黒山梵天祭り終へてなほ 五島高資

Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事

おはようございます。『パラドックス(矛盾)』

私たちはつい、「過程が正しければ、結論も正しいはずだ」と信じ込んでしまう。

しかし、それはしばしば思い込みにすぎない。

正しい行いが、必ずしも正しい結果へ導くわけではない。

論理的に整えた道筋の先に、必ずしも正解が待っているとは限らない。

だからといって、「過程などどうでもいい」という話でもない。

過程は過程として、結果は結果として、ただそのままに見つめること。

どちらか一方に心を寄せすぎず、二つを一つに結びつけることにもこだわらず、ただ、それぞれを静かに受け取る。

当たり前のようでいて、じつはとても難しく、私たちはしばしば両者を混同してしまう。

あるいは、「世の中に絶対の“正しさ”など何ひとつない」という前提こそが、最も正しいのかもしれない。その象徴のような言葉が「急がば回れ」だ。

危うい近道よりも、確かに安全な遠回りを選ぶことで、結果として目的地へ早く辿り着くことがある……。

一見すると逆説のようで、しかし本質を突いた真理。

パラドックスとは、真理に反するように見えながら、じつは真理そのものを照らし出すものなのだ。「失敗の可能性」を数えるより、「成功の可能性」を静かに思い描くこと。

その意識こそが、人生をすこし軽くしてくれるのだろう。どうか、今日があなたにとって穏やかで、美しい一日となりますように。


Facebook加藤隆行さん投稿記事【自分が狂っていたことに気づくとマトモになる】

「なんであんなこと やっちゃったんだろう…」「なぜあんなヒドイこと 言っちゃったんだろう…」そうやって人生反省会ばかりしていませんか?

そのときだけ人格が迷子になっていたような、いま思えば完全におかしかったような、

そう。冷静になった今からしたら「狂っている」「正気じゃない」そんな行動や言動。

で、そのあとだいたいみんな“自分責め・自己否定”しますわな。「情けない…またやってしまった…」「わたしって、ほんまにダメやな」「どうしてあんなこと…」でもね。

ここで自分を責めた瞬間、また“狂気のほう”に戻るんです。

なぜかというと、責めているときって必ず「自分がおかしい」という設定のまま心の中で物語を作り始めるから。そして、自分をまた追い詰めてしまうから。

つまり、あの“狂っていた側”の視点にもう一度入り直してしまうんです。

でもさ。冷静に考えてみてくださいよ、奥さん。「あれ、おかしかったよな…」と “気づいている自分”エラくないですか?あの時の自分はおかしかった。って分かっている自分がそこにいる。この“気づいてる場所”こそが「正気」 なんです。

狂気の真ん中にいるときって、そもそも自分が「狂ってる」ことに気づけない。

台風の渦の中心みたいなもので、渦の中にいるときは全部それが“アタリマエ”に見える。

アイツが超絶ヒドイ奴に見えるのもだから相手を懲らしめてもいいと感じてしまうのも。

自分がもんのすごく劣っていて、みんなから嫌われていると感じ、だからその場から逃げ出してしまうのも。全部が全部、冷静になれば「狂ってる」でしょ(^ω^)

だから、「あれはおかしかったぞ」と振り返れてる時点で、もうすでにめちゃめちゃマトモな状態に戻ってきている証拠なんです。

ここがほんとうに大事。だからね。自分を責めるんじゃなくて、むしろ 褒めてあげてほしい。「お、ボク。 あの狂気に気づけるくらいには もう冷静に戻ってきてるやん」って。

これでいい。気づけるということは、心の中で “俯瞰する自分” が働いているということ。

正気が戻った合図なんです。だから、「なんであんなこと しちゃったんだろう」と気づいたときは、ほんとはこう言ってあげるタイミングなんです。「気づけてエラい!」

気づけたら、もう半分どころかほとんど回復してる。

むしろ、狂気を経験したことがある人の方が人の気持ちに優しくなれるし、心の景色も深くなる。ちょっとぐらい道を踏み外した日があったって、気づけるなら、それで十分。

だって、マトモな人って何度失敗しても“戻ってこれる人”のことだから(^ω^)

———

P.S.この戻って来る練習がマインドフルネス瞑想です。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000