繋がり

Facebook北條 毅さん投稿記事

自分とつながること。魂とつながること。そのつながりが強くなるほどに周囲の影響、集合意識の影響を受けなくなる。

他人からどう見られるか 他人からどう思われるか 普通はどうするべきか みんなはどうしているかㅤ自分と、魂とのつながりが希薄で 周囲の影響を受けすぎている人ほど これら他人のことや 周囲の世界のことばかりを気にするようになる。

自分とつながること。魂とつながること。その目に見えない重要なつながりが強く確かなものになるほどに他人からどう見られるか、とか普通はどうするべきか、とかㅤそんなことはどうでもよくなっていく。

自分が望む世界を創造し続ける行為と純粋な歓びだけが、そこには在る。

いま、そしてこれからなお一層先の見えない世界の中で不安や恐れのエネルギーが世界を渦巻いていく。

だからこそ、それら不安や恐れの渦の中でも影響を受けない自分でい続けること。ㅤ

その一人ひとりの「在り方」が誰にも等しく試されていく。

無防備に世界とつながり無意識に他者からの影響を受け自分ではない価値観と感情を上書きされて世界を彷徨うことになる前にまず、自分の魂とのつながりを確かなものにすること。

そしてそのうえで、人や世界と関わりみずからが望む世界を創造していくこと。

大事なのはそこだよ。

結果や行動ばかりを見ずにそれがどんな動機から発しているものかに目を向けよう。恐れからではなく歓びと創造からはじまるエネルギーにこそあなたの目と、意識を向けていこう。ㅤ

まずは、あなたの内なる歓びから。そこにこそ、無限の可能性が在る。


Facebook髙橋 眞人さん投稿記事

こんにちは。

【今日の名言】亀井 勝一郎(文芸評論家)

すべての欠点は長所に結びついている。強い精神ほど、孤立する。

幸福というものはささやかなもので、そのささやかなものを愛する人が、本当の幸福をつかむ。

理想の夫、理想の妻を得ようとするから失望するのだ。凡夫と凡婦が結婚するのである。

教養の真の表れは、その人の「はにかみ」にある。お互い生きることに疲れている病人だという自覚あって初めて、家庭のささやかな幸福が見出される。

夫婦の間に、あるいは両親と子どもの間に、肉親だから何ごとでも自由に語れると思ったら間違いだ。愛の敵は、慣れるということである。

愛情がこもっていて無口な人こそ、人生の伴侶としてふさわしい。

絶望は人生に必ずつきまとうものだ。絶望しないような人間はある意味で頼りない人だといえる。なぜなら、小さな自己に満足し、何らの努力も考えごともしない人に絶望は起こりえないからだ。

多忙であることによって、自分は何か仕事をしたという錯覚を抱くことができる。

人間の心は、眼や表情にも表れるが、後姿にはっきり表れることを忘れてはならぬ。

徒党というものは、一面からいえば、孤独に耐え得ざる精神の休憩所だ。

未完成の自覚を持って、絶えず努力してゆくところに青春がある。たとえ若くても、自己満足に陥っているなら、その人は老人に等しい。

恋愛にも日曜日がなければならない。それが辛うじて永続させる方法であり、つまり「忘却」の逆用である。

ここ(薬師寺)へ来て、初めて仏像の美しさがわかります。

結婚とは青春の過失であるとある作家は言ったが、過失であって結構なのである。お互いに「しまった」と思いつつ、「お互いに、しまったわね」などとニヤニヤ笑いながら、さし向かいで言うようになったらしめたもので、それが夫婦愛というものだ。

青年時代に一番大切なことは、いつまでたっても解決できないような途方にくれるような難題を、自己の前に設定することではなかろうか。

いくつになっても、こっぴどく自分をやっつけてくれる先輩を持つことは、悔しいけれど、人生の幸福である。

「明日は」「明日は」と言いながら、今日という「一日」を無駄に過ごしたら、その人は「明日」もまた空しく過ごすに違いありません。

恋とは巨大な矛盾であります。それなくしては生きられず、しかもそれによって傷つく。

人は後姿についてまったく無意識だ。そして何げなく、そこに全自己を表すものだ。後姿は悲しいものだ。

人生は無限に深い。我々の知らないどれほどの多くの真理が、美が、あるいは人間が、隠れているかわからない。それを放棄してはならぬ。

女性は処女性をもっても、魔性をもっても、男性を征服することはできないが、ただ母性をもってのみ征服することができる。

自己に絶望し、人生に絶望したからといって、人生を全面的に否定するのはあまりにも個人的ではないか。

人間は死ぬべきものだ。恋愛が成立するための、これが基本条件である。

私は年をとるにつれて、幸福の反対を不幸だとは思わなくなった。幸福の反対は怠惰というものではなかろうか。

今日の若い男性は教養程度が低くなったので、目立つものにしか心をひかれない。発見する能力を失ったのだ。女性もまた教養程度が低くなったので、目立つようにしか化粧をしない。

幸福とは微笑のようなものだ。微笑は微笑しようと思ってもできるものではない。泉のように自然に静かに湧いてくるものである。

※11月14日は亀井勝一郎の命日(1966年)でした。


Facebook加藤隆行さん投稿記事【あきらめと受け入れの境目】

今週の投稿記事の流れで「あきらめる」と「受け入れる」の違いがわからない、と読者さんからご質問をいただいたのでその説明にチャレンジしてみます。ちょっと長くなりそう。

「もう、しょうがない……」という言葉、たぶん誰もが一度は使ったことありますよね。

でも、心の中では「ほんとはイヤなんだけどな……」って思ってる。これを「あきらめ」と言いますね。「受け入れ」とはちょっと違う。あきらめるときの心は、どこか「被害者モード」です。現実に押しつぶされて、「もう抵抗してもムダ」と力を抜く感じ。一方で、「受け入れる」ときの心には、ちゃんと「意図」があります。

「これは、 いまの私に必要な体験なんだな」って、静かにうなずく感じ。

同じ“起きた出来事”を前にしても、この意識の違いで現実の捉えられ方がまるで変わるんです。あきらめには「仕方なく」があり、受け入れには「選択」がある。

だから、受け入れることは負けじゃなくて、自分の手に人生を戻す行為です。

ここでちょっと言葉の話を。「あきらめる」は「諦める」と書きますね。

この「諦(てい)」という字は、実は仏教の「四諦(したい)」から来ています。

「四つの明らかな真理」という意味です。つまりもともと「諦める」とは、「明らかに見る」ということ。逃げるでも、投げ出すでもなく、ただ事実を“ありのままに見る”ことなんです。

ボクも昔は(今でも笑)、イヤなことが起きたら「しょうがない」って心をパタンと閉じて

ガマンしてその現実に従っていました。

でもそれをやると、たしかに多少ラクにはなるけど、同時に“感じる力”まで閉じちゃうんですね。怒りや悲しみを感じないようにすると、うれしいとか感動する感情も同じラインで鈍くなる。だから、「感じたくない現実」を”受け入れる” というのは、ほんとは“感じることを取り戻す”ことでもあるんです。それができた瞬間、不思議なことが起こります。

現実は変わっていないのに、なぜか心が静かになる。苦しさの中に、ちょっとした“ぬくもり”を感じる。それが、あきらめと受け入れの境目です。

「あきらめ」は他人軸で、「受け入れ」は自分軸。「あきらめ」は被害者で「受け入れ」は当事者。外からは同じような行動に見えるかもしれないけれど内側ではまったく違う。

でもまあ結局のところ、あきらめても受け入れても、どっちでもいいんだけどね。

アナタの人生にとってラクな方をどうぞ(^ω^)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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