https://mitsuo040459.blog.fc2.com/blog-entry-3467.html 【雲巌寺(妙心寺派)で能の舞い】より
雲巌寺(妙心寺派)で能の舞い 開山から700年以上の名刹で繰り広げられる能の夕べ
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『能と楽の夕べ』のご案内!
10月12日の予定が、台風19号の直撃を受けて延期となって居りました。この度、演者のスケジュールの調整が整い開催の運びとなりました。先日にも、お知らせいたしましたが、明日の開催と言うことで改めてご案内をさせて頂きます。
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日 時 12月14日 13時~18時(予定)まで
場 所 雲巌寺境内(方丈内)
観覧無料ですが、個人のビデオ撮影及び画像の撮影は御遠慮願います
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プログラム(予定)
【1】 お囃子演奏(須賀川地区花車保存会)
【2】 吹奏楽部演奏(栃木県立那須拓陽高等学校)
【3】 歴史噺『水戸黄門漫遊記』講談師・・・神田真紅
【4】 来賓挨拶・文化庁文化戦略管 参事官 ・ 根来 恭子 様
【5】 トークショー ・ 島 均三 栃木方言作家 大田原ふるさと大使
【6】 尺八・琵琶による演奏(尺八 石田 雄士・琵琶 石田 さえ)
【7】 お囃子演奏(須賀川小学校児童)
【8】 市長挨拶 ・ 大田原市長 ・ 津久井 富雄 様
【9】 火入れ式 ・ かがり火点火
【10】 能奉行 ・ 雲巌寺 原宗明 老大師
【11】 能 『車僧』より ・ 能楽師 ・ 新江 和人
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能の物語
牛もつながぬ車を法力によって自在に乗りこなす「車僧」禅僧。ある冬の日、禅僧が車に乗って嵯峨野の景色を眺めていると、山伏姿の男が禅問答を挑んできた。
禅僧の慢心につけ込み、魔道へ誘惑しようと企む男。しかし禅僧は舌鋒鮮やかに受け流し、動じる気配を見せない。その姿に、男は自分こそ大天狗の太郎坊だと正体を明かし、棲処の愛宕山へと飛び去ってゆくのだった。
愛宕山に到った禅僧の前に、真の姿を現した太郎坊は禅僧に法力比べを挑むが、禅僧は法力を自在に操り、車のまま天空を飛びまわって太郎坊を翻弄する。
太郎坊も嵯峨野の山河を翔りめぐって対抗するが、ついには観念し、禅僧のもとから退散してゆくのだった。
https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht023710 【(二) 黒羽における『おくのほそ道』はじめに】より
524 ~ 525
松尾芭蕉は門人河合曽良を伴って、元禄二年(一六八九)三月二十七日(陽暦五月十六日)江戸を立った。時に芭蕉四十六歳。東北・北陸の各地をめぐり歩き、八月下旬に大垣に辿り着いた。この間約五か月、道のりは約六百里(約二五〇〇粁)に近い大旅行であった。この旅行の紀行が『おくのほそ道』で、元禄七年に完成し世に出された。(門人素龍が清書した)
『おくのほそ道』は、芭蕉の紀行として量的にも最大であり、質的にも紀行の総決算的な意義を有するものであるといわれている。
貞享(じょうきょう)元年(一六八四)の秋八月に、江戸を立って『野ざらし紀行』の旅に出て、貞享四年八月には『鹿島紀行』の旅、続いて同年十月に『笈の小文(おひのこぶみ)』の旅に出た。また翌年八月は『更科紀行(さらしなきこう)』の旅、元禄二年には『おくのほそ道』の大旅行というように、元禄七年(一六九四)大阪の旅路で没するまでの晩年の約十年間は、芭蕉は旅に過ごすことが多かった。このようにしばしばあえて険難な旅に出たその動機や、旅に託する願いを、『おくのほそ道』の冒頭に次のように述べている。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。」
このように「漂泊の思ひ」が、芭蕉を旅に駆り立てたのであるが、その漂泊の中に身を置くことが、風雅の道に生きようとする悲願でもあったわけである。
https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht023720 【一 那須野路へ】より
525 ~ 526
広漠たる那須野を、東西南北縦横に走る那須野路は、歴史の道・伝説の道・文学の道であり、自然の道である。
古代、官道であった東山道は、下野の東部東野の地を経て遠くみちのくに通じ、中央の文物を那須野に齎(もた)らした。往時の賑わいはこの那須野路の中に、「関街道」あるいは「秀衡街道」の名を今に残している。
歴史にその名を留めている武将たちも、かつてはここを通過し、また乱世に覇を争ってつわものどもが駆けめぐり、それらの夢の跡がこの道にはある。そうして沿道に住む民衆の口から口へと、人の世の哀歓を綴り、素朴な祈りや驚きをこめた、数々の口碑・伝説が伝えられている。さらに多くの文人・墨客も那須野路に足を踏み入れ、その美しく豊かな山河をうたいあげ、情濃やかな人の心を作品に托した。そしてこの地に生を享(う)けた人びとにもまた、それらに劣らぬ文化の営みもあったのである。まさに那須野路は歴史の道、伝説の道であり、文学の道、自然の道なのである。元禄の俳人松尾芭蕉もまた、この那須野路を辿った文人の一人であった。
那須の黒ばねと云所に知人(しるひと)あれば、是(これ)より野越(のごえ)にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥かに一村を見かけて行(ゆく)に、雨降(ぶり)、日暮(くる)る。農夫の家に一夜をかりて、明(あく)れば又野中(のなか)を行く。そこに、野飼(のがひ)の馬あり。草刈(くさかる)おのこになげきよれば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情しらぬには非ず。「いかがすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐ/\敷(しき)旅人の道ふみたがえん、あやしう侍(はべ)れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名をかさねと云(いふ)。聞(きき)なれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
頓(やが)て人里に至れば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(むすびつけ)て、馬を返しぬ。
〔句の意味〕小娘の名を聞けば、鄙(ひな)には珍しい優美な「かさね」だという。子どもはよく撫子にたとえられるが、撫子とすれば、花びらの重なった八重撫子の名であろう。
芭蕉はこの「かさね」という名が、よほど気にいっていたとみえ、『新編ミの虫』所収の真蹟懐紙には次のように述べてある。
みちのく行脚(あんぎや)の時、いづれの里にかあらむ、小娘の六ツばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、得もいはずをかしかりけるを、「名をばいかにいふ」と問へば、「かさね」と答ふ。いと興ある名なり。都の方にては稀にも聞き侍(はべ)らざりしに、いかに伝へて、何を重ねといふやあらん。「我、子あらばがこの名を得させん」と、道づれなる人にたはぶれ侍りしを思ひいでゝ、此たび思はざるえんにひかれて名付(なづけ)親となり、
賀(かさね)レ重(をがす)いく春をかさね/゛\の花ごろも しわよるまでの老もみるべく
はせを
「かさねとは」の句は、実は曽良の句ではなく、芭蕉が作って曽良の句のようにして、『おくのほそ道』に載せたのだろうという学者が多い。曽良にはこのような深い句境には到り得まいという人もいる。「那須の黒羽といふ所に知人(しるひと)あれば」、の「知人」とは、黒羽城廓内に住む浄法寺図書高勝(桃雪)と、その実弟で余瀬におる岡忠治豊明(鹿子畑姓、翠桃)の二名のことであるが、二名については後に詳しく記す。
https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht023730 【二 黒羽逗留】より
526 ~ 532
元禄二年(一六八九)四月三日(陽暦五月二十一日)、芭蕉と曽良は黒羽の地に足を踏み入れた。それから四月十六日余瀬を立つまでの、十三泊十四日間という滞在は、『奥の細道』の旅路に於て最も長期間のものであった。
この間に於ての芭蕉の足跡を探ってみることにする。
黒羽(くろばね)の館代浄坊寺(くわんだいじようぼうじ)何がしの方(なにがしのかた)に音信(おとづ)る。思ひかけぬあるじの悦(よろこ)び、日夜語(にちやかたり)つゞけて、其弟桃翠(たうすゐ)など云(いふ)が、朝夕勤(あさゆうつとめ)とぶらひ、自(みづから)の家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるまゝに、日(ひ)とひ郊外(かうぐわい)に逍遥(せうえう)して、犬追物(いぬおふもの)の跡(あと)を一見(いつけん)し、那須の篠原(なすのしのはら)をわけて、玉藻(たまも)の前(まへ)の古墳(こふん)をとふ。それより八幡宮(はちまんぐう)に詣(まうづ)。与市(よいち)、扇(あふぎ)の的(まと)を射(い)し時(とき)、別(べつ)しては我国氏神正八まん(わがくにのうじがみしやうはちまん)とちかひしも、此神社(このじんじや)にて侍(はんべる)と聞(きけ)ば、感応殊(かんおうことに)しきりに覚(おぼ)えらる。暮(くる)れば桃翠宅(とうすゐたく)に帰(かへ)る。
夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝(をが)む首途哉(かどでかな)
〔句の意味〕はるかにみちのくに連なる夏山を望み見て、あの役の行者の健脚にあやかって、平安な旅を続けたいものだと願いながら、いま奥羽地方への門出に際して、お堂に安置されているその高足駄を拝むことであるよ。
曽良随行日記
一 同三日 快晴。辰(たつ)上尅(こく)玉入(玉生)ヲ立。
鷹内(たかうち)ヘ二リ八丁。鷹内ゟヤイタ(矢板)ヘ壱リ(里)ニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ大田原ヘ二リ八丁。大田原ヨリ黒羽ヘ三リト云モ(いえども)二リ余也。翠桃宅(すゐたうたく)、ヨゼ(余瀬)ト云所也(いふところなり)トテ、弐十丁程アトヘモドル也。
一 四日 浄法寺図書(づしよ)ヘ被招(まねかる)。
一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉(よし)。
一 六日ヨリ九日迄(まで)、雨不止(やまず)。九日、光明寺ヘ被招(まねかる)。昼ヨリ夜五ツ過迄(すぎまで)ニシテ帰ル。
一 十日 雨止(やむ)。日久(ひさしく)シテ照(てる)。
一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。
一 十二日 雨止(やむ)。図書被見(みまはれ)廻、篠被誘引(しのはらにいういんせらる)。
一 十三日 天気吉。津久井氏被見(みまはれ)廻テ八幡ヘ参詣被誘引(さんけいにいういんせらる)。
一 十四日 雨降リ、図書被見廻(みまはるること)終日。重之内持参。
一 十五日 雨止。昼過翁と鹿助右同道にて図書ヘ被参(まゐらる)。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参。
一 十六日 天気能。○翁館ヨリ余瀬へ被立越(たちこさる)。則(すなはち)同ち道ニテ余瀬ヲ立、及昼(ひるにおよび)図書弾蔵ゟ(より)馬人ニテ被送(おくらる)ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間二里半余。高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞ル。此間弐里余壱里半余。宿角左衛門、図書ゟ(より)状被添(じやうそへらる)。
『おくのほそ道』は、芭蕉の文学精神に基くすぐれた俳諧の紀行文であり、『随行日記』は、事実を忠実に書留めた曽良の旅日記である。いま両書を考え合せながら、黒羽に於ける芭蕉の姿を見ていこう。
両書を比較してまず気が付くことは、日程や場所の記述にかなりの食い違いがあるということである。例えば、『日記』では四月三日、黒羽に着いた初日に翠桃宅を訪れて泊っている。浄法寺図書の家に招かれたのは翌日であった。そうして五日に雲岩(巌)寺見物。『ほそ道』では最初に浄法寺家を訪れ、後日に桃翠が芭蕉に会ったことになっており、雲岩(巌)寺見物は最後に記されている。特に重大なことは、『日記』では翠桃と書き、『ほそ道』では逆に桃翠と記している。研究家の多くは、桃翠は誤りであって翠桃が正しいとしている。しかし蕉門の俳人たちの号は、すべて「桃」が上になっているし(桃雪、桃里、桃隣等)、また余瀬愛宕神社に奉納された棟札(貞享四年三月十六日)には、浄法寺桃雪 鹿子畑桃翠 蓮実桃里 津久江翅輪 森田二寸と明記されてあったから、『ほそ道』の桃翠は単なる誤記ではあるまいとする学者(金子義夫『奥の細道の研究』)もおるのである。
十三泊十四日間の黒羽滞在は、『日記』によれば鹿子畑宅に五泊(三・十一・十二・十三・十四)で、浄法邸には八泊(四・五・六・七・八・九・十・十五)であって、十六日朝、浄法寺家を出て余瀬の鹿子畑宅に戻り、昼にここから高久に向かって出発したのであった。『ほそ道』には郊外の名所見物は一日で廻ったように書いてあるが、『日記』では二日に分けて見て廻っている。
こうした点については、井本農一編の『鑑賞日本古典文学芭蕉』に次のように述べてある。
「この点は、『奥の細道』が単なる紀行文でなく、俳諧の紀行文であることを考えれば当然のことであるが、ここでも《夏山に》の句と《木啄も》の句によって文章は二つに分かれている。前段は《夏山に》の句をしめくくりとし、後段は《木啄も》の句をしめくくりとする。この二つの句をしめくくりとして出すために、黒羽関係を前段にまとめて書き、雲巌寺関係を後段にまとめて書く必要が生じ、事実の時間的順序をその必要から崩している。黒羽に着いて間もなく出かけた雲巌寺行を、いちばん最後に持ってくるようになった理由の大半はそこにあろう」
また、尾形仂の『新訂おくのほそ道』には、
「この半月近い滞在記事の整理ぶりは、まことにあざやかで、四日の雲巌寺訪問の一条を、翠桃兄弟を中心とする記事から切り離すとともに、犬追物の跡・玉藻の前の古墳などを巡覧した十二日の篠原逍遥と、十三日の金丸八幡参拝とを、一日の記事にまとめあげ、九日の光明寺参詣をその後へ回してある。桃雪・翠桃かたの往返は、その前にまとめて提出しているが、主語が次々と転換するテンポの早い叙述が、交歓のよろこびを伝えて効果的だ。光明寺参詣を最後に回したのは、《夏山に》の句を配する関係からで、ここを陸奥への第二の出発点として、旅に勇む芭蕉の心おどりが、軽快に響いてくる」と記してある。
『ほそ道』と『日記』との食い違いについては、右の二名の研究家の説明によって理解を得ることができよう。
さて、十三泊十四日間という、黒羽の地に於ての長逗留はなぜであろうか。(尾花沢十日間、金沢九日間、山中八日間)
その理由として『奥の細道の研究』(金子義夫著)では、次の四つの条件を挙げている。
一、人間関係・二、地理的条件・三、歴史的条件(伝説を含む)・四、気象的条件
一の人間関係とは、芭蕉と浄法寺図書・鹿子畑翠桃兄弟との師弟関係をいっている。このことについては後に詳述するが、二人の兄弟が師匠を真心をもって、厚くもてなしたので、芭蕉も快くそれを受け、つい日一日と逗留が延びたのかも知れない。二の地理的条件は、黒羽は関東平野の北端にあり、那須の山脈を越えればそこは奥羽である。従って黒羽は江戸の文化圏に含まれていて、芭蕉にとっては、本格的なみちのくの旅ではない。此処までは、いわば長途の旅への足ならしであり、心の準備の期間であったろうと思われる。だとすれば、地理的条件というよりはむしろ、心理的条件(文学精神あるいは俳諧の心)というべきであろう。このことに関して『おくのほそ道注解』(尾形仂著)では、「……いわば武蔵野の延長としてのこれまでの旅を清算し、夏山のすぐあなたに控えた白河の関の俤を心の中でまさぐりながら、いよいよ本格的な陸奥の旅路へかかる前の気息を養う上で、かなり充足した心楽しい日々でもあったようだ」と述べている。三の歴史的条件としては、黒羽は中世においては那須氏の、近世においては大関氏の領地であって、興味をそそる歴史的事象の数々があることや、雲巌寺をはじめとする寺院・神社や名所旧跡、そうしてそこにまつわる伝説などが、いたく芭蕉の心をひいたことは、『ほそ道』の本文にうかがわれる。四の気象的条件、黒羽滞在中、降雨の日が多く、出発の足をはばんだことも事実ではあろう。『随行日記』を見ると、雨の日は六日(六、七、八、九、十一、十四日)あった。十四日間にその半数近い六日間の雨では、出発の時期を失ったのかも知れない。右のような諸条件がからみ合っての長逗留となったのだろうが、心理的条件をその中核とみたいのである。芭蕉は旅立に当って、
行(ゆく)春や鳥啼魚(なきうを)の目は泪(なみだ)
とよんでいる。その時の離別の泪は長く尾を引いていた。長途の旅路には、そうした惜別の感傷にいつまでも浸ってはおられない。早くこれを清算しなければならなかった。芭蕉はその機会を、黒羽滞在中に掴むことができたとみていい。言い換えれば、清算を求めての黒羽滞在、そうしてその間に於ける旅への心の準備。芭蕉にはそれが欲しかった。
夏山に足駄を拝む首途哉
この句を読むと、芭蕉の心の中に本格的な旅の決意が、ようやく出来上がったという感じがする。芭蕉の心的過程を辿ってみると、最初に「漂泊の思ひやまず」と旅への憧憬が打ち出されていて、次に「行春や」の句に惜別の情、そうして黒羽に到って「首途哉」の決意となった。憧憬→惜別→決意という心の流れの中に、黒羽滞在の芭蕉の姿を見ていきたい。
「黒羽の館代」
領主の代りに館を守る人、すなわち黒羽藩高一万八千石の城代家老である。家老職については『創乗可継』(藩主大関増業編)には次のように記してある。
「家老職は家の重職にて、一邑の万端の政事の懸(かか)る所なり。君よりも専に信じて使うべきは此の職なり。家老をば主君我が一身と同じく心得て、親み厚く致し、軽々しく使うべからざるなり、家老へ対面の砌は何時も袴にて逢い申さるべきなり。家老の方よりも其の心得を以て伺うべきなり。殊により夜中などは、袴なくとも一通り右の段、家老へ側(そば)の者を以て断(ことわ)り置き逢わるべし。最も家老は諸士の司(つかさ)たる故三四人に限るべし」
「浄坊寺何がし」
『ほそ道』には浄坊寺とあるが、浄法寺が正しい。浄法寺図書高勝である。俳号を桃雪・秋鴉と称し、父鹿子畑左内高明、弟鹿子畑豊明(翠桃)と共に芭蕉門下の俳人でもあった。このことに就いては、後に詳しく述べよう。
藩主大関氏と浄法寺氏及び鹿子畑氏の関係をみていこう。『黒羽藩諸臣系略』(益子四郎左衛門紀方撰、文化十四年)によれば、浄法寺、藤原姓、那須之支族 浄法寺右近大夫資次末葉
浄法寺大膳大夫資元 累世那須郡浄法寺邑に住し、其の近郷数村を領す。妻は岡本大隅守が娘なり とあり、那須氏より出たが始祖右近大夫資次については明かでない。後代に越前守茂直があり、彼は大関高増(安碩)の庶長子であったので、大関氏から出て浄法寺氏を嗣いだ。更に後世大関政増の娘菊は浄法寺茂明に嫁し、土佐守高増の娘長は高勝の義父高政に嫁している。このように大関氏と浄法寺氏とは深い血縁関係にあったのである。
次に浄法寺氏と鹿子畑氏との関係について述べよう。『諸臣系略』には、
鹿子畑、丹治姓
鹿子畑能登某、其先詳ならず、母は久遠大君〈余瀬白旗城主大関増次の御姉と言ひ伝ふるなり。能登妹あり、大田原備前守普山永存入道の室となる。弘境大君(大関高増)及び大田原綱清、福原資孝等の母堂也。之に依て、大君(高増)大田原より丹家(大関氏)を継がせらるゝ時、附き随ひ奉り、輔佐し奉る。
と記してある。丹治姓であるから、大田原氏と同族であろう。喜連川町大字鹿子畑に館を構えて住み、土地の名をもって鹿子畑を称した。大田原備前守資清の長子高増が大関氏(時に十五歳)を継ぐに及び、鹿子畑能登は高増の傳(ふ)となって、白旗城下の余瀬に館を構えて住んだ(現にその館址を土手の内と称し、水田となっている)その後裔が鹿子畑豊明である。館址の裏手の北側に同家の墓地があり、豊明の墓碑がある。鹿子畑氏は後に住居を黒羽町大字堀之内に移した。
系図に見るとおり、浄法寺氏と鹿子畑氏の関係は深い。まず鹿子畑左内高明について記そう。
『芭蕉翁と黒羽』(蓮実長記す)によれば、従来黒羽藩では、重臣の俸禄を土地を以て給与していた。これを地方(ぢかた)という。寛文二年(一六六二)に鹿子畑左内高明(この時三十五歳で家老職に在った)はこれを改め、藩の倉庫に納入の米、すなわち蔵米給与として、藩収入の加増策を藩主に建言した。ところがこれは重臣たちの減俸となるのであるから、堅く結束して反対し、一騒動が持ち上がって長くもたついた。左内高明はこの紛擾を見て自ら責を引き、寛文七年に身を退いた。時に四十歳。藩主大関増栄(ますてる)は十八歳であった。高明は江戸に出て親戚(関備前守の藩主細野竜右衛門)の家に寄寓した。長男の高勝(桃雪)は七歳、次男豊明(翠桃)は六歳であった。後に高明は帰藩を許されて、延宝七年(一六七九)黒羽に戻ることができた。高明は十二年間江戸に住んだわけだが、高勝・豊明兄弟が蕉門に学んだのは、実にこの江戸生活中であった。この間に若い二人は芭蕉の俳諧を、そして江戸の文化を貪(むさぼ)るように吸収したことであろう。
赦免されて帰藩した鹿子畑左内高明は、名門である鹿子畑姓をはばかって岡姓を名乗り、余瀬に住居を構えた(第八世善太夫明喬(あきたか)のときに鹿子畑姓を許され、第十世に至って鹿子畑氏に復したといわれる)時に左内高明は五十二歳、高勝十九歳、豊明十八歳であった。やがて長男高勝が出でて、母の実家である浄法寺家(図書高政に嗣子が無いので)の家督を継いだ。その時の年令も、後に家老職に就任した年令も不明であるが、芭蕉を黒羽に迎えた元禄二年(一六八九)には、二十九歳の若き城代家老であった。時の藩主は大関増恒(ますつね)で、わずか四歳で大関家を継ぎ(父大関増茂(ますしげ)元禄元年十月二十二日没、祖父増栄(ますてる)同年十二月十三日没)江戸下谷広小路(湯島天神下)の屋敷に住んでいた。宝永二年(一七〇五)にやっと領地に就くことを許されたというから、図書高勝はその間を、城代という大役を勤めたわけである。
さて、芭蕉の来訪を受けた翠桃は前にも記したように、鹿子畑左内高明の次男で、この時は二十八歳、岡忠治(あるいは善太夫とも称し)豊明といい、高四百四十八石取りの黒羽藩士であった。父左内高明はすでに故人となり、妹は余瀬光明寺津田源光の室となっていた。『ほそ道』に「思ひかけぬあるじの悦び」とあるが、この悦んだあるじの第一番目の人は、豊明(翠桃)なのである。豊明は早速使の者を走らせて、兄高勝に知らせたことであろう。高勝もこの知らせを受けて、驚きかつ喜び、明日はぜひ我が家にと、師匠の来駕を乞うたことであった。
前にも記したように、『日記』によれば、黒羽に着いた芭蕉と曽良は、三日の夜は余瀬の翠桃宅に泊った。久しぶりでの対面、師弟の交歓さぞかしと思いやられることである。明くる四日はよいお天気であった。兄の浄法寺図書高勝の邸に招かれた。弟翠桃が道案内をした。余瀬からは約四粁の距離である。現在の地名で記すなら、そのコースは、余瀬――堂川(どうかわ)――向町(むこうまち)(下町(したまち))――六軒町(ろっけんちょう)――那珂川(なかがわ)(当時は船橋)――田町(たまち)――大宿(だいじゅく)――大雄寺前(だいおおじまえ)――浄法寺邸(黒羽町大字前田九三四番地当主浄法寺直之氏)
芭蕉が浄法寺邸に招かれた時の歓びや感激の文章は、曽良の『俳諧書留』に載せられている。
秋鴉主人の佳景に対す 山も庭にうごきいるるや夏ざしき
浄法寺図書(じやうぼうじづしよ)何がしは、那須の郡(こほり)黒羽のみたちをものし預り侍りて、其(その)私の住(すみ)ける方(かた)もつき/゛\しういやしからず。地は山の頂(いただき)にさゝへて、亭は東南のむかひて立(たて)り。奇峰乱山かたちをあらそひ、一髪寸碧絵(いつぱつのすんぺきえ)にかきたるやうになん。水の音・鳥の声・松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを尽す。造化の巧のおほひなる事、またたのしからずや。
〔句の意味〕この秋鴉亭(書院)の座敷に居て、戸を開け放って外の風景を眺めていると、折から夏のそよ風が吹き込んで来る。庭の向こうの美しい山景があだかもこの庭内に動いて来るかの感がする。という意味であろう。初夏の明るい陽光、さわやかな風、借景の緑の山が、この秋鴉亭に映発生動する相をとらえての作である。
なお『雪丸げ』には「山も庭も」とある。これだと五月のそよ風と共に、山も庭も亭内に動き入るように感じられるということになろうか。書院跡に句碑が建てられた。文字は加藤楸邨(俳人)の筆になる。これには、 山も庭もうごきいるるや夏座敷 と刻まれている。
浄法寺図書高勝の邸宅を誉(ほ)め称(たた)えた文章で、簡にして力強い表現である。亭が東南に向かって建っておるから、「山も庭に」の「山」は、崖下の松葉川を隔てた向こうの愛宕山やそれに続く山々であろう。今、書院跡の句碑の傍に立てば、杉・桧の植林された緑の山々は指呼の間に眺められる。松葉川の潺湲でなく、崖の下方から自動車の響が伝わってきた。「奇峰乱山」はオーバーな表現だろうが、この簡潔な俳文にはそれが生動しているから不思議である。
桃雪・翠桃兄弟の心からの歓待に、芭蕉はよほど嬉しかったとみえる。その心が文章に躍動している。十四日間の長逗留の一因となったであろうことも頷けるのである。
https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht023840 【3 仏頂和尚(一六四三―一七一五)】より
540 ~ 540
(一六四三―一七一五) 鹿島根本寺二十一世住職であり、また江戸深川臨川寺の開山でもある。俗姓は平山氏、また藤崎氏ともいう。別号河南・懶華。
根本寺二十世住職冷山和尚が延宝二年(一六七四)に遷化した。これを奇貨として、鹿島神宮はこれまでの寺領百石のうち、五十石を横領したのである。二十一世の住職に就いた仏頂和尚は、寺領を元に戻すべく訴訟を起こした。
貞享四年(一六八七)勝訴するまで九年を要した。和尚はこの間を殆ど江戸に在住した。はじめは浅草の海禅寺内に宿泊していたが、後に深川宿泊所を設け臨川庵と名づけた。正徳二年(一七一二)には寺として認可されている。和尚の江戸在住期間のある時期に、芭蕉は参禅したのである。和尚は勝訴の見通しがつくと、住職の地位を二十二世頑極に譲って、自分は隠居した。芭蕉は鹿島詣の折に和尚を訪ねた。『鹿島紀行』には次のように記されてある。
ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺(こんぽんじ)のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞(きき)て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるににたり。あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はる/゛\と月みにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公の歌、得よまでかへりわずらひしも、我ためにはよき何担の人ならむかし。
和尚 おり/\にかはらぬ空の月かげも ちゞのながめは雲のまに/\
月はやし梢は雨を持ながら 桃青 寺に寝てまこと顔なる月見哉 同
雨に寝て竹起かへるつきみかな ソラ 月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波
鹿島詣は貞享四年(一六八七)八月のことで、芭蕉四十四歳。曽良、宗波を伴い、鹿島神宮に詣で、参禅の師仏頂和尚を根本寺に訪ねて一泊。雨後の月見をした。その折の旅の紀行が『鹿島紀行』なのである。
芭蕉は仏頂和尚の人格に深く傾倒し、常に師と仰いで敬慕して止まなかった。その思慕の情が、鹿島詣となり、更に雲巌寺詣ともなったのである。
https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht023810 【四 雲巌寺参詣】より
538 ~ 539
当国雲岸寺(とうごくうんがんじ)のおくに仏頂和尚山居跡(ぶつちようをしやうさんきよのあと)あり。
竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)
むすぶもくやし雨なかりせば
と松の炭して、岩に書付侍(かきつけはべ)りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと、雲岩寺に杖を曳(ひけ)ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さわぎて、おぼえず、彼麓(かのふもと)に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月(うづき)の天(てん)、今猶寒し。十景尽(つく)る所、橋をわたって山門に入(いる)。
さて、かの跡はいづくのほどにやと後(うしろ)の山によぢのぼれば、石上(せきじやう)の小菴(せうあん)、岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。妙禅師(めうぜんじ)の死関(しくわん)、法雲(ほふうん)法師の石室(せきしつ)をみるがごとし。
木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立(なつこだち)
と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し。
〔句〕木啄も庵は破らず夏木立〔句の意味〕
仏頂和尚の旧庵に来てみると、鬱蒼とした夏木立に囲まれて、あたりは森閑と静まりかえっている。時には木啄の木をつつく音が聞こえてくるが、さすがに木啄もこの庵だけはつつき破らず、無事な姿をとどめ、昔をしのばせてくれることだ。
『隨行日記』には「五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉」とあり、前日余瀬の翠桃邸から黒羽前田の浄法寺邸に来て泊った。雲巌寺参詣の当日、朝のうちは曇っていたが、間もなく雲も散って快晴となったようである。前田から雲巌寺まで約十二キロ、北野上から唐松峠を越えて須佐木へ、そこを過ぎて雲岩寺集落に到る。その間殆ど山あいの曲折した道で、途中に僅かな集落のあるだけの閑散たる所だ。さいわい「人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて」と、道案内者、お供の人々大勢で賑やかにまるでハイキングか遠足のような気分であったろう。
https://www.engakuji.or.jp/blog/29298/ 【管長 那須・雲巌寺七百年大遠諱法要出向】より
<雲巌寺 山門>
今日、円覚寺派管長 横田南嶺老師は、栃木県那須にある雲巌寺で行われた開山仏国國師(高峰顕日禅師)七百年大遠諱法要に招かれ出向されました。
雲巌寺は、創建弘安6年(1283年)開基は北条時宗公、開山は仏国國師(高峰顕日禅師)です。 仏国国師は、円覚寺開山・無学祖元禅師の法を継がれた方です。
国師が入山前には、修験道の道場として高梨勝頼氏が領有していましたがこの高梨氏が国師に師事して山全体を国師に寄進して臨済宗の寺院となった歴史があり、現在では、妙心寺派の専門道場となっています。
https://www.engakuji.or.jp/about/ 【円覚寺について】より
開山
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。
無学祖元坐像
鎌倉時代・13世紀 円覚寺蔵(重要文化財)
名前の由来
円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経(えんがくきょう)」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山(ずいろくさん)(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。
無学祖元禅師の法灯は高峰顕日(こうほうけんにち)禅師、夢窓疎石(むそうそせき)禅師と受け継がれ、その法脈は室町時代に日本の禅の中心的存在となり、 五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
総門山号扁額
歴史
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。 室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師(だいゆうこくし)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。 明治時代以降、今北洪川(いまきたこうせん)老師・釈宗演(しゃくそうえん)老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。 今日の静寂な伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えており、現在もさまざまな坐禅会が行われています。
円覚寺境内図
円覚寺境内図
南北朝時代・14世紀 円覚寺蔵(重要文化財)
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