歌論書

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=731 【歌論書】より

かろんしょ

歌に関して批評的文学論的見解を述べた文献。歌の定義・要素・分類・歌病などのほかに、歌に関する種々の研究、たとえば歌集の校訂・注釈・類纂および歌書の文化史的研究などをも含むものが多い。奈良時代、『万葉集』にも批評意識は散見するが、歌論書としては『歌経標式』(藤原浜成)がある。歌の意義・起源などを序に述べ、本文では歌病七種、歌体三種(求韻・査体・雑体)について詳述し、最後に跋文がある。平安時代、『倭歌作式』(喜撰)、『和歌式』(孫姫)、『石見女式』は『歌経標式』と近似しており、和歌四式とよぶ。『和歌体十種』(壬生忠岑)、『和歌十体』(源道済)、『新撰髄脳』(藤原公任)、『和歌九品』(同)などは簡明であるが、『俊頼髄脳』(源俊頼)、『奥儀抄』(藤原清輔)、『和歌童蒙抄』(藤原範兼)などになると、注釈その他、広範囲にわたっている。鎌倉時代、『歌仙落書』、『続歌仙落書』、『後鳥羽院御口伝』、『瑩玉集』(鴨長明)、『近代秀歌』(藤原定家)、『詠歌大概』(同)、『毎月抄』(同)、『八雲口伝』(藤原為家)、『夜の鶴』(阿仏尼)、『簸河上』(真観)、『為兼卿和歌抄』(京極為兼)、『和歌庭訓』(二条為世)など、歌論を中心としたものが多いが、『和歌色葉』(上覚)、『八雲御抄』(順徳天皇)、『無名抄』(鴨長明)などのごとく、歌学全般にわたったものも少なくない。室町時代、『井蛙抄』(頓阿)、『近来風体』(二条良基)、『耕雲口伝』(花山院長親)、『了俊一子伝』(今川了俊)、『落書露顕』(同)、『正徹物語』(正徹)、『ささめごと』(心敬)以下きわめて多く、宗教的見解を加えた点が注意せられる。江戸時代、『為満卿和歌講談』(冷泉為満)、『耳底記』(烏丸光広)、『資慶卿口伝』(烏丸資慶)、『光雄卿口授』(烏丸光雄)、『聴玉集』(烏丸光栄)などのごとき旧派歌論と、『国歌八論』(荷田在満)、『歌意考』(賀茂真淵)、『石上私淑言』(本居宣長)、『五級三差』(富士谷成章)、『真言辨』(富士谷御杖)、『歌かたり』(村田春海)、『新学異見』(香川景樹)、『こぞのちり』(大隈言道)、『ひとりごち』(同)、『歌道大意』(平田篤胤)、『調の説』(八田知紀)、『調の直路』(同)、『歌道大意』(伴林光平)以下のごとき新傾向とがあり、後者は諸派に分かれる。明治以後には正岡子規の写生論以下、各派の歌論がきわめて活発に述べられている。

[参考文献]

佐佐木信綱編『日本歌学大系』、久曾神昇編『日本歌学大系』別巻(久曾神 昇)


https://mie-ict.sakura.ne.jp/100n1s/kajin/k084.html 【藤原清輔朝臣】より

(ふじわらのきよすけあそん。1108年~1177年)

  79番・藤原顕輔(あきすけ)の次男で、顕輔19歳の時の子です。父からは愛されず、親子ながら不和だったという逸話が残っています。才能に恵まれながらも、何かと挫折の多い人生でした。異母弟の重家(しげいえ)・季経(すえつね)が優遇され公卿まで昇進しましたが、清輔は不遇で位も正四位下・太皇太后大進にとどまり出世できません。父が77番・崇徳院の命で「詞花集」の選集にあたっていた時も、その補助をした清輔の意見は採用されず、清輔の歌は一首も選ばれませんでした。博学で歌学(和歌の研究)に優れ、「奥義抄」「和歌一字抄」を著します。久寿2年(1155年)、父・顕輔も清輔の歌才を認め、人丸の御影(みえい)を譲って、歌道の名家六条藤家の3代目となりました。歌会のやり方、作法、有名歌人の逸話など、歌の百科全書ともいえる「袋草紙(ふくろぞうし)」を完成させたことで、王朝歌学の大成者といわれています。二条院に深く信頼され、「続詞花集」の編纂をまかされましたが、完成前に二条院が死去したため、心血を注いだ歌集も勅撰集にはなりませんでした。(私撰集「続詩花集」となる。)中年になってから清輔の評価は非常に高くなり、御子左家の83番・藤原俊成に並び称されました。特に右大臣九条兼実は、35番・紀貫之、55番・藤原公任に並ぶ歌才であると激賞しました。晩年の自撰家集に「清輔朝臣集」があり、「千載集」(19首)以下の勅撰集に89首が入集しています。

●「無名抄(むみょうしょう)」では清輔について「歌の方の弘才は肩を並ぶる人なし」と言っています。清輔は漢詩で行われていた「尚歯会(しょうしかい:敬老詩会)」を和歌にも取り入れて行事化しました。「古今著聞集」には、招かれた老歌人7人を挙げています。84歳で耳は遠いが熱意の人敦頼入道以下、70代3人、60代3人で、主催者の清輔は布袴(ほうこ)の束帯姿でしたが、重家(しげいえ)が裾を取り、季経(すえつね)が沓(くつ)をはかせるお世話をしました。異母弟2人はいずれも清輔より官位は高かったのですが、兄を尊敬する振る舞いが人々の心を捉えたと伝えています。その5年後、清輔は74歳で亡くなりました。

●清輔は著作「袋草紙」に祖父・顕季の言葉を伝えています。「歌よみは万葉よく取るまでなり。これを心得てよく盗むを歌よみとす」(歌よみは「万葉集」からうまく歌詞を取ってくればそれでよい、このことをわきまえて上手に取る人のことを歌よみというのだ。)「万葉集」を尊重した六条藤家の家祖らしい言葉といえます。これに対し、御子左家の83番・藤原俊成は「古今集」こそ手本とするべきであると主張しました。

●「袋草紙」は松尾芭蕉も読んでいて、「おくのほそ道」の白川の関でふれています。「古人冠を正し、衣装を改めし事など、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ。」(昔、竹田大夫国行が、この関を越える時、冠をかぶり直し、衣装を整えて通ったということが、清輔の「袋草紙」に、書きとめてあるとかいうことだ。)


https://www.izumipb.co.jp/book/b571124.html 【研究叢書519 奥義抄古鈔本集成】より

平安後期歌壇の権威藤原清輔が著した歌学書『奥義抄』は、平安期歌学を集大成した、六条藤家歌学の到達点を示す重要な著作。歌体・歌病等を示す上(式)、古今~後拾遺集と万葉集等の和歌の注釈を載せる中・下(釈)、難語等を問答形式で解説する下巻余の四部から成る。

 本書には、完本たる慶應義塾図書館蔵本(志香須賀文庫旧蔵)、上中下巻を具備する寛正三年(1462)写の大東急記念文庫蔵本、ならびに、残闕本ながら書写年代が鎌倉・室町期まで遡る、国立公文書館内閣文庫蔵本(201―752)、宮内庁書陵部蔵梶井宮本、国立歴史民俗博物館蔵中山家本、冷泉家時雨亭文庫蔵本、天理大学附属天理図書館蔵本、前田育徳会尊経閣文庫蔵『和歌問答』、さらに鎌倉後期の写本を透き写しした国立歴史民俗博物館蔵『和歌伝』等、全十一伝本の翻刻を収録。

 古態を残す諸伝本を簡便に対校しうる本書により、『奥義抄』本文系統の再検討はもとより、原態の復元を通して、平安後期歌界の実相や和歌をめぐる知の世界を考究する上でも意義深い資料を提供するものである。

 「所載歌一覧」と、初二句を見だしとする「句索引」を付す。

【著者略歴】

藏中 さやか(くらなか さやか)

甲南女子大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(国文学)。神戸女学院大学教授。著書・論文に、和歌文学大系48『王朝歌合集』(共著、明治書院、2018年)、「陽明文庫蔵宋雅百首に関する考察」(『国語国文』第82巻第11号、2013年11月)、「歌語「縹の帯」の変容」(『女性学評論』第29号、2015年3月)など。

黒田彰子(くろだ あきこ)

神戸女子大学大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(日本文学)。

佛教大学非常勤講師。著書に、『俊成論のために』(和泉書院、2003年)、『仏教文学概説』(共著、和泉書院、2004年)、『五代集歌枕』(みづほ出版、2006年)、『和歌童蒙抄注解』(青簡舎、2019年)など。

中村 文(なかむら あや)

立教大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学)。

日本女子大学非常勤講師。著書・論文に、『後白河院時代歌人伝の研究』(笠間書院、2005年)、和歌文学大系49『正治二年院初度百首』(共著、明治書院、2016年)、「藤原清輔が見ていたもの―『奥義抄』後拾遺集歌注釈をめぐって―」(『武蔵野文学』66、2018年12月)など。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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