https://ameblo.jp/shiro0823/entry-12901265132.html 【仏像を訪ねて(一)【7】天狗考 ②建長寺半僧坊(神奈川県鎌倉市)No.3】より
半僧坊は建長寺の方丈裏に造られた優美な庭園の奥山に位置しています。
パンフレットを見る限りかなりの距離と階段があり、どうやら半僧坊は建長寺境内でありながらハイキングコースのルート上にあるようです。
半僧坊にはトイレが無いとの看板を見てお借りすると、確かに周囲にはハイカーらしき服装の人々が下山して休憩しているところでした。
還暦を過ぎて、山岳寺院の奥の院は敢えて避けて来た私と美月です。
しかしここは鎌倉・・せいぜい源実朝が公暁に襲われた鶴岡八幡宮の石段程度と安易に決めつけて山道を登り始めました。
まだ美月は牛頭天王キャップ(東博「京都・南山城の仏像」展で購入)をかぶってご機嫌の様子ですが、実はこれから重大な事態に陥ることをまだ知りません。
まず山道を登ると虫塚が現れます。
解剖学者で虫収集家でもある養老孟司先生の発案で、建築家の隈研吾氏が設計された虫供養のモニュメントです。
私も美月も養老先生の本やYouTube動画が大好きで虫塚の存在は知っていましたが、まさか建長寺にあるとは知らず吃驚してしまいました。
さすが鎌倉・・不可思議な人脈層が厚いことを実感しました。
ハアハア息切れしながら急なつづら折りの階段を登ると、山の斜面に幟旗と天狗達が見えて来ました。間違いなく鎌倉に大天狗と烏天狗の巣窟はありました。
しかしこれだけの天狗を目の当たりにしても、私は「どうして鎌倉に?」という疑問がどうしても頭から離れません。
千葉県の飯縄寺などは他所からの勧請であろうと考えやすいのですが、由緒ある仏都の鎌倉で「深山⇒修験道⇒天狗」という図式が成り立たないのはどうしても納得出来ません。
つまり禅宗が最も栄えた鎌倉の大本山建長寺で、何故天狗が祀られることになったのかがわからないのです。
しかも頂いた護符を見ると、半僧坊という人物は確かに鼻高ではあるものの、天狗と断定するには微妙なキャラクターだったのです。
https://ameblo.jp/shiro0823/entry-12901813727.html 【仏像を訪ねて(一)【7】天狗考 ②建長寺半僧坊(神奈川県鎌倉市)No.4】より
天狗には烏天狗と大天狗(鼻高天狗)の二類型があると書きました。
(大雄山最乗寺 上:烏天狗 下:大天狗)
ところがこの建長寺の半僧坊は、確かに鼻だけは大きいものの、人間と大天狗の中間に位置するような姿形をしています。
もう一度大天狗の画像を見て頂くと、天狗の羽団扇と修験道で使われる頭襟(ときん)が象徴的ですが、半僧坊という人物は着用していません。
ここで出てくるのが「天狗=猿田彦命(さるたひこのみこと)混同説」です。
猿田彦命は、天孫降臨の際に天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内する国津神として『日本書紀』に登場します。
(ウィキペディア:「サルタヒコ」より)
(猿田彦神社 東京都世田谷区阿佐谷南)
現代でも我々世代が猿田彦命を身近に感じるのは、手塚治虫の『火の鳥』に登場するキャラクターである猿田彦にあるかと思っています。
これらを見せられると、猿田彦命が天狗の特徴を一部備えており、混同してしまうのも無理からぬことかもしれません。
私が知る実例を挙げると鎌倉の「面掛け行列」があります。
一つは北鎌倉駅前に鎮座する臨済宗大本山円覚寺で、60年に一度開催される『洪鐘(おおがね)祭』を2023年にYouTube生配信で観ました。
この祭で練り歩く「面掛け行列」の先頭が猿田彦命であり、天狗の面を被って『日本書紀』に倣って道案内をする役割なのです。
また鎌倉長谷に鎮座する私が大好きな御霊神社では、鎌倉権五郎景政の命日に有名な「面掛け行列」が行われます。
この時に先頭を歩くのがやはり天狗の面をつけた猿田彦命なのです。
そもそも「面掛け行列」は、源頼朝が非人の娘を身籠らせた詫びに、非人達がお面で顔を隠して年に一度の無礼講を許したことから始まります。
このように鎌倉における天狗は、修験道から繋がる大天狗や烏天狗ではなく、むしろ神道の旧習に倣った猿田彦をイメージした天狗が混同しているのかもしれません。
よって半僧坊を表す図像が猿田彦命に似ていても、天狗として受け入れることに違和感はなかったものと思われます。
では次に猿田彦型天狗である建長寺半僧坊の由来を考えていきましょう。
https://note.com/koji1788/n/ne6857f5ff064 【伝説を訪ねる鎌倉散歩 Vol.02 -建長寺とカラス天狗伝説-】より
鎌倉市議会議員高橋浩司と巡る、ちょっぴりマニアックな鎌倉散歩。
前回は建長寺に残る「けんちん汁伝説」「龍神伝説」をお伝えしながら境内をご案内しました。
今回は方丈(本堂)からさらに奥に進み、江戸時代に日本沿岸の航海路を開拓した河村瑞賢さんの墳墓、建長寺奥院のミステリーエリア、半僧坊へとお連れいたします。
建長寺と河村瑞賢
半僧坊へ向かう道の途中に河村瑞賢墳墓の入口はあります。
△ 河村瑞賢墳墓入口
瑞賢さんは、三重県の出身で立身出世を志して江戸に出ます。しかし上手くいかずに挫折して帰郷しようと歩いている途中、お盆の送り火を焚いた後の茄子と胡瓜が川を流れて来たのをみつけます。それを拾って漬物にしたら大当たり。以来事業が軌道に乗り財を成したといわれています。
江戸の大火事の際には東北へ飛び、山林を買い付けて木を伐り簡易ダムを作ったそうです。春に雪解け水がそこに溜まり、切り倒した材木が浮いているのを確認して一気に堰を切って麓の川まで材木を流しました。川下に流れ着いた木材でいかだを組み江戸まで運んで大儲けをしたそうです。
そうした知恵が幕府に認められ、幕府の命で銅山の開発や東回り航路、西回り航路の航海路を策定し、流通の分野や測量技術、治水などに大きく貢献しました。
日本土木学会が選ぶ「日本の土木技術者200人」にも選ばれています。
晩年は、建長寺の会計責任者をしながら境内に居を構え、自宅の井戸水で茶の湯を楽しみ余生を送ったそうです。瑞賢が愛用していた茶釜は、後に赤穂義士が吉良邸に討ち入りするときに、現在鎌倉に家元邸がある茶人山田宗徧がお茶を点てるのに使ったと伝えられています。
河村瑞賢墳墓入口の道標を左に入るとかなり急な階段があり、最初の20段は緩やかですが途中からとても急になります。手すりにつかまりながら登って20段くらいで一度休憩、意を決っして残りの20段。
墓前に着くころには「はーはー」肩で息をする状態になります。
△ 河村瑞賢墳墓へと続く階段
墓所全体はとても広く200坪位。ここに家を建てて住んでいました。入口左奥にある井戸で水を汲み、茶道を嗜んでいたそうです(現在使用できるかは不明)。
△ 河村瑞賢が実際に使っていた井戸
手前に建っているのが瑞賢の息子通賢の墳墓で、奥にあるのが瑞賢の墳墓です。昭和9年に瑞賢さんの偉業を顕彰するため組織された「河村瑞賢墳墓保存會」によって建立され、当時1万円以上の寄付が集まったそうです。現在の貨幣価値で5千万円くらいとなります。
以来毎年、祥月命日の6月16日には建長寺の僧侶の方々により「瑞賢忌」として墓前法要が行われています。
昭和9年以降、長年墓前周辺の整備は行われていませんでしたが、日本土木学会「日本の土木技術者200人」の選考に合わせて、改めて「河村瑞賢墳墓平成保存会」を組織し、国土交通省の基金を活用して再整備を行いました。その時、私も事務局長としてかかわらせて頂きました。
△ 息子通賢の墳墓(右手前)、瑞賢の墳墓(左奥)
△ 河村瑞賢の墳墓前にて
息も整いましたので、最終目的地の「半僧坊」に向かって参りましょう。
墓前から山岳コースで「半僧坊」まで登っていけます。しかし、今回は階段を降りて正面から行きたいと思います。
階段を降りて左に向かって歩いていくと大きな達磨大師の座像が登場します。達磨大師は、お釈迦さまの10大弟子の一人で迦葉の流れをくみ、お釈迦さまから数えて28代目とされています。
その達磨大師から数えて11代目が臨済で臨済宗の宗祖となります。ここ建長寺は全国15カ寺ある臨済宗本山の1つでもあります。
△ 達磨大師座像
達磨大師を過ぎると急に空気が変わります。ふと見ると参道の横にカエルが…なんで?(笑)
△ 伝説のカエル?
そして前をみると、なぜかお寺なのに鳥居が現れます。
△ 半僧坊へと続く参道の鳥居
いよいよ、カラス天狗が待つミステリーエリアに潜入です。
鳥居を2つくぐると、またしても階段…この階段が、なんと253段。地獄の強行軍です。
△ 半僧坊入口
息も絶え絶えに170段程登るのに何度休憩したことか…
ふと、見上げると沢山のカラス天狗が天に向かって念力を飛ばしながら迎えてくれます。
△ カラス天狗が立ち並ぶ参道
△ カラス天狗像
ここまで来れば頂上までは、あと一息。といってもまだ83段もあります…21段上ると急な階段と緩やかな階段の選択チャンス!
緩やかな階段は女坂。女坂は緩やかですが遠回りなので、正面からずばっと行きます。
階段を登り切ると「半僧坊」本殿。
△ 半僧坊本殿
本堂にお参りして、振り返ると鎌倉の街や海が一望できます。素晴らしい景色です。西の方には富士山も。
△ 「半僧坊」登頂の様子
さて、どうしてこの山の上にカラス天狗像が一杯建っているのでしょうか?「半僧坊」という変わった名前はどこからきたのでしょうか?
最後に「カラス天狗伝説」をお伝えいたします。
話しは遠く現イスラエル、ユダヤの失われた10支族の物語に遡ります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の元といわれるアブラハムは、子宝に恵まれなかったのですが放牧中に神様から子孫繁栄の約束をされます。
それでもなかなか子どもができずに100才近くとなってしまったため、夫婦で相談して奥さん(サラ)以外の女性に子どもを産んでもらうことにしました。
その女性ハガルとの間に生まれた子ども、イシュマエルがイスラムの民となり繁栄することとなります。
その後奇跡的に90才を過ぎたサラとの間にも子どもを授かります。奥さんの産んだ子どもはユダヤの民となり今日の繁栄に繋がっているといわれています。
奥さんのサラが産んだ子供はイサクと名づけられます。時は経ち、イサクの子どもヤコブは13人の子どもを授かります。ヤコブは、国を治める程の勢力を持ち自分の子ども達に領土を分けて統治させます。
子どものうち1人が作ったグループはラビ族と呼ばれ全ての部族の神事を取り仕切りました。そして、他の12人はそれぞれの国を治めていました。
ところがある日、南と北に分かれ戦争となります。南は2人の子どもの連合軍。北は10人の子どもの連合軍です。
結果負けたのは北の連合軍。
負けた10人の子ども達の国に住んでいた国民はすべて土地を追いやられました。その時国を追われた人たちが世界中に散って行ったという話が「ユダヤの失われた10支族」というの伝説です。
実は世界中に散って行った部族の一部が日本に渡来したといわれています。聖徳太子の側近であった秦河勝、雅楽の東儀家や羽田家なども末裔だとか。しかし、顔かたちや背格好の違うユダヤの民が日本に渡来し、どうやって身を隠しながら生活していたのでしょうか。
その昔、山菜採りに行った村人が鼻の高い大男に遭遇し、あれは高下駄を履いたカラス天狗様に違いないという噂になり、村人は山に近づかないようになったそうです。それが「カラス天狗伝説」の始まりです。
その伝説を裏付ける足跡は日本全国にあります。そしてここ建長寺にもひっそりと残っていたのです。信じるか、信じ無いかは、あなた次第。
それでは伝説を訪ねる鎌倉散歩 (建長寺編)は、ここまで。ご紹介した数々の伝説を想像しながら訪ねてみてください。
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