Facebook今野 華都子さん投稿記事 袋背負いの心とは
大国主が表した國造り「袋背負いの心」とは痛みを包み、いのちを育む力
古事記に登場する大国主大命(おおくにぬしのみこと)は、「国造りの神」として知られています。けれど、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。
兄神たちに妬まれ、命を狙われ、地の底へと追いやられても、大国主は恨むことなく、静かに、穏やかに道を歩み続けます。その姿を一言で表すなら「袋背負い(ふくろしょい)のこころ」です。
「袋」という言葉には、もともと「いのちを包む」という意味があります。
母の胎も、いのちを宿す袋。大地もまた、いのちを育む袋。袋とは、守り、包み、育てるもの。つまり大国主が「袋を背負う」とは、人々の痛みや悲しみ、願いまでも自分の背中で包み込むということでした。
それは「誰かのために我慢する」ということではありません。むしろ他者の痛みを自分の内に受けとめ、いのちの光へと変えていく力。その優しさと強さこそが「袋背負いのこころ」なのです。背負うとは、責めを負うことではなく、命を受けとること私たちは「背負う」と聞くと、つい“重荷”や“責任”を連想しがちです。
けれど大国主の“背負う”は、そうした義務感とは少し違います。
彼の背負う姿には、「あなたの痛みを、私の祈りに変えよう」という静かな慈しみがありました。
苦を苦とせず、人の想いを受けとめて、自らの力に変えていく。それが、神の国を生んだ「むすひの力」でもあります。
袋背負いのこころを、今に生かす
現代を生きる私たちも、知らず知らずのうちに、何かを背負って生きています。家族のこと、仲間のこと、社会のこと。誰もが、自分の「袋」を背に歩いています。でもその袋を「重い」と感じるか、「いのちを受けとっている」と感じるかで、人生の景色はまるで変わってくるのです。
誰かの涙を、そっと受けとめる。誰かの想いを、自分の中であたためる。その積み重ねが、やがて「和(なご)」を生み、世界をやわらかく照らしていく。
背負うとは、苦を抱くことにあらず。いのちを包み、己を超えて生きること。
「袋背負いのこころ」は、自分の中の小さな神さまが目覚める瞬間です。
誰かを思うとき、その思いは必ずあなたの光になります。
大国主の背中のように、静かに、あたたかく、今日も誰かを包みながら生きていきたいですね。全国古事記塾主宰 今野華都子記す
Facebookあいことばさん投稿記事
□「嘆くなら」坂村真民
嘆くならただ一つ愛の足りなさに嘆け 金がないとか 思うようにならぬとか どこそこが痛むとか そんなことよりもっと大事な 愛の足りなさに嘆け
人間生きている以上 いろいろなんぎなことが つぎつぎに起きてくる でもお任せしておけば 必ずよいようにして下さるのだ だから人に対し物に対し まだまだ足りない愛の浅さに
目覚めては思い 寝ては考え 自分を深めてゆこう 嘆きから喜びに変わってゆく愛の人になろう
□「不動明王」 坂村真民
ぴかぴか光っていた刃物もいつの間にか錆がつく。 だから砥石で研かねばならぬ。
長い航海を終えた船は必ずドックに入って、船底についてきた貝がらや藻類を落とす。
人間は生き物だから、それ以上にいろいろのものがくっつき、どうにもならなくなっている。
それに自縄自縛という言葉がある通り、自分で自分をしばって動きがとれなくなり、
狂いそうになっている。(中略)
不動明王は、この金しばりのようになった人間どもを、あの網でくくり、あの剣で解き放つため出現されたのである。
わたしはそのことを思うたび、母が持っていた長刀と鎖鎌のことが浮かんでくる。
母もどんなにか切り捨てたことであろう。それが解脱なのである。
そうするともうフラフラもグラグラもしない。
□「体を拝む」 坂村真民
私は薬も飲まず、医者にもかかりません。病気は全部自分で治すんです。
「眼、耳、鼻、舌、身、意の菩薩様、五臓六腑の菩薩様、 両手両足の菩薩様」
と言って仰向けになりまして、「今日も一日お守りください」と言うて、自分の体を拝むのです。起きている時、寝ている時も働いている五臓六腑を 大切にせず、尊敬もせずのどうしますか。一番信頼しなければならんのは親から貰ったこの体です。
□「老樹」 坂村真民
よくわたしは樹齢何百年といわれる木に会うと、悲しくはないかと聞くのです。
そうすると彼等は必ずこう答えてくれます。悲しくなんかありませんよ。
一しょうけんめい生きているものには喜びだけがあって、悲しみなんかありませんよ。
わたしの葉を噛んでごらんなさい。生き生きしているでしょう。
朝は朝日を受け、夕べは夕日を受け、こうして立っていますと、自分が老いていることさえ忘れてしまいます。春夏秋冬いろいろの鳥たちがやってきて、いろいろの話を聞かせてくれます。肌は老いても心だけは若木と同じです。
□「二度とない人生だから」 坂村真民
二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけてゆこう
二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないように こころしてゆこう
どんなにか よろこぶことだろう
二度とない人生だから 一ぺんでも多く 便りをしよう 返事は必ず 書くことにしよう
二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう
貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い 足をとどめて
みつめてゆこう
二度とない人生だから のぼる日 しずむ日 まるい月 かけてゆく月 四季それぞれの
星々の光にふれて わがこころを あらいきよめてゆこう
二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し そういう詩を 一遍でも多く
作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために
この大願を 書きつづけてゆこう
Facebook 加藤隆行さん投稿記事【もう“前向き”じゃなくていい】
「前向きに生きよう」「ポジティブでいよう」そんな言葉を信じて、ボクたちはいつも
“顔を上げていなきゃ”と思ってきました。落ち込んでも、「前を向かなきゃ」と自分を励ます。つらいときほど、笑顔でいようとがんばってきた。
そして、それが大人になることや「成長」だと教えられてきたかもしれません。
でも、その “がんばって前を向く” ことが、心をいちばん疲れさせていることもあります。
ほんとうの成長は、いつも明るく元気に進むことじゃない。立ち止まって、ときに、うずくまりながらも深まっていくものです。
実は成長は“直線を前に進むもの”ではなくて“螺旋状に上がっていくもの” です。
ぐるぐる回りながら、同じ人生の課題を前に行ったり、後ろに戻ったりと何度も何度も通り過ぎながら、じわじわと少しずつ高いところに上がっていく。これが成長。
だから、前を向けないときも、落ち込んでいる自分も、ちゃんと成長の途中なんです。
植物が根を張るように、見えないところで力をためる時間がある。
人も同じで、高く飛ぶには一度しゃがむ必要がある。何もしていないように見えて、その内側では確実に“上に向かって”伸びています。だからもう、無理に前を向かなくていい。
泣いたり、迷ったりしている今も、ちゃんと“螺旋階段の途中”。前を見られない日も、下や後ろをもう一度確認して次のステージに上がる準備をしているだけ。
今日も焦らず、比べず、自分のペースで螺旋を登っていく。それがいちばん、ほんとうの意味で“前向き” ってこと。だから、安心しておもいっきり落ち込んどこ(^ω^)
0コメント