http://yahantei.blogspot.com/2007/04/blog-post_20.html 【其角とその周辺その七(六十六~七十一】 より
兄 森川許六 人先に医師の袷や衣更
弟 (其角) 法躰も島の下着や衣更
許六は、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kyoroku.htm
森川許六(もりかわ きょりく)
(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。 「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
うの花に芦毛の馬の夜明哉 (『炭俵』)
麥跡の田植や遲き螢とき (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな (『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉 (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな (『續猿蓑』)
娵(よめ)入の門も過けり鉢たゝき (『續猿蓑』)
腸(はらわた)をさぐりて見れば納豆汁 (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風 (『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
下記のアドレスでは、「蕉門十哲」について、下記(※)のとおりとしているが、これは、たとえ、晩年は芭蕉と袂を分かったが、「芭蕉七部集」のうちの、『冬の日』・『春の日』・『阿羅野』を編纂したといわれている「荷兮」を加えるべきなのではなかろうか。ということで、上記の「蕉門十哲」のうち、「維然」は「荷兮」と差し替えて理解したい。なお、路通・越人なども十哲候補の一人であろう。
(蕉門十哲)
其角・嵐雪・杉風・去来・丈草・凡兆・許六・支考・野坡・荷兮
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/jittetsu.htm
※(蕉門十哲)諸説紛紛の蕉門の十哲であるが、実力からいって下記のようか????
其角・嵐雪・杉風・去来・丈草・凡兆・許六・支考・野坡・維然
上記のように、「蕉門十哲」を理解して、杉風(十一番)に次いで、この許六(十五番)が登場してくる。なお、去来(十六番)、十哲候補の、路通(二十五番)、越人(二十七番)は後に出てくる。『田中・前掲書』によれば、「野坡や孤屋を芭蕉に紹介したのは其角であろう。去来や許六も彼(其角)を介して芭蕉に入門している。曲翠も其角を介して芭蕉に入門したらしい。其角には、自分の勢力を拡大しようという気持ちはまったくなかったとみて間違いなかろう。彼にとって、自分の弟子はすべて芭蕉の弟子だったのである」(上記のネット記事では、許六が蕉門に入ったのは桃隣の紹介とあるが、その桃隣を支援しているのが其角であり「其角を介して芭蕉に入門」と解したい)と、蕉門十哲の主なメンバーは、其角を介して、芭蕉門に入り、後には、去来や許六は、芭蕉の側近となり、其角に対して、どちらかというと批判的傾向を強めていく(この傾向は、芭蕉没後に顕著になるが、そのことについては、去来のところで記述する)。ここでは、許六の『俳諧問答』(元禄十一年刊)の「俳諧自賛之論」の芭蕉と許六の問答について、『田中・前掲書』の意訳ものを次に掲げておきたい。
※『俳諧問答』所収「俳諧自賛之論」
芭蕉 君が俳諧を好きになったのは、俳諧を詠んでいると心が静かになり山林にこもるようになる、それが楽しいからではないか。
許六 その通りです。
芭蕉 私もその通りだ。だが其角の好みは違う。彼の俳諧は伊達(だて)風流であって、作為の働きが面白いというので俳諧が好きなのだ。そもそも俳諧が好きな理由が異なるから、君と其角の俳諧が異なるのだ。
許六 先生と其角の俳諧も異なりますが、一体、先生は其角に何を教え、其角は先生から何を学んだのでしょうか。
芭蕉 私の俳風は閑寂を好んで細い。其角の俳風は伊達を好んで細い。この「細い」(感性の細やかさ)というところが私の流儀で、これが私と其角の俳風の一致するところだ。
さて、掲出の許六の句、「人先に医師の袷や衣更」は、『芭蕉の門人』(堀切実著)によると、次のとおりの背景がある。
※翌(元禄)六年三月末、許六亭を訪れた芭蕉は、明日はちょうど四月一日の衣更えの日に当たるので、衣更えの句を詠んでみるように勧めた。許六は緊張して、三、四句を吟じてみたが、容易に師の意に叶わない。しかし、芭蕉の「仕損ずまいという気持ばかりでは、到底よい句は生まれるものではない。゛名人はあやふき所に遊ぶ ゛ものだ」という教えに、大いに悟るところがあって、直ちに、
人先(ひとさき)に医師の袷や衣更え
と吟じ、師(芭蕉)の称賛を受けたのであった。衣更えの日、世間の人より一足先に、いちはやく綿入れを捨て袷を身に着けて、軽やかな足取りで歩いてゆく医者の姿が、軽妙にとらえられた句であった。
これが、この許六の句の背景なのである。この芭蕉の称賛を受けた句を、其角は、「誹番匠」よろしく、「法躰も島の下着や衣更」と換骨奪胎をするのである。「医師」より「法躰」(俗体に対して、仏門に入り剃髪・染衣した姿。僧体)の方が面白い。さらに、「袷」よりも「島の下着」(この「島」は、例えば、英一蝶が流刑された八丈島などが連想されて、しかも、その「下着」となると、実にドラマチックですらある)の方が数倍面白い。其角の判詞に、「法躰と医師とのはれか(が)ましさは一色なれと(ど)も興ことにかはりあるゆへわさ(ざ)と一列にたてたり」と、「許六さん、どうせするなら、もっと大げさに」というところであろう。そもそも、許六は、その号の「許六」(きょりく)のとおり、六芸(りくげい)に秀でた風雅の現役の武士である。その六芸は、武門三代を誇る表芸の「鑓(やり)・剣・馬」の三術の他に裏芸の「書・画・俳」で、特に、「画」は、芭蕉をして「画はとつて予が師とし、風雅(俳諧)は教へて予が弟子となす」(「許六離別の詞」)と、芭蕉の師ともいうべき、その「画俳一致」の高い境地を、芭蕉は劇賞しているのである(堀切・前掲書)。「画」に秀でいるということは、「構成」に秀でているということで、その「構成」ということは、俳諧では、「取合わせ」ということで、許六は、ことのほか、この「取合わせ」を重視し、その「取合わせ」においては一家言持っている俳人であった。ここのところを、『堀切・前掲書』では、「取合わせはいわば一種の創造的モンタージュであり、そこには当然、作者の主体的な統一作用としての『とりはやし(結合)」が要求されるのである。一句は『金(こがね)を打延べたる』ごとき一まとまりの姿を得ることにもなる。『取合わせ』という方法自体は、茶道の道具の取合わせなど、さまざまなジャンルで使われるものだが、許六はこれを蕉風発句における句の案じ方――その発想法として定着させようとしたのであった」と記述している。更に続けて、「去来などはこれを、絵画の素養のある許六だけに説いたもので、芭蕉の門人の個性に応じた対機説法なのであり、句の案じ方としては一面的な教えに過ぎないとしているが、必ずしも的を得た反論になっていない。近代の大須賀乙字の『二句一章』の論や山口誓子のモンタージュ論なども、この骨法の流れを汲むものであろう。最近では、ドイツのボードマースホーフの『一対の極』の論など、国際的な俳句論にも、『取合わせ』の説が適用されているのである」と続けている。そして、問題はここからなのである。掲出の、其角と許六との二句を比較して、許六の「医師・袷・衣更」の「取合わせ」と、其角の「法躰・島の下着・衣更」との「取合わせ」とにおいて、格段に、其角の「取合わせ」の方が、秀逸であるという思いがするのである。と同時に、この二句を並列して鑑賞していくと、許六は「理論の人」であり、其角は「実作の人」という思いを深くするのである。すなわち、「誹番匠」(言葉の大工)という観点からは、業俳(プロ)の其角、遊俳(アマ)の許六との差は歴然としているという思いを深くするのである。
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