https://www.eisai.co.jp/museum/curator/ranzan/viewpoint/history_01.html 【日本の本草学のあゆみ】より
本草学は、生命維持や健康のため用いてきた、さまざまな植物や動物、鉱物の産地や薬効などを研究する学問として紀元前の中国で発生しました。日本では江戸時代に最も発展しました。
本草学は、紀元前の中国で発生し、その後日本へ
漢の時代、紀元1~2世紀頃には最古の薬物書として、『神農本草経』が編纂されています。この薬物書は伝説上の皇帝・炎帝神農(えんていしんのう)が記したといわれ、当時の薬学知識の集積と位置づけられました。
唐から伝来した書物が、日本の本草学発祥のきっかけに
唐の時代には『神農本草経』の注釈書を始めとしたいくつかの書物が日本に伝えられ、後の日本の本草学発祥のきっかけとなりました。
日本の本草学は、江戸時代に最も発展
16世紀末に明の李時珍(りじちん)の『本草綱目』が日本に伝わり、日本での本草学の研究は、江戸時代に盛んになりました。それまでの文献的考証から実物観察を重視し、日本の風土や植生に合致する実用的な学問へと変遷を遂げました。
https://www.eisai.co.jp/museum/curator/ranzan/viewpoint/spread_01.html 【「薬品会」、「物産会」などの展示会が庶民の娯楽にも】より
江戸時代の博覧会の始まり
世に知られていない薬物を出品した展覧会は本草学者たちの情報交換の場としての意味合いだけでなく、庶民にとっても娯楽的要素の高い見世物として人気を博しました。
のちの博物学となる、名物学、物産学が誕生
学者にとっては遠方の学者と交流できる貴重な場でした。これらの展覧会は本草学の中の名物学、物産学といった新たな学問分野を生み出し、のちの博物学へと発展していったといわれています。
知識人や文化人ばかりでなく、一般庶民へも普及
江戸時代後期になるとグループによる本草研究の活動が盛んになりました。グループの一つ尾張の「嘗百社(しょうひゃくしゃ)」は尾張藩主と蘭山の門人の水谷豊文、伊藤圭介らを中心とした研究会で、薬品会や本草会を開きました。動物、植物、鉱物を知識人や文化人ばかりでなく、一般庶民にも公開されました。
https://www.eisai.co.jp/museum/curator/ranzan/viewpoint/upbringing_01.html 【生涯、本草学の研鑽を積み、教育に力を注いだ蘭山】より
松岡恕庵の志を継ぎ、40歳まで師説を崩さず
師の恕庵は本草学の形成に功績を残した人物のひとりです。恕庵は蘭山が18歳の時に病気で亡くなり、その後は、師の遺志を継ぎ、独学で本草学を修めました。
身体虚弱であった蘭山は、仕官の道をあきらめ、25歳の時に京都に私塾・衆芳軒をひらき、京都での教育と研究は46年に及びました。師に最大の敬意を払っていた蘭山は、恕庵の師説を40歳過ぎまで崩さなかったといわれています。
記憶力抜群の蘭山
記憶力が抜群で、質問にはいつどこで見たのか、名称から内容まで答えるなどのエピソードが伝えられています。読書と抄写を無上の楽しみとし、薬草調査に出向くとき以外は外出することはなかったといいます。
文化7年(1810)に82歳で逝去。生涯、蘭山は本草学の研鑽を積み、教育に力を注ぎました。
https://www.eisai.co.jp/museum/curator/ranzan/viewpoint/students_01.html 【蘭山を祖に、優れた本草学者が続々と輩出】より
蘭山の門人は1000人にも及んだとも
京都の衆芳軒で名声を博した蘭山のもとには、多くの門人が入門しました。
40歳を過ぎた頃から蘭山の指導教育理念に変化
京都に衆芳軒を開いた頃の初期の蘭山は厳しい塾則を設けていた。そのころの代表的門人としては木村蒹葭堂が知られています。
40歳を過ぎた頃から蘭山の指導教育理念にも変化が現れます。門人に自らの教えを広める裁量を与えるようになり、山本亡羊は山本読書室を核とした教育に尽力し、蘭山を祖とすると3代目の門人を輩出するようになっていきました。
蘭山を祖に、優れた本草学者が続々と輩出
門人には、標本の分類をシーボルトに賞賛された水谷豊文や、西洋の植物学書をもとに『泰西本草名疏』を著した伊藤圭介、さらには江戸時代最大の植物図鑑『本草図譜』を著した岩崎灌園、リンネの分類法でまとめられた植物図譜『草木図説』を著した飯沼慾斎、西洋の植物学の解剖図や用語を紹介した『植学啓原』を著した宇田川榕菴(ようあん)など後に続く者たちが西洋植物学の考え方を本草学に取り入れていきました。
明治から昭和にかけて活躍した近代日本を代表する植物学者 牧野富太郎へとその流れは途切れることなく継承されていきました。
https://www.eisai.co.jp/museum/curator/ranzan/viewpoint/achievement_01.html 【卓越した観察力。門人を率いて実地調査に積極的に取り組んだ蘭山】より
身体虚弱を克服した蘭山は、71歳で江戸へ
寛政11年(1799)、71歳の蘭山は当時としては相当な高齢であるにもかかわらず、幕府の命により江戸の医学館に医官として招聘されました。身体虚弱な蘭山でしたが、本草学の研究成果を食養生法などの健康管理術として活用し、60歳の頃にはすっかり健康になったと伝えられています。
実物の観察を重視し、野外採薬に積極的に赴いた
医学館では「実物をよく観察すること」の大切さを強調し、門人を率いては実地調査である採薬に積極的に赴きました。蘭山の本草学のすばらしさは文献研究以外にも採薬によって得られた生きた知見がふんだんに加えられているところにあります。
小野蘭山の諸国採薬経路図を見る(PDF:2.3MB)
蘭山の功績が、日本の本草学の集大成『本草綱目啓蒙』へ
江戸での講義は『本草綱目啓蒙』48巻にまとめられ出版され、この書物はわが国の本草書として高く評価されました。日本産の動物、植物、鉱物を網羅し、その和名、方言が収録され、その後も多くの本草学者に活用されました。
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