで手を洗う水をガラス鉢へ入れて出したら、この下士官は宴会に慣れんとみえて、ガラス鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると連隊長が突然『下士官の健康を祝す』と言いながら、やはりフィンガー・ボール(食後に指先を洗う水の入った容器)の水を一息に飲み干したそうだ。そこでなみいる士官も我劣らじと水盃(みずさかずき)を挙げて下士官の健康を祝したと言うぜ」

※「三更月下入無我」

「三更」は午後11時から午前1時。

中国禅僧の詩集『江湖風月集』にある広聞和尚の詩句「三更月下 入無何」の、「何」を「我」に変えた表現。「無何」は「無心の心境」を暗示する「無何有郷」の略。わかりやすく「無我」の語を当てたものか。

※「イギリス人のナイスなどと自慢する行為」

ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の英訳の余白に、訳せば次のようになる、漱石による英語の書き込みが残されている。

「イギリスへ行って礼儀なる言葉の意味するところを見てくるがいい。これはナイスだ、あれはナイスだ、なんぞと彼らは言う。彼らにはなんでもかんでもナイスに思われるようだ。しかし、奇妙なことにその言葉をもっともよく使うものに限って、その意味するところを知らないのだ。ロンドンの汚い街を歩けば、いくらでも『ナイス』なるものを拾い集めることができる。これほど『ナイス』が大量に安売りされている所もないだろう。これはなんの為かと言えば、ただ他人を喜ばせる為に過ぎない。『ナイス』の意味も分からない連中にナイスなどと呼ばれると気を悪くする人が居るかもしれないという事が、彼らには分かっていないのだ」


http://kikaku.boo.jp/shinshi/kareobana.html 【枯尾華・芭蕉翁終焉記】

はなやかなる春は、かしら重く、まなこ濁りて心うし。泉石冷々たる納涼の地は、ことに湿気をうけて夜もねられず。朝むつけたり。

秋はたゞ、かなしびを添る、腸(はらわた)をつかむばかり也。「ともかくもならでや雪のかれ尾花」と無常閉關の折々は、とぶらふ人も便なく立帰りて今年就中老衰在りと歎きあへり。抑此翁、孤独貧窮にして、徳業にとめること無量なり。二千余人の門葉、邊遠ひとつに合信する因と縁との不可思議.いかにとも勘破しがたし。

天和三年の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、薦をかつぎて、煙のうちに生のびけん。是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を発して、其の次年、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと、それより三更月下入無我といひけん昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の旧草に庵をむすび、しばしも心とどまる詠にもとて、一株の芭蕉を植たり。

 雨中吟、芭蕉野分して盤に雨を聞夜哉

と侘びられしに、堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶてことになむ成ぬ。その頃円覚寺大嶺和尚と申が、易にくはしくおはしけるによりて、うかゞひ侍るに、或時翁が本卦のやうみんとて、年月時目を古暦に合せて、筮考せられけるに、「苹」といふ卦にあたる也。是は一もとの薄の風に吹れ、雨にしぼれて、うき事の敷々しげく成ぬれども、命つれなく、からうじて世にあるさまに譬たり。さればあつまるとよみて、その身は潜カならんとすれども、かなたこなたより事つどひて、心ざしをやすんする事なしとかや。信に聖典の瑞を感じける。さのどとく、草庵に入來る人々の道をしたへるあまり、とにもかくにも慰むれば、所得たる哉。

 橋あり、舟有、林アリ、塔アリ、花の雲鐘は上野か浅草か

と眼前か奇景も捨がたく、をのをのがせめておもふも、むつまじく侍れど、古郷に卿忍ばるゝ事ありとて、貞享初のとしの秋、知利をともなひ、大和路やよし野の奥も心のこさす、露とくとくこころみに浮世すゝがばや。

是より人の見ふれたる茶の羽織、ひの木笠になん、いかめしき音やあられと風狂して、こなたかなたのしるべ多く、鄙の長路をいたはる人て、名を乞、句を忍ぶ安からず聞えしかば、隠れかねたる身を竹斎に似たる裁と凩の吟行に、猶々徳-化して、正風の師と仰ぎ侍る也。近-在隣-郷より馬をはせて、来りむかふるもせんかたなし。心をのどめて思ふ一日もなかりければ、心気、いつしかに衰減して、病ム鴈(がん)のかた田におりて族ね哉、とくるしみけん其年より、大津膳所の人、いたはり深く、幻佳庵(猿蓑に記あり)義仲寺、ゆく所至処の風景を心の物にして、遊べること年あり。元來、混(根)本寺佛頂和筒に嗣法して、ひとり開禅の法師といはれ、一-氣鐵鋳-生(なす)いきほひなりけれども、老身くづほるゝまゝに、句毎のからびたる姿でも、自然に山家集の骨髄を得られたる、有がたくや。さればこそ此道の杜子美也ともてはやして、貧交人に厚く、喫-茶の會盟に於ては、宗鑑が洒落も教のひとかたに成て、自-由-躰放-狂-躰、世-挙(こぞ)って口うつしせしも現力也。

凡、篤-實のちなみ、風雅の妙、花に匂ひ月にかゞやき、柳に流れ雪にひるがへる。須磨明肩の夜泊、淡路島の明ぼの、杖を引はてしもなく、きさだた能因、木曾路に兼好、二見に西行、高野に寂蓮、越後の縁は宗祇宗長、自川に兼載の草庵、いづれもいづれも故人ながら、芭蕉翁についてまぼろしにみえ、いざやいざやとさそはれけん、行衛の空もたのもしくや。

(奥のほそ道といふ記あり)十余年がうち、杖と笠とをはなさす、十日とも止まる所にては、叉こそ我胸の中を、道祖神のさはがし給ふ也と語られしなり、住つかぬ旅の心や置火燵、是は慈鎮和尚の、たびの世にまた旅寐してくさ枕ゆめの中にもゆめをみる哉、とよませ給ひしに思ひ合せて侍る也。

遊子が一生を旅にくらしてはつつと聞得し生涯をかろんじ、四たびむすびつる深川の庵を叉立出るとて、鶯や笋籔に老を鳴人も泣るゝわかれなりしが、心待するかたがた、とにかくかしがましとて、ふたゝび伊賀の古郷に庵をかまへ、(三か月の記あり)爰にてしばしの閑素をうかゞひ給ふに、心あらん人にみせばや、と津の國なる人にまねかれて、爰にも冬篭りする便ありとて、思ひ立給ふも道祖神のすゝめ成べし。九月廿五日、膳所の曲翠子より、いたはり迎へられし返事に、此道を行人なしに秋の昏と聞こえるも終のしをりをしられたる也。

伊賀山の嵐、紙帳にしめり、有ふれし菌(クサビラ)の塊積(サカエ)にさはる也と覚えしかど、苦しげたれば例の薬といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢、度しげくて、物いふ力もなく、手足氷リぬれば、あはやとてあつまる人々か中にも、去來京より馳くるに、謄所より正秀、大津より木節・乙州・丈州、平田の李曲つき添て、支考惟然と共に、かゝる歎きをつぶやき侍る。もとよりも心神の散乱なかりければ、不浄をはゞかりて、人々近くも招かれず、折々の詞につかへ侍りける。たゞ壁をへだてゝ、命運を祈る聲の耳に入けるにや。

 心弱きゆめのさめたるはとて、旅に病て夢は枯野をかけ廼る

また、枯野を廻るゆめ心ともせばやと申されしが、是さえ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也。と悔まれし。

八日の夜の吟也。各はかなく覚えて、

賀會祈祷の句

落つきやから手水して神集め  木節

風の空見なをすや鶴の聲    去来

足がろに竹の林やみそさゞい  惟然

初雪にやがて手引ん佐太の宮  正秀

神のるす頼み力や松のかぜ   之道

居上ていさみつきけり魔の貌  伽香  居上(すえあげ)

起さるゝ馨も嬉しき湯婆哉   支考  

水仙や使につれて床離れ    呑舟

峠こす鵬のさりや諸きほひ   丈草

目にまして見ます顔也霜の菊  乙州

 是ぞ生前の笑納めめ也。

木節が薬を死迄もと、たのみ申されけるも實也。人々に定にかゝふる汚レを耻給へば、坐臥のたすけとなるもの呑舟と舎羅也。これは之道が貧しくて有ながら、切に心ざしをはこべるにめでゝ、彼が門人ならば他ならずとて、めして介施の便とし給ふ。そもかれらも縁にふれて、師につかふまつるとは悦びながらも、今はのきはのたすけとなれば、心よはきもことはりにや。各がはからひに、

麻の衣の垢つきたるを恨みて、よききぬに脱かはし、夜の衣の薄ければとて、錦繍のめでたきをとゝのへたるぞ、門葉のものどもが面目なり。九日十日はことにくるしげ成に、其角、和泉の府淡の輸といふわたりへ、まいりたるたよりを、乙州に尋られけるに、なつかしと思ひ出られたるにこそとて、やがて文したふめてむかひ参りし道たがひぬ。

予は、岩翁亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日のタべ大坂に着て、何心友く為きなの行衛、覚束なしとばかりに尋ければ、かくなやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかゞひより、いはんかたな懐(オモイ)をのべ、力なき聲の詞をかはしたり。是年ごろの深志に通じて、佳吉の神の引立給ふにやと歓喜す。わかのうらにても所つる事は、かく有べしとも思ひよらす。蟻通の明神の物とがめ改きも.有がたく覚侍るに、いとゞ消せきあげて、うづくまり居るを、去来・支考がかたはらにまねくゆへに、退いて妄味の心をやすめけり。膝をゆるめて病顔をみるに、いよいよたのみなくて、知死期も定めなくしぐるゝに、

吹井より鶴を招かん時雨かな 晋子(其角)

と祈誓してなぐさめ申けり。先頼む椎の木もあり、と聞えし幻住庵はうき世に遠し。木會殿と塚をならべてと有したはぶれも、其のきさらぎの望月の頃と願へるにたがはず。常にはかなき何どものあるを前表と思へば、今さらに臨終の聞えもなしとしられ侍り。露しるしなき薬をあたゝむるに、伽のものども寝もやらで、灰書に、

うづくまる薬の下の塞さ哉    丈州

病中のあまりす上るや冬ごもり  去來

引張てふとんぞ塞き笑ひ撃    惟然

しかふれて次の間へ出る塞さ裁  支考

おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ  正秀

□とりて菜飯たかする夜伽裁   木節 (□=門の中に亀)

皆子也みのむし塞く鳴盡す    乙州

十二日の申の刻ばか久に、死顔うるはしく睡れるを期として、物打かけ、夜ひそかに長櫃に入て、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去來・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟(寿貞が子)次郎兵衛、予とてもに十人、笘もる雫、袖塞き旅ねこそあれ、たびねこそあれ、とためしなき奇縁をつぶやき、坐神称名ひとりびとりに、年ごろ日頃のたのもしき詞、むつまじき教をかたみにして、誹諧の光をうしなひつるに、思ひしのべる人の名めみ慕へる昔語りを今さらにしつ。東南西北に招かれて、つゐの栖を定めざる身の、もしや奥松島越の白山、しらぬはてしにてかくもあらば、聞て驚くばかりの歎ならんに、一夜もそひてかばねの風をいとふこと本意也。此期にあはぬ門人の恩いくばくぞや、と鳥にさめ鐘をかぞへて伏見につく。

ふしみより義仲寺にうつして、葬禮.義信を盡し、京大坂大津膳所の連衆、披(被カ)官従者迄も、此翁の惰を慕へるにこそ、まねかざるに馳来るもの三百余人也。浄衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてゝ着せまいらす。則、義仲寺の直愚上入を、みちびきにして、門前の少引入たる所に、かたのごと木曾塚の右にならべて、土かいおさめたり。をのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならん、とそのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせをを植て名のかたみとす。常に風景をこのめる癖あり。げにも所はながら山田上山をかまべて、さゞ波も寺前によせ、漕出る舟も観念の跡をのこし、樵路の鹿田家の雁、遺骨を湖上の月にてらすと、かりそめならぬ翁なり。人々七日が程こもりて、かくまでに追善の輿行、幸ヒにあへるは予也けり、と人々のなげきを合感して、愚かに終焉の記を残し侍る也。程もはるけき風のってに、我翁をしのばん輩は、是をもて回向のたよりとすべし。

                                    於粟津義中寺 牌位下 晋子書(其角)



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