心語一如

https://www.enkan.jp/about/ 【炎環について】より

俳句結社「炎環」――

 【主宰】石 寒太

 【師系】加藤 楸邨

 【創立】1988(昭和63)年1月、石 寒太が東京にて創立

 【俳誌】月刊「炎環」毎月1日発行

炎環は、主宰の提唱する「自分の生きる証としての俳句」をめざし、心と言葉をひとつに、今一番言いたいことを自分の言葉で表現する「心語一如」を志す俳句集団です。

炎環の名は「小さな火が束となって環をなし、その炎が天を駆け、燎原を焼き尽くす大きな力となる」の意味です。

炎環は、古い結社意識に縛られず、楽しく自由でありつつも、老若男女が切磋琢磨し、学び合う俳句広場です。

全国30句会、約500人の会員がいます。

月刊誌「炎環」は、2022(令和4)年2月号で、通巻(前身の「無門」から)500号を迎えました。

炎環会員の活躍は、新聞、俳句総合誌、公募俳句大会などでの入賞著しく、「角川俳句賞」「北斗賞」など最高峰の賞を受賞しています。


https://www.enkan.jp/kanta/words/ 【寒太独語】より

2025年11月(No.152)

どうしたら俳句がうまくつくれるか?この質問は多いが、うまく応えられない。

結局実践!つくり続けること。俳句に惚れて、好きになる。そのうちに、次第に分かってくるのだ。

2025年10月(No.151)

「や」は切断の助詞。切った箇所で、作者と読者(享受者)に 空間(余白)を与える。

と同時に、 それが骨格にもなる。切れのない句は、 述べ型で説明。

「や、かな、けり」と ひとくくりにするが、ひとつずつが微妙。それを大切にしよう!

2025年9月(No.150)

俳句は、言い切ること。芭蕉は、「いいおほせて何かある」といった。

「いま」と「わたくし」それを大切に、言い切ること。空間の一期一会。その一点において、一句がなりたつ。述べるのではない。

2025年8月(No.149)

俳句は省略。最小限のことばを選ぶこと。長く説明するのは散文やエッセイに任せて

重要なことばのみを選ぶ。連続する時間をうち止め、地つづきの空間を断ち切ること。

「省略」は切断、新しい結合を生む。

2025年7月(No.148)

目に、耳に、鼻に、肌に、そして舌に。すべての五感を働かせて一句をつくる。

いまの感覚をとらえること。昨日はすでになく、明日はまだない。

きょうという、今という瞬時を、感覚によって、とらえること。

2025年6月(No.147)

俳句は、文学ではない。一般の方法に還元しない。述べない。語らない。抒情に流れない。

隠し、沈黙し、惜しむ。ものやことに託すのみ。それが俳句という、詩型のすがただ。

俳句・俳諧だけの表現である。

2025年5月(No.146)

俳句は、こころの燈がともっていなければできない。燈のないところに、俳句は生まれない。

生きる道を照らす燈がなければ俳句にならない。人生の燈が、軸となり、ものを見る視座、考える根となる。それが俳句だ。

2025年4月(No.145)

頭だけで、句をつくらない。身体に聞いてみること。目で見、足で触れる。頭はだますことができるが身体はだますことはできない。真を体感しているから。感動を身体でとらえる。

その時の感動を身体で、実感することから、俳句ははじまる。

2025年3月(No.144)

俳句は時分の花と世阿弥は言っている。その時々を詠む。二十代は二十代の句を、八十代は八十代の句を、自分の年代でみえたものをその時々にとらえるのだ。

回想したり、背のびしてもダメ。いまの、きょうのものを、一瞬にしてつかみとるのだ。

2025年2月(No.143)

うまい俳句と、いい俳句はちがう。うまい俳句は作者名が、なくてもいい。

いい俳句には、その人がいなくてはダメ。俳人格とその顔がみえること。

その人だけの、生きてきたたしかさが、みえてこなければダメ。他のだれでもない。その人そのものの俳句。

2025年1月(No.142)

いい俳句は、すっきりとした姿でととのえられる。上五から入って下五までぎくしゃくした句はいい俳句ではない。

複雑な内容でも単純に、わかりやすいことばで美しい調べで仕上げる。

俳句には、難しいことばや内容はいらない。


https://www.enkan.jp/plus/kenichi-tajima/01-riron/ 【理論としての俳句】より

田島 健一

理屈っぽい俳句は面白くない、とよく言われる。確かにそのとおりだ。

俳句はどこかで理屈では説明できない飛躍がなければ面白くない。

とは言え、その返す刀で「俳句に理論は必要ない」とまで考えている人たちがいるのだが、それはいかがなものだろうかと思う。

そのように考える人たちの多くは、そのような「理論」に対抗する純粋無垢な「感覚」というものが人間に備わっていて、俳句はその「感覚」に訴えるものなのだ、と言う。

けれども、基本的に俳句は「言葉」でつくられ、それゆえにどこまでも構造的で、理論的だ。

俳句から「理論」を消してしまうと、俳句の「読み」そのものが消えてしまう。

そんなことを考えているとき、ふと金子兜太の処女句集「少年」のあとがきに次のような一文を見つけた。

例えば僕は論理を嫌つた。論理を構成するとき、既に本質は逃げていると感じた。心情だけが本物であつて、意志とか意欲とかいうものはまやかしだと感じた。これらの底には、当時の空虚で観念的な国家論や道徳論に対する心理的反撥も手伝つていたとは思うが、そうだとは言い切れぬ程、すべては感じの域を出ないものであつた。然し、こうした体質的な状態は「結婚前夜」の頃を境として、徐々に変つていつた。正確には変らざるを得なかつたと言うべきであろう。(中略)それは、今まで純粋といゝ、誠実といゝ、本物という場合、それを暗黙のうちに対決させていた不純であり不実であり偽者である反対物についてはこれを当然の前提とし、従つて誠実等を可能にする環境条件を考慮していなかつたということであつた。

このような変化について述べたあと、兜太は次のように書いている。

善良というものは本来的な性質であつて、こゝから善意とでも言うべき社会的な性格に展開しない限り、それを支え切ることは出来ない。また、そうした社会的な性格に到るためには、自分の抒情的体質や封建的意識と裏はらの感情の古さを、論理的に克服する必要がある。

論理が必要となるのは、この「自分の抒情的体質や封建的意識と裏はらの感情の古さ」の自覚があってこそで、それを論理的に克服する、ということは、つまりは自身の無意識の領域を覗き込むことなのではないか。

フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの有名な公式「無意識は言語として構造化されている」とは、俳句に置き換えれば「論理的な読み」の向こう側に、作者が「書いてしまったもの」を読み出だすことであり、それは「理論」そのものといえる。

もう少し正確に言えば、私たちの「感覚」は、象徴化された日常生活においては言語で鎧われていて、それを乗り越えて「感覚」そのものに到るには、言語を排除する理論が「言語的」に必要となるのだ。

だから、俳句はある意味で実に「理論的」な文芸だといえる。

それは、五七五という最短詩形としての俳句の持っている特性の一つと言うことができるのではないか。

https://www.enkan.jp/plus/kenichi-tajima/02-yominikusa/ 【読みにくさについて】より

田島 健一

穂村 いま時代全体の趨勢として、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」ですよね。読者は驚異よりも共感に圧倒的に流れる。ベストセラーは非常に平べったい、共感できるものばかりでしょう。以前は小説でも、平べったい現実に対する嫌悪感があったから、難解で驚異を感じる、シュールでエッジのかかったものを若者が求めていた。でも今は若者たちも打ちのめされているから、平べったい共感に流れるのかな。

長嶋(※) 打ちのめされているのか(笑)。

穂村 すると、詩歌にあるような、言葉と言葉同士が響きあう衝撃みたいなもの、俳句でいうと切れになるような感覚は、圧倒的に読みにくいという話になりますよね。

(「どうして書くの?」穂村弘 対談集(筑摩書房))

※長嶋有(作家・エッセイスト・俳人)

本書によれば、この対談は2005年のものらしいが、穂村弘の分析は鋭く、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」へ流れる傾向はその後もより強まっており、特に2011年3月11日の東日本大震災以降、さらにその傾向に拍車がかかっているようにも感じられる。

それは、つまり「いま、ここ」に存在しないものに形をあたえる力学に対する態度の問題で、もっと正確に言えば、形を与えられないものを無条件で受け入れ、その懐で遡及的にイメージ化されていく、というプロセスについての躊躇あるいは欠落の問題なのである。あの震災で発生した巨大な津波は、生命や国土やその他さまざまな物質を流し去っただけでなく、そのような人間の「感性」そのものにも、どうやら大きな影響を与えつつあるように思われる。つまり対談の時期と異なる点があるとすれば、現在「打ちのめされている」のは、「若者」だけではなく「日本人」全般である、と言うことができるかも知れない。

この穂村の分析にひとつ付け加えることがあるとすれば、この「シンパシー(共感)」というものは、単純に「日常性」と結びついているのではなく、むしろ360度転回した後、あたかも「あたりまえのようだが、あたりまえでない」という文脈の上で、自分たちの感覚と結びついている、と信じられていることだ。

けれどもほとんどの場合、そのような「あたりまえでない」文脈は、書かれた句の読みを定めるコンテクストとして外在化しているだけで、作品としての句そのものには書き込まれていない。実は、そこでは360度の転回などはされておらず、つまるところ、そのような作品は「あたりまえのようだが、あたりまえでない」という顔をした「あたりまえ」の作品なのである。作品における「ワンダー(驚異)」は、言うまでもなく俳句作品の上に構造として「書き込まれる」のであり、その具現化したものの一例が、穂村が指摘する「俳句でいうと切れになるような感覚」なのである。

ここで穂村が「ワンダー(驚異)」という言葉を選んでいることに注目したい。それは例えば「ワンダーランド」というような空想的でポジティブな響きを持っており、何か、素敵なものを読者に運んできてくれるように感じるかも知れない。けれどもそれは全く逆であり、そのような「ワンダー(驚異)」は、読み手を疎外し、拒否し、反撥しまくるので、読み手にある種の「強靭さ」というか「図太さ」のようなものを要求する。それが「圧倒的に読みにくい」ということになるのだが、言い換えれば、それこそが「面白さ」への入り口なのである。

これは短詩形の宿命と言うべきかも知れないが、定型として書かれたその瞬間に、そこに一種の「ゆがみ」が現れる。それが、そこに書かれた「以上」のものとして、「意味」を運んでくるのだ。

そういう句は、読者に問いかけているのだ。

おまえは「物語が聞きたいのか、それとも生きたいのか」、おまえの望むものは「冒険譚か、それとも冒険そのものか」と。


https://www.enkan.jp/plus/kenichi-tajima/03-miru/  【見るということ】より

田島 健一

俳句は「写生」で、「写生」とはものを見ることだという。

ここでいう「見ること」というのは、なかなかに複雑な様相をもっていて、それは決して十全なものではない。同じものを見ているようでいながら、それが同じものであることは保障されていない。ある思想的な枠組みが崩れると、目の前の対象の、「それ」が「それ」であることは揺らぎ始める。言い換えれば、私たちがものを見るとき、私たちの認識はある種の思想的な何かに支えられている。

そんなことを考えていたら、先日、ある深夜番組で興味深い番組をみた。

それは、キスマイ(注1)の番組で、「芸能人の兄弟のフェイクを見破れ」というもの。ステージに登場した芸能人の兄弟を名乗る人物が、本物であるかどうかを、キスマイやフットボールアワー(注2)らのタレントたちが当てるというクイズ形式のコーナーだった。

登場したのはお笑い芸人・ザブングルの松尾(注3)の双子の弟、という人物。そこにはザブングル松尾にそっくりな人物が立っている。あまりにもザブングル松尾に似ているので、解答者のタレントたちは、「本人なんじゃないか?」と疑うわけだが、このとき考えられる選択肢は3つある。「ザブングル松尾の本物の双子の弟」、「フェイク(偽者)で全くの別人」、「ザブングル松尾、本人」。

この番組の面白さのポイントは、この3つ目の選択肢が現れることなのだが(で、実際にこの「双子弟」は、ザブングル松尾本人だったのだ!)、一方で興味深いことは、そこにいる人物がどこから見てもザブングル松尾本人であるにもかかわらず、「双子の弟かもしれない」というその一点において、解答者たちは「彼」が「彼」であることに確信が持てない、ということだ。

解答者たちは、目の前のザブングル松尾を過不足なく見ているにもかかわらず、そこにザブングル松尾以上のものを見てしまい、迷うのである。

これは私たちが見ているものが十全なものではない、だけでなく、それによって私たちはその見ている対象の中に、その対象以上の「何か」を見ているのである。つまり、言うなれば「双子の弟」という凝った条件は必要ないのだ。もっとシンプルに、目の前にザブングル松尾がいるところで、「この人物はザブングル松尾である。本当か、嘘か」と問えば、そこには、やはり「対象以上のもの」が現れるのである。

例えば私たちは、日常会話の中で「田中って、ホント、田中だよねぇ」というような言い方をすることがあるだろう。これは、「田中は田中である。(田中=田中)」ということだけではなく、「田中は田中以上に田中らしさを持っているよねぇ」と、「田中=田中+α」であることを言っているのであり、さらにはこの「+α」こそが、田中を田中たらしめていることを暗に述べているのである。

こうして私たちは、常に対象のなかに対象以上のものを見ている。そして、その対象以上のものが遡及的に対象そのものを対象たらしめている。

俳句で「ものを見る」というとき、私たちはその「対象以上」のものを見るのだ。そして俳句形式はその五七五という短さの中で「それは、それである。本当か、嘘か」という名指しと問いかけを同時行うのだ。そうして名指されたものが、それ以上のものとしてそこに現れるのである。

「ものを見る」とは、そういうことなのだ。

※タレントの名前に疎い方のための注釈

(注1)キスマイ・・・正式名称は「Kis-My-Ft2」。ジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループ。

(注2)フットボールアワー・・・吉本興業所属のお笑いコンビ。ブサイクな岩尾とツッコミの後藤の二人。

(注3)ザブングル松尾・・・ワタナベエンターテイメント所属のお笑いコンビ、ザブングルのツッコミ担当。ちなみにザブングルのボケ担当はブサイクキャラの相方・加藤。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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