https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_66.html 【「色好み」のルーツ
第66巻 井原西鶴集(1)より】
本書に収めた西鶴初期の作品には、それぞれ「好色こうしよく」と冠しているが、それぞれ概念が異なる中に、第一作の『一代男』と第二作の『二代男』の好色は同一概念であり、それは『一代男』の第一章で、「色道しきだうふたつに寝ても覚さめても」という色道(好色)である。
そこで「好色」という漢語と、訓読して「色好み」のルーツを探っておこう。 『史記』『漢書』『論語』などの中国古典に散見する「好色」は、美貌びぼうまたは情事にふけることを意味し、それを訓読したのが「色好み」である。目下のところ平安時代に登場した用語ということになっている。平安初期の『竹取物語』に、「色好いろごのみといはるるかぎり五人」とあり、また中期の第一勅撰集『古今和歌集』の紀貫之きのつらゆきの仮名序に、「今の世の中、色(華美)につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言ことのみいでくれば、(和歌は)色好みの家に埋うもれ木の、人知れぬこととなりて」とある。和歌が奈良時代の国を挙げての『万葉集』とちがって、プライベートな恋愛や結婚生活のコミュニケーションの手段となってしまい、パブリックな「晴はれ」の文芸でなく、プライベートな「褻け」の文芸に堕してしまったことを嘆いているのである。さらに、この仮名序にもとづいて漢詩人の紀淑望きのよしもちが書いたと推定されている漢文の「真名まな序」には、もちろん「好色こうしよく」とあるので、この漢語と和訓の用語使用は、朝廷からお墨付すみつきが出たようなものである。
ところがこの「好色」という漢語の原典は、すでに前期王朝末期の『万葉集』編纂へんさん当時には、唐から輸入されていたようである。真言宗の開祖・空海著の『三教指帰さんごうしいき』の成立は、平安遷都(七九四年)の三年後である。その上巻に「恒つねに蓬頭ほうとう(みだれ髪)の婢妾ひしようを見ては、已すでに登徒子とうとしが好色に過ぎたり」(原漢文)とある。登徒子は中国の春秋戦国時代の楚その襄じよう王の太夫で、楚の詩人・宋玉そうぎよくの『好色賦こうしよくふ』に、「好色漢」として挙げられた人物である。空海が唐の長安に留学したのは延暦二十三年(八〇四)であるから、七九七年に『三教指帰』を書き上げる以前に、稀代きだいの秀才・空海が舶来の『好色賦』を読んでいたことは明らかである。
もちろん万葉歌人たちが、漢語の「好色」を「色好み」と和訓するまでには到いたっていないが、それに該当する事例や人物や用語が存在していたことは、『万葉集』巻二の相聞そうもん(恋愛)の歌二首(一二六~一二七番)が物語っている。
石川女郎いらつめ、大伴宿禰田主すくねたぬしに贈る歌一首
遊士みやびをと 吾は聞けるを 屋戸やど貸さず 吾を還かへせり おそ(鈍感)の風流士みやびを
大伴宿禰田主の報こたへ贈る歌一首
遊士に 吾はありけり 屋戸貸さず 還しし吾ぞ 風流士みやびをにはある
この贈答歌に付いている漢文の解説を、多少の私見を交えて略解しよう。梅花を愛した風流の大宰府だざいふ長官・大伴旅人たびとの弟で、『万葉集』切っての抒情じよじよう歌人・大伴家持やかもちの叔父にあたる大伴田主たぬしは、容姿のすぐれた風流士みやびお(プレイボーイ)として聞えていた。時に独身の石川女郎いらつめは田主との同棲どうせいを望んでいたが、よい仲立ちがないので、ある夜、下賤な老女に化けて土鍋どなべを提げ、田主を訪れて「火をいただきたい」と申し入れたが、田主は女郎のからくりを察して家に入れず、火を与えただけで追い返してしまった。そこで女郎が、「わたしの思いを察せず追い返したとは、ほんとに血のめぐりのわるい、見掛け倒しの風流士だ」となじったので、「そういう下ごころを察して去気さりげなく帰した私こそ、本物の風流士なんだ」と田主が切り返したのだ、という。
さてこの「風流士」の「士」は男を意味するが、「風流みやび」は元来、野暮な田舎風を意味する「鄙ひなび」の対語で、「みや」は宮すなわち神社や貴族の宮殿のある所、都会風・宮廷風、すなわち優雅な風俗や慣習を意味するが、特に「風流士みやびお」は男女の情愛に通じたプレイボーイを意味した。なお「みやび」に優雅の「雅」の字をあてるようになったのは、漢字を多用するようになった中世(和漢混淆文こんこうぶん)以後のことである。
この前期王朝の恋の諸分しよわけに通じた「みやびお」を懐かしがって、「昔人むかしびとは、かくいちはやきみやびをなむしける」と懐古的発言をしたのは、平安中期の『伊勢物語』の第一段「初冠ういこうぶり」で、『万葉集』時代の残照である。だが『竹取』をはじめ『源氏』や『和泉いずみ式部日記』など、仮名書きの恋物語が主流となった平安時代になると、前時代的な「みやび」や音読の「好色」は用いられず、訓読の「色好み」を専用するようになった。
それでも中世歌壇や歌人は「雅び」を階級的美意識とした王朝文芸の影響下にあったから、鎌倉時代末期の歌人の兼好法師が、『徒然草』第三段で言う。
よろづにいみじくとも、色好まざらん男をのこは、いとさうざうしく、玉の巵さかづきの当そこなき心地ぞすべき。……女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。
また第一三七段に言う。
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。…… 男女をとこをんなの情なさけも、ひとへに逢あひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂うさを思ひ、あだなる契ちぎりをかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲井くもゐを思ひやり、浅茅あさぢが宿やどに昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
これを合わせ読めば、千変万化する無常の美を愛すべきだという、動乱期の詩人の美意識にもとづく「色好み」の解釈だということがわかる。しかし、所詮しよせんは一夫多妻で不倫意識もなく、「色好み」を風流韻事の一環と見る王朝的思考に対する挽歌ばんかにほかならない。
京都という限られた無風地帯は別格として、すでに十二世紀末に開始された武家社会では、一二三二年(貞永元)に頼朝以来の判例をふまえた『御成敗式目ごせいばいしきもく』が、北条泰時やすときによって編纂されていた。
強姦和姦を論ぜず、人妻と懐抱の輩、所領の半分を召され、所帯なき者は遠流おんるに処すべきなり。次に道路辻において女を捕える事、御家人は百ケ日の間出仕を止め、郎従以下に致りては、片方の鬢びんを剃そり除くべし。
という厳罰が必要な荒くれた世相だったのである。なお『好色一代男』巻三・二十七歳の章で、神主に化けた世之介が塩竈しおがま明神で主ぬしのある舞姫をレイプしそこない、片小鬢かたこびんを剃られたという件くだりは、近世初期までは地方に上記の古法が残っていたことを西鶴が承知していたからである。
これでは「みやび」だの「色好み」だと気取っておられるはずがない。しかも、まもなく『太平記』巻二十七が、「臣君きみを殺し子父ちちを殺す。力を以もつて争ふ可べき時到る故に、下剋上の一端にあり」という、力ずくのインモラルの時代がやってきた。かつ、室町後期の応仁おうにんの乱に引き続く戦国時代になると、嫁の不義密通は一家一門の恥だというので、妻敵討めがたきうちが公認されるまでになった。だから御伽草子おとぎぞうしの『物くさ太郎』に、「主ぬしなき女を呼びて、料足りようそく(金銭)を取らせて逢ふことを、色好みといふなり」とあるように、不倫はペナルティーが怖いから、独身の女を金で買ってすまそうという、買春ツアーのおっさんみたいなのが「色好み」となっては、万事休すである。
後期王朝時代に匹敵する三世紀に近い泰平の時代と文化を演出した近世の徳川幕府は、関所を廃止して交通の自由を設定するとともに、貨幣制度を発足させ、その貨幣を鋳造し運営する商人(町人)を優遇した。特に直轄都市の江戸をはじめ、駿府すんぷ・京都・大坂・堺さかい・奈良などの地子銭じしせん(年貢)を免除したのは、商業の繁栄こそ興国のゆえんと考えたからであった。その結果、町人階級はその富に見合った教養(詩歌・諸芸・美意識)を保持するに到った。だが、彼等の日常生活は、封建道徳や、家族・身分制度に拘束され、しかも政治に参加する自由は皆無であった。
こうした町人対策と並行して、幕府は中世の無秩序な散娼さんしよう制度を、治安維持のために廓くるわ制度(公娼)に切り替えた。特に京・大坂・江戸三都の廓は「御免ごめんのお町ちよう」(略して、お町)と称し、その格式・設備・妓風を誇ったので、一も二もなく有産・有識階級である町人のサロンとなった。
遊女屋の亭主に「忘八ぼうはち」と当て字したのは、儒教の八徳「仁義礼智信忠孝悌」を忘れさせてくれるボスだからという洒落しやれである。しかもその三都の廓(島原・新町しんまち・吉原)は半世紀余りで、王朝の「雅び」に相当する「粋」という遊びの美学とエチケットを醸成したので、王朝の「好色」(色好み)が蘇よみがえる格好の場となった。その美学とエチケットを体系化したのは、京都の分限者の家に生まれ、十代から三十代にかけての遊興と諸国遊里の実地調査をまとめた『色道大鏡しきどうおおかがみ』(十八巻・延宝六年‐一六七八‐序)の著者、藤本箕山きざんであった。この箕山が衒学げんがく的かつ即物的に叙述した好色道である「粋」を、箕山と親しかった西鶴が文芸化したのが、処女作『好色一代男』と続編の『諸艶大鑑しよえんおおかがみ』(好色二代男)であったことは、『色道大鏡』を翻刻・解説した野間光辰君も指摘しているから、贅言ぜいげんを要しない。
だが西鶴の西鶴たるゆえんは、廓という一般社会のモラルや慣習から隔離された租界そかい内で通用する「粋」という美意識に固執せず、好色の意味を拡大解釈して、まもなく粋とは対極の、目覚めた性愛に不惜身命ふしやくしんみようの『好色五人女』や、性を商品化しなければ生きていけなかった『好色一代女』などを、社会的視点をもって書いている点にある。好色物に限らず晩年の町人物においても然しかりであるが、これは彼が特定の美意識やイデオロギーに束縛されず、やむにやまれぬ人間の業ごうを描き続けたリアリストであったことの証あかしである。オフレコせずに堂々と正反合の人生の表裏を眺め描いた西鶴であったから、彼の文学は明治・大正・昭和・平成の近現代を生き続けているのである。(暉峻康隆)
https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_67.html 【流行作家時代中期の作風
第67巻 井原西鶴集(2)より】
西鶴が四十一歳の天和二年(一六八二)に発表した処女作『好色一代男』を書く必然性は、その直前に敢行した風俗詩的な独吟千六百句の『大句数おおくかず』と独吟四千句の『大矢数おおやかず』を見ればわかる。だがそれは西鶴自身の内部事情で、俳諧師としていくら有名であっても、大坂の板元が当時はまだ仮名草子と称していた得体の知れない小説の処女作を引き受けるはずもなく、奥付に「荒砥屋孫兵衛可心板」とある、後にも先にもこれっ切りのインスタント板元の私家版であった。
ところがこの破天荒の悪漢小説ピカレスクが大当り、翌天和三年には江戸で当時全盛の浮世絵師・菱河師宣ひしかわもろのぶの挿絵で、江戸版『一代男』の出版(翌貞享元年三月刊)の話が持ち込まれたので、西鶴もやる気を出して第二作『諸艶大鑑しよえんおおかがみ』(好色二代男・貞享元年四月刊)を書くと、地元大坂の板元・池田屋(岡田三郎右衛門)が飛びついて、忽ち西鶴は上方のローカル作家となった。
第三作『西鶴諸国ばなし』(貞享二年一月、大坂池田屋版)
第四作『椀 久 わんきゆう一世の物語』(同年二月、大坂森田版)
第五作『好色五人女』(同三年二月、大坂森田版)
第六作『好色一代女』(同三年六月、大坂池田屋版)
一六八二年に私家版作家として出発した西鶴は、まもなく地元大坂の板元がスポンサーとなって、ローカル作家となったのであった。しかし五年間に六作とはいかにも寡作である。もっともその間に、貞享元年六月には住吉社前で一昼夜独吟二万三千五百句の荒行あらぎようを敢行したり、翌貞享二年一月には京都の宇治加賀掾かがのじようのために浄瑠璃『暦こよみ』を新作刊行し、道頓堀で上演したり、かなり我儘に浮気をしている。だから小説の方も「好色」というテーマを興のおもむくままに拡大解釈して体験領域内に取材し、悠々と書いているので、寡作ではあるが生き生きとしている。
ところが『一代女』に続く第七作は、「好色」とはまったく関係のない『本朝二十不孝』(同貞享三年十一月刊)で、この作品には地元の岡田三郎右衛門(池田屋)と千種ちぐさ五兵衛のほかに、江戸青物町の万谷よろずや清兵衛(万屋の誤り)がはじめて参加している。この二都版の『二十不孝』をきっかけとして、翌貞享四年から西鶴は大坂・江戸、または大坂・京都、大坂・京都・江戸の板元が参加する二都または三都版の作者となった。例えば、
貞享四年(一六八七)
一月、『男 色 大鑑なんしよくおおかがみ』(大坂・京都。再版は三都版)
四月、『武道伝来記』(大坂・江戸)
元禄元年(一六八八)
一月、『日本永代蔵』(三都版)
二月、『武家義理物語』(三都版)
十一月、『新可笑記』(大坂・江戸)
元禄二年(一六八九)
一月、『本朝桜陰比事おういんひじ』(大坂・江戸。流行作家時代の最後の作品)
以上を要約すると、大坂のローカル作家であった西鶴が京都や江戸の板元にも、その斬新な文体や娯楽性を認知されて三都版作家、つまり全国で通用する流行作家にのし上がったということである。こうなると注文殺到、五年間に六作という自主的創作でお茶を濁しているわけにはいかない。
江戸の万屋が参加して三都版作品の第一号となった『本朝二十不孝』(貞享三年十一月刊)は、『一代男』から始まって翌貞享四年一月刊の『男色大鑑』へと続く好色本シリーズの流れの中で、突然割り込んできた異質の作品である。だが作者にとって一連の好色本の登場人物たちは、封建社会のモラルや制度をまるで無視した悪党たちだったのだから、中国の『二十四孝』ならぬ本朝の『二十不孝』を書く必然性は十分にあった。そこへ持ってきて五代将軍綱吉は、忠孝を目玉とする儒教の信奉者で、『一代男』が出版された天和二年には、諸国に「忠孝札」を建てさせ、不忠不孝の輩は重罪に処すべき旨を令している(『徳川実記』)。その当局の方針に迎合した京儒・藤井懶斎らいさいが、貞享元年に漢文体の『本朝孝子伝』(三冊)を出版した。これが時流に乗って翌二年に再版、さらに三年八月に三版が出た。この文部省推薦まがいの教訓的な『孝子伝』の流行に便乗し、大坂と江戸の板元が相談して急遽、西鶴ならではの反面教師をよそおった娯楽的な悪漢小説ピカレスクを注文し、大急ぎで出版に漕ぎつけたのが、このいかにもジャーナリスティックな『二十不孝』であった。
しかしさすがに西鶴である。割り込んできた急作の『二十不孝』とほとんど同時の貞享四年一月刊の『男色大鑑』は、当代の好色の一面である「男色」(衆道しゆどう)をテーマとして、「好色物シリーズ」の掉尾の作品として、『二十不孝』より先に脱稿していたのである(『西鶴新論』男色大鑑の成立)。もちろん『大鑑』の板元は大坂と京都で、江戸の板元は加わっていない。だが何しろ人口の半分は衆道愛好の本家の武家で、すでに江戸の板元の声が掛かっていたので、西鶴は『大鑑』の巻一の一で江戸の読者へのサービスに努めている。
とかくは男世帯をとこぜたいにして、住み所を武蔵むさしの江府えふに極めて、浅草のかた陰にかり地をして、世の愁喜、人の治乱をもかまはず、不断は門をとぢて、朝飯あさはん前に若道根元記じやくだうこんげんきの口談、見聞覚知けんもんかくちの四つの二の年まで諸国をたづね、一切衆道のありがたき事、残らず書き集め、男女なんによのわかちを沙汰する。
もちろんフィクションではあるが、精一杯のサービスをしている。その甲斐あって『大鑑』の再版には江戸の万屋が参加して、まさしく三都版作家になっている。
三都版の流行作家になるということは、いつの時代でも作家の本懐であるに相違ない。しかし昨貞享三年までの五年間に、わずか六作三十四冊であった彼が、貞享四年から翌元禄元年までの二年間に、十作五十四冊の大量生産作家に変貌したのである。しかもその大部分は『男色大鑑』に引き続き、「諸国敵討」と傍題した『武道伝来記』(八冊)や『武家義理物語』(六冊)、『新可笑記』(五冊)、『本朝桜陰比事』(五冊)など、町人出身の西鶴にとっては体験領域外の、伝来の写本によるか聞き書きするよりほかはない、武家物シリーズである。
これだけの外注による量産をこなすには、ローカル作家時代のように、問題意識を持ってリアルタイムで取材し、文体や構成に意を用いた作風では処理できない。どうしても題材本意で文章も記述体の説話文学に移行せざるをえない。しかもその世界に対してアウトサイダーであった西鶴は、武士道というモラルに支配された悲劇を、痛みを感ずることなく、新しい娯楽文学としてリアルに描いている。それについて、『武道伝来記』についての論難書『日本武士鑑』(元禄九年刊)が序においていう。
ここに近年、武道伝来記と名付けて世に弘むるあり。これをうかがひ見るに、一として実なることなし。猥みだりがはしき虚亡の説のみなれば、人の教になるべき物にしも非ず。
返り討ちにされたり、せっかく敵を討ちながら、たまたまその敵の家に奉公していたばっかりに、主しゆう殺しの罪で獄門にかけられたりという、武家としては触れられたくない『伝来記』の冷静非情な敵討ちの裏話を、虚妄の説として非難しているのである。だがそれ故にこそ『伝来記』は、正義化された敵討ちの正体を暴いたユニークな作品たりえたのである。
アウトサイダーの西鶴が、こういう大量の武家説話シリーズを書き続けるには、ローカル作家時代の『西鶴諸国ばなし』の序文で、「世間の広き事、国々を見めぐりて、はなしの種をもとめぬ」という、取材旅行などしていては間に合う道理がない。もうこの頃は、推理作家の松本清張さんが取材や必要事項の蒐集・整理のために複数の助手を抱えておられたように、その種の西鶴工房が形成されていたようである。そしてそのニュースソースは、貞享・元禄当時九十五軒に達していた諸藩の蔵屋敷くらやしきの社交性ゆたかな蔵役人たちであった。その蔵屋敷の蔵物くらもの(年貢米や物産)の売買を代行する「蔵元くらもと」も、その代金を預かる「銀掛屋かけや」(掛屋)も、多くは有力な両替商で、談林だんりん俳諧を嗜む連中であった。両者は新町しんまち廓などで饗応し合っていた(宮本又次『大坂町人』)。武家説話の取材に出向く必要はなかったのである。
だが武家物シリーズはテーマ・題材ともに行き詰まることを見越した西鶴は、同じ説話でも新生面を開くべく、武家物とは打って変った町人階級の盛衰をテーマとした説話集『日本永代蔵につぽんえいたいぐら』(六冊三十章・三都版)を、『武道伝来記』(貞享四年四月刊)と『武家義理物語』(翌元禄元年二月刊)との間の同元年一月に発表している。かつて現役の町人であった西鶴にとって、サブタイトルを「大福新長者教」というこの『永代蔵』は、目先の変った町人説話として執筆したとはいえ、アウトサイダーであった武家説話と違って、その世界は明暗を百も承知の運命共同体であった。はからずもこの一作が、武家物シリーズの衰退を尻目に、元禄三年以後、没する同六年までに、説話性から脱却して独自な方法を擁するに至ったシビアな町人物の晩年を迎えることになったのである。
最後に、この流行作家時代に西鶴は、自分の俳諧師としての体験や素質に適応した方法を確立していることを指摘しておきたい。何しろ彼は小説を書くまでの二十数年、俳諧(連句)という短詩型をもっぱらとしていたので、人生の断面をとらえて簡潔に描くコント作家的な方法が身についていた。けれども作家を志したからには、一定のテーマや題材を総合的に描くという意欲を持ったのは当然である。だからローカル作家時代の西鶴は、処女作の『一代男』や『一代女』『五人女』などのように、長編・中編を目ざしているのだが、主人公を設けているとはいえコントの集合体で、建築的な構成とは無縁である。
ところが『男色大鑑』を起点とする武家物シリーズになると、一定のテーマと題材によって統一した短編集という、短歌における連作と同様の、独特の方法を擁するに至っている。これによって、例えば貞享二年刊の『西鶴諸国ばなし』のような、素朴で無構想の中世的説話文学や、長編めかした短編集というスタンスの不安定な方法から脱出し、彼の素質にフィットした方法に落ち着いたのであった。『日本永代蔵』を起点とする晩年の町人物も、テーマや題材は違ってもこの方法を堅持しているから、まさに西鶴が作家として確立した基本的方法というべきである。(暉峻康隆)
https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_68.html 【晩年のテーマと方法
第68巻 井原西鶴集(3)より】より
西鶴の晩年とは、経済小説エコノミツク・ノベルの第一作『日本永代蔵につぽんえいたいぐら』を発表した元禄元年(一六八八)四十七歳から、第一遺稿『西鶴置土産』が執筆刊行された元禄六年までの六年間をいう。作品としては中期の説話文学の中の新趣向の作品として書かれた、
一、『日本永代蔵』(元禄元年正月刊・三都版)
二、『西鶴織留おりどめ』(北条団水だんすい編の第二遺稿・元禄七年三月刊・三都版)元禄二、三年中の執筆。
三、『万よろずの文反古ふみほうぐ』(元禄九年刊の第四遺稿・三都版)元禄三、四年中の執筆。
四、『世間胸算用むねさんよう』(元禄五年正月刊・三都版)
五、『西鶴置土産』(元禄六年冬刊の第一遺稿・三都版)成稿は同年病中。
これだけの経済小説の流れの中で、生前に本屋が引き受けて出版されたのは、四番目の『胸算用』だけである。その他の遺稿として出版された『織留』や『文反古』などは、未完成であったために日の目を見なかったのである。その原因の第一は元禄二年以後、一進一退を繰返しながら衰えていった晩年の健康状態であった。それでも元禄三年十二月下旬には小康を得て上京し、俳諧の門人・北条団水亭を訪れ、両吟歌仙二巻を試みたが、
蘇生よみがへりして何はなすらん 西 鶴
燃えしきる燈をかきたてよかきたてよ 団 水
と団水が師をはげましているように、二歌仙とも半歌仙で終っている(元禄四年一月刊・団水編『団袋だんぶくろ』)。「寓言と偽いつはりとは異なるぞ、うそなたくみそ、つくりごとな申しそ」(文芸は真実にもとづくフィクションである)という、元禄当時の西鶴の文学観を紹介したのも本書である。
また五十一歳の元禄五年三月の西鶴書簡に、「今程目をいたみ、筆も覚え申さず候」と老衰を嘆いたあげく、その翌六年八月十日に、
人間五十年の究きはまり、それさへ
我にはあまりたるにましてや
浮世の月見過しにけり末二年
という辞世吟と、病中の絶作『西鶴置土産』を残して他界した。
西鶴を不朽の作家たらしめた晩年の町人物の成行きは、以上のような健康状態を承知しておかないと理解できないであろう。
経済小説エコノミツク・ノベルの走り
日本においてはもとより世界的にも経済小説(町人物)の先駆けとなった『日本永代蔵』は、三都版作家として武家説話で売り出し中の貞享四年(一六八七)中に、新趣向の町人説話として成稿した作品である。西鶴はこの作品を契機として、記録や伝聞に頼るしかない体験領域外の武家説話シリーズの末路を悟り、自分と運命共同体の町人の経済生活という現実と対決することになったのである。
寛文末年(一六七一~七二)に河村瑞賢ずいけんによる本州一周航路が整備され、同時に両替商(金融機関)制度が整ったので、経済都市大坂は日本の商業資本主義の根拠地となり、それから約十五年後の貞享三、四年は、商業資本主義の隆盛期を迎えていた。だからその諸相を題材とする『永代蔵』は、まことに画期的でタイムリーな作品であった。
そこで西鶴のモチーフは、サブタイトルに「大福新長者教」とあるように、立身出世を夢見て奉公中の農村出身(二、三男)の手代や番頭を激励するにあった。だから巻頭の第一章で、
惣じて、親のゆづりをうけず、その身才覚にしてかせぎ出し、銀五百貫目よりして、是を分限といへり。千貫目のうへを長者とは云ふなり。
と、親の遺産を頼らない、独立独歩の一代分限を理想として掲げたのである。だから巻一から巻四までの二十章の主人公たちは、その手段が合法・非合法にかかわらず、独立独歩の一代分限である。ところが巻五、六になると、親譲りはもとより、住専のように無担保でいくらでも貸してくれる銀親かねおや(出資者)を持った商人あきんどでないと成功しない、寛文期以降の出来でき商人あきんど(にわか成金)の数々を紹介して曰く、
今は銀かねがかねを儲まうくる時節なれば、なかなか油断して渡世はなりがたし。(巻五の四)
これらは格別の一代分限、親よりゆづりなくては、すぐれて富貴にはなりがたし。(巻六の二)
などと、「惣じて、親のゆづりをうけず」という巻頭のヒロイックなスローガンに背反する、勇気ある発言をしている。これは観念的なイデオロギーや正義感よりも現実認識を重んずる、大坂町人的な西鶴生来のリアリズムの証しである。
『永代蔵』に引き続いて、元禄元年中に執筆した確証のある『本朝町人鑑』(二巻七章で中絶)と、さらに続いて執筆された『世の人心ひとごころ、これも四巻十四章で中絶している。本屋も受け取らなかったこの出来損ないの未定稿を合わせて『西鶴織留おりどめ』と題し、門人の北条団水だんすいが元禄七年三月に出版した第二遺稿について団水が序文で、この二作は『永代蔵』と合わせて三部作として書かれたものだと言っているが、内容的に見て納得できる。というのは、中絶した『本朝町人鑑』というタイトルは、本来ならば「新長者教」と副題した『永代蔵』にこそふさわしい。ところが新長者どもは案に相違して、大方は目的のためには手段を択えらばぬ金の亡者どもであった。心ならずも自分が暴あばいた結果ではあったがたまりかねて、「町人の中の町人鑑」(巻二の一)を提供しようとしたのであった。そして西鶴はそれらの説話で柄がらにもなく、仏教の因果思想や儒教道徳を動員して、心正しくあれば神仏の恵みによっておのずから富み、また貧しくとも心安らかに生きることができると説いている。だが巻一の二で、ある大坂の問屋の亭主が人の銀をだまし取った報いで、その家は目前に絶え、女房は手のない子を産んで見世物になったという因果応報の話をした挙句に言う。
無理なる欲はかならずせまじき事ぞかし。ならねばなるやうに、世渡りは様々あり。然れども望姓もとで持たぬ商人あきんどは、随分才覚に取廻しても利銀にかきあげ(借りた元手の利子に吸い上げられ)、皆人奉公ひとぼうこになりぬ。よき銀親かねおやの有る人は、おのづから自由にして、何時いつにても見立ての買置、利を得る事多し。
うっかり本音を口走ることを「語るに落ちる」というが、これが資本主義時代であることを確認した『永代蔵』の後遺症である。
このように矛盾した自家撞着じかどうちやくを繰返していては、読者はもとより本屋が納得しないことはわかり切っているから、せっかくの『町人鑑』も九章で断念せざるを得なかったのである。そしてそれに代わる『世の人心』を四巻十四章まで書いたのだが、これがまたすべてストーリーのない随想ときている。町人の社交的教養である茶の湯・活花・俳諧などについての批判的な芸道随筆、医者や質屋や女奉公人など、中下層の町人生活に関するリアルでユニークな世相随筆である。だが仮名草子時代ならともかく、西鶴自身が開発した〈教訓と娯楽〉が新小説という概念の定着した出版界が歓迎するはずもなく、未完の二作を合わせて第二遺稿集『西鶴織留』(元禄七年三月刊)となった。先に述べたように、こういう思想的・方法的混迷は、不安定な健康が左右していることはいうまでもない。
没後三年目の元禄九年一月刊の第四遺稿、書簡体小説集『万の文反古』(内題)の成稿は、健康がやや回復した元禄三、四年中と推定されている。この候 文そうろうぶん十七章の短編集は、書簡形式だから各編四百字詰原稿用紙で六、七枚、全部で百十枚ほどだが、各章に付けた老婆心の解説レジユメの書き出しに二通りある。「此文の子細を考かんが見るに」というAグループが九章、「此文を考見るに」というBグループが八章と分かれているから、間を置いて十七章に仕上げたことがわかる。その前後は推量するしかないが、私はその町人物的題材・内容から見て、Aグループが先で、これだけでは大衆性が乏しく量的にも不足なので、説話的興味を主としたBグループを書き足したものと考えている。
ヨーロッパでは十八世紀の中頃に成立した英国のサムエル・リチャードソンの『パミラ』が書簡体小説の祖で、かつ近代小説の源流とされている。ところが日本では平安時代(十一世紀)から中世にかけて、書簡体小説の数々がある。十七世紀初めの江戸時代初期のベストセラー『薄雪物語』(往復の艶書二十九通)をはじめ、『文反古』成立の三、四年以前の元禄元年にも、『好色文伝授ふみでんじゆ』や『色欲年八卦としはつけ』などが出版されている。書簡体は大衆に馴染みの深いスタイルなのだが、それらはすべて艶書文学である。
ところが『文反古』のAグループ九章の大方は、艶書どころか経済的に追い詰められた中下層町人の悲喜劇を題材としている。西鶴自筆の自序に言う。見苦しくないのは世々の賢人が書き残した本箱の本だと兼好が書き残しているが、それを読めば人の助けになる。だが見苦しいのは今の世間の手紙だから、気をつけて捨てるべきだ。「かならずその身の恥を、人に二度ふたたび見さがされけるひとつなり」と述べている。
人間を失格したその身の恥をさらけ出し、現在の窮状をありのままに告白し、懺悔し、救いを求めるという設定は、主人公を極限状況に置いて物語性のない平凡で殺風景な現実を非凡化し、読者に緊迫感を与えるという、きわめて近代的な手法である。たとえば巻一の一「世帯の大事は正月仕舞」は、年間の収支決算日である大晦日を目前にして、借銀かりがねゆえに二進につちも三進さつちも行かなくなった大坂の中流の商人の内情を暴露した手紙である。また巻一の三「百三十里の所を十匁の無心」は、酒でしくじって兄にも相談せずに江戸へ稼ぎに下った大坂の魚屋が、「今の世、金がかねをもうける時になった」(レジュメ)ので餓死寸前の身の上となり、江戸で一緒になった女房・子供も捨てて、大坂へ帰る旅費を兄に無心した手紙である。このようにAグループ九章の大方は、極限状況下の中下層町人の現状を描いており、近現代の鑑賞には十二分にたえうる作品群なのだが、これでは当時の本屋が質的にも量的にも受け取るはずはないと考えたのであろう。そこで書き足したBグループ八章は、同じく極限状況を設定しているが、大衆性を顧慮した説話性十分な作品である。巻三の二「明けて驚く書置かきおき箱」や巻四の一「南部の人が見たも真言まこと」のように、旧作を改作した娯楽的な作品もあるのだが、西鶴も半ば予想していたように、このちぐはぐな書簡体の作品は、没後三年目に『西鶴文反古』と題し、第四遺稿として出版される破目になったのは、不幸中の幸いであった。
最晩年の奮起
その脱戯作的な精神や方法の故に、『万の文反古』は生前、出版を見送られたのであったが、五十歳の元禄四年、健康の一時的な回復とともに、西鶴は捲土重来を期した。それも失敗した『文反古』における〈極限状況〉の設定というユニークな方法をより強化して成功した、五巻二十章の『世間胸算用むねさんよう』においてである。この『胸算用』における超時代的なテーマや方法、ならびにその近代性については、拙著『西鶴新論』(昭和五十六年・中央公論社刊)の各章において詳説しているので、ここでは要点を述べることにしたい。
その一。未完の前作『文反古』では、主人公各自のまちまちな極限状況であった。それを西鶴は『胸算用』において、すべての庶民が「銭銀ぜにかねなくては越されざる冬と春との峠」(巻一の一)である一年最後の収支決算日、大晦日という普遍的な経済的極限状況で二十の短編を掌握するという、世界の小説史上、類例を見ない効果的な時間設定をしている。しかもその大晦日は、「元朝に日蝕六十九年以前にありて、又元禄五年壬 申みづのえさるほどにこの曙めづらし」などと、再三この大晦日は昨日昨夜のことなのだと、リアル・タイムであることを駄目押ししているのは凄い。
その二。さらに瞠目どうもくすべき手法は、主人公を設定しなければ成り立たない隠居の婆のエゴイズムを描いた巻一の四「鼠ねずみの文づかひ」や、絶望に耐える夫婦愛を描いた巻三の三「小判は寝姿の夢」などの特殊例を除いて(もっともこの二編も無名)、その他の作品では登場人物はすべて無名で集団描写を試みていることである。江戸時代においては、名字(姓)を名のることを公認されたのは士分以上で、農工商は屋号か通称(権兵衛・お夏・お七)だけで呼ばれていた。それさえ無視して無名の集団描写を試みたのは、商業資本主義の現代において、資本と無縁の町人大衆の貧困にもとづく悲喜劇は、無名の集団の運命として把握するよりほかはないと認識していたからである。このたぐい稀な悲喜劇が西鶴の意識的演出であったことは、プロレタリア作家・武田麟太郎の文壇へのデビュー作となった『ある除夜』(昭和五年)の原拠となった巻五の三「平太郎へいたろう殿」で、「哀れにも又をかし」と表明していることで明らかだ。
『胸算用』がめでたく元禄五年正月に三都版で出版された五十一歳の西鶴は、三月四日付の手紙に「今程目をいたみ、筆も覚え申さず候」と述べている。また同月二十四日には、盲目の娘(光含心照信女)が病没するという、弱り目に祟たたり目の有様で、小説を書くどころではなかった。名月の五日前の旧八月十日に没した翌元禄六年になると、遺書のつもりで最期の作品に取りかかり、五巻十五章を書いて序文まで書いたのだが、出版を待たず病没した。そこで京都高倉から駆けつけた門人の北条団水が、第一遺稿として同年冬に出版したのが『西鶴置土産』(原題は自序によると「色道大全」か)である。「難波西鶴」と署名した自序に言う。
世界の偽うそかたまつて、ひとつの美遊となれり。是をおもふに真言まことをかたり、揚あげ屋に一日は暮しがたし。(中略)去程に女郎買、珊瑚珠の緒じめさげながら此里(廓)やめたるは独りもなし。(下略)
だから私は粋という虚妄の美意識のために身代を蕩尽したプレイボーイの成れの果て十五人の生き様を、右代表としてレポートしたのであると結んでいる。自序にいう「虚妄の美遊」とは、十年以前の処女作『好色一代男』において、町人的美意識として賛美した「粋」であることはいうまでもない。西鶴はもはや二の矢がつげない土壇場になって、それを虚妄の美遊と断じ、その避け難い無残な結果を暴いて、創造者としての責任を果たしたのである。
極限状況下の彼等は、目から鱗が落ちたように本来の自己を取り戻し、どん底ながら気楽に、たくましく、誇り高く、それぞれのペースで生きつつある現状を淡々と描いている。それについて『古典文学論』の著者・正宗白鳥は、「『胸算用』まではわたしでも書けるかもしれないと思うので、帽子を脱ぐ気にならなかったが、『置土産』を読んだら初めて帽子を脱ぐ気になった」と言い、「これはテクニックで書けない小説だ。『置土産』の世界は自分がそういう境地にたどり着かないと書けないからだ。西鶴も置土産に至って、あれほどこだわった現実を捨て、本当にどん底に安心立命してゐる。だからわたくしは尊敬せざるを得ない」と絶賛している。
翌七年初冬十月、同じ大坂で病没した五十一歳の芭蕉は、辞世となった病中吟、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻めぐる
について、門人の支考しこうに「是を仏の妄執といましめ給へる。ただちは今の身の上におぼえ侍る也。此後はただ生前の俳諧をわすれむとのみおもふは」と言い残している。
この元禄文芸復興を代表する小説家と詩人が、死に臨んでそれまでこだわり続けた現実(人生と自然)から解脱する境地を披瀝ひれきしたことは、さすが絶世の芸術家の箴言しんげんとして、白鳥ではないが脱帽せざるを得ない。
*西鶴文学の近代的評価については、『西鶴への招待』(岩波セミナーブックス・一九九五年)と、竹野静雄著『近代文学と西鶴』(新典社・一九八〇年)を御覧ください。
(暉峻康隆)
https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_69.html 【西鶴の武家物
第69巻 井原西鶴集(4)より】
本巻に収録する『武道伝来記』『武家義理物語』『新可笑記』は、いずれも武家社会に取材し、それぞれ敵討かたきうち・道義・智略ちりやくなどを中心に、武士の生き方の諸相を描いたものなので、武家物という。
作者井原西鶴いはらさいかく(一六四二~一六九三)は、初め談林だんりん派の俳諧師はいかいしとして活躍した。特に矢数俳諧やかずはいかいといって、一昼夜に詠む独吟俳諧の数を競う催しでは、延宝えんぽう八年(一六八〇)に四千句の独吟を成就し、さらに貞享じよう きよう元年(一六八四)には二万三千五百句の独吟を成し遂げて、世間を仰天させたほど、激しい表現意欲の持主である。小説作者としては、天和てんな二年(一六八二)に『好色一代男』を刊行し、元禄げんろく六年(一六九三)に死去するまでに、好色物の小説十二点、武家物三点、町人物三点、以上の分野に入らない作品群、雑話物の小説を七点、総計二十五点の小説を出版している。西鶴の小説活動は、四十一歳から五十二歳で死去するまでの約十一年余であるが、概して前期に好色物、中期に武家物、後期に町人物が刊行され、雑話物はこれらと並行して全期にわたって刊行された。
西鶴は、大坂おおざか(大阪市)に生まれ、大坂で没した町人作者であり、武家物の世界はいわば領域外のことではあるが、しかし当代小説、浮世草子の題材収集には絶好の地であったのである。西鶴の『日本永代蔵』巻一の三冒頭から、大坂の繁昌ぶりを描く場面を要約して例示する。ぜひ原文を読んでほしいところである。
我々庶民と違い、大名は幸せで、一年に百二十万石の方もいる。ところで大坂は諸藩の米を始め、色々な物産が取り引きされる。米は一時いつとき(二時間)に銀五万貫目、量では百二十万石相当の米が取り引きされる。大坂の淀川に架かる難波橋から西の方を見渡すと、「数千軒の問丸」や蔵屋敷が甍いらかを並べ、白壁造りの白さといっては、雪の降った曙あけぼのの景のように眺められる。山のように積み上げた俵物を、馬に積んで送り出すと、大道がとどろき地雷のようだ。
右の舌足らずの要約からも大坂の活況がうかがわれよう。大坂には諸藩の蔵屋敷が置かれ、勤務の武士のほか、諸国から様々な商人が集った。また、瀬戸内海や淀川よどがわの水路を始め、陸路から各階層の旅人が集散した。卑近な例では、京・江戸・大坂三都の官許の遊廓ゆうかくのうち、格式や洗練さはともかく、廓くるわの規模や遊女の数では、大坂が群を抜いて大きかった。西鶴は大坂の遊女の数を「千三百余人」(諸艶大鑑八の五)という。要するに、諸国の人々から様々な情報や、珍談奇聞が大坂の人々に届いたと思われる。
ところで西鶴は、壮年時代の矢数俳諧やかずはいかいの下準備にも、多種多様な俳諧の素材を集めていたようであるが、日常生活でも話し上手・聞き上手な人であったらしく、多くの俳諧師が集まり、世間話などにも興じたことが、『西鶴名残の友』や俳書類から知られる。西鶴の伝記資料は、意外に少ししか残存しないが、伊藤梅宇いとうばいうの『見聞談叢けんもんだんそう』(岩波文庫にも所収)から紹介しておきたい。(原文は漢字片仮名交り文。表記は一部改めた)。
貞享元禄の頃、摂せつ(津つ)の大坂津に平山藤五と言ふ町人あり。有徳うとくなるものなれるが、妻もはやく死し、一女あれども盲目、それも死せり。名跡みようせきを手代にゆづりて、僧にもならず、世間を自由にくらし、行脚あんぎや同事にて頭陀づだをかけ、半年程諸方を巡りては宿へ帰り、甚はなはだ俳諧をこのみて、一晶いつしやうをしたひ、後には又流儀も自己の流儀になり、名を西鶴とあらため、永代蔵えいたいぐら、又は西の海、又は世上四民雛形せじようしみんひながたなど言ふ書を作れるものなり。世間の吉凶、悔吝くわいりん、 患難くわんなん、 予奪よだつの気味よくあじわひ、人情にさとく生れつきたるものなり。又老荘ともみえず、別種のいき方とみゆ。黒田侯御帰国の時、大坂の御屋敷へ召して、次(の間)にてはなさせ聞き給たまひ、世上へ出いだし、使番・聞番ききばん・留守居るすゐの役にいひつけ侍はべらば、かゆき所へ手のとヾくやうにあらん人がらと称し給ふよし。 (注)「悔吝」=後悔と恥。「患難」=災難と心配。「予奪」=財産の遺贈。
上の記事から、西鶴は平山藤五ともいうらしいが、他の傍証はない。彼は裕福な商人であったらしいが、家族運には恵まれなかったようで、この点の傍証はある。西鶴は店を手代に譲って、出家したわけではないが、他の俳諧師同様に、雲水の僧の姿で頭陀袋ずだぶくろを首に掛け、諸国を自由に旅をしたらしい。西鶴は『一目玉鉾ひとめたまぼこ』という歌枕うたまくらを中心とした鳥瞰図ちようかんず入りの地誌を著す。「一晶」は芳賀一晶という貞門の俳諧師で、西鶴の画像を残しているが、弟子ではない。『永代蔵』は『日本永代蔵』だが、以下の作品はなく、『世間胸算用せけんむねざんよう』のことかといわれる。筆者は西鶴の作品に感銘を覚えたらしく、本記事の後に、『西鶴織留』巻三の二「芸者は人をそしりの種」の又写しを載せている。後文の「黒田侯」とは、福岡藩主黒田光之みつゆきで、参勤交代の帰途、西鶴を大坂の蔵屋敷に呼び寄せ、世情のことを話させたらしい。「使番~留守居の役」とは、「藩の使者・伝奏役・蔵屋敷などの家老」をいう。
『見聞談叢』の記事から、西鶴が旅好きで諸国の風土や情勢に詳しいこと、また大変な話し上手で、大名を感心させたほどであることが分る。さらに容貌ようぼうや押し出しもよく、世知にたけて、口上さわやかに述べられる人物であったことも分る。
そうして先の旅好きであった点が反映したのであろうか、西鶴の小説は諸国話的な珍談奇聞に富む内容となっている。また、話し上手・聞き上手な点が反映したのか、西鶴の小説は概して短編小説であり、時には小説の構成自体が、話の“枕まくら”のような前置きや、時には伏線ともなる主題提示が初めにあり、そうして本論が展開し、最後に“落ち”のようなユーモラスな結末を迎えることが多い。そうしてこの二点が渾然こんぜんと一体化して、個々の作品自体が主題に則した諸国話の要素の濃い短編小説集となったといえる。
西鶴の初期の作品中、中期の武家物執筆につながるような傾向の話をいくつか紹介しておこう。
一 『諸艶大鑑しよえんおおかがみ』巻七の一「惜しや姿は隠れ里」では、遊女の敵討かたきうちを描く。江戸の元吉原時代の遊女長山ちようざんが、商売気を離れて好きになった仙台の客角弥かくやが、返り討ちに遭ったと聞くや、抱え主に頼み、仙台の遊里に移籍させてもらい、角弥の敵をねらう。助太刀もあり敵を討つことができると、首尾よく姿を隠し、尼となって角弥を供養したという。長山は武家の出と書かれていないが、武家の妻同様の気丈な振舞いをしている。
二 『西鶴諸国ばなし』巻四の二「忍び扇あふぎの長歌ながうた」では、大名の姪に当る姫君が、大名の家督相続権の順位のためか、二十はたち余りまで独身でいた。その姫が自分を一途に慕う下級武士と示し合せて、駆け落ちをした。しかし見付け出されて、男は処刑され、姫も自害するようにすすめられたが、姫は、相手と身分は違っても、自分は一生に一人の男と一緒になったわけで、決して不義をしたのではないと、堂々と主張し、尼となって男の供養をしたという話である。
以上二つの女性の、珍しい身の処し方の執筆から、やがて『武道伝来記』の女の敵討(二の一・二の四・六の一)や、『武家義理物語』巻五の一の遊女に関する敵討や、巻四の四「丸綿まるわたかづきて偽りの世渡り」の、武士の娘がだまされて遊女となったことを知ると、恥じて餓死した話、などへと展開したものと思われる。
三 『西鶴諸国ばなし』巻一の三「大晦日おおつごもりはあはぬ算用」では、江戸の貧乏浪人原田内助はらだないすけが、家内の兄から年の暮れに十両の援助を受けたので、大晦日に親しい浪人仲間を宴に招き、その折十両の金包みに面白い趣向がこらされていることを披露した。しかし片付ける際に一両足らないことが分った。そこでたまたま一両持っていた侍は、疑われては心外だと自害しようとする。するとここに一両あったと自分の金をそっと出して助けようとする侍が出たり、武家の義理堅い話を描いている。この話は目録見出しに「義理」と標榜ひようぼうするもので、『武家義理物語』の主題の萌芽を示すものである。
四 『西鶴諸国ばなし』巻三の七「因果のぬけ穴」では、目録見出しに「敵討」と明示するように、敵討の異聞を描くが、『武道伝来記』の副題「諸国敵討」につながる問題を扱っている。
五 『男色大鑑なんしよくおおかがみ』巻一の五「墨絵につらき剣菱けんびしの紋もん」。
六 同じく巻二の一「形見は二尺三寸にしやくさんずん」。
七 同じく巻二の二「傘かさ持つてもぬるる身」。
この『男色大鑑』とは、『武道伝来記』刊行の三か月前、貞享四年(一六八七)正月刊。八巻八冊、全四十話の短編小説集である。副題を「本朝若風俗」というが、「若風俗」とは若衆道の風俗の意である。兄分を念者、弟分を若衆というのと関係がある。前巻四巻は武士の衆道を扱い、後半四巻は歌舞伎若衆の男色を扱う。
武家物の第一作『武道伝来記』は、武士の衆道の関連する話が六話(一の一・三の四・五の二・六の四・七の二・八の二)もあるので、『男色大鑑』の前半から触発されて、執筆を企図したものと思われる。ただし、『男色大鑑』は「本朝若風俗」という主題、他方『武道伝来記』は「諸国敵討」という主題に基づく内容となっている。
最後に、西鶴の武家物に影響したと思われる仮名草子を挙げておく。
仮名草子の随筆類、如儡子によらいし(斎藤親盛ちかもり)の『可笑記かしようき』(寛永十九年〈一六四二〉刊)がある。全二八〇段の中で、武家における主君への批判、武道への感懐、あるいは処世訓などが、著者の浪人としての立場からの悲憤に満ちた口調で語られる。西鶴の『新可笑記』の題名は本書に基づく。詳しくは本巻末の「解説」を参照されたい。
次に浅井了意あさいりよういの『可笑記評判』(万治三年〈一六六〇〉刊)がある。この作品は、前述の『可笑記』を基にして、大概の段を批判、反論している。
また、仮名草子の翻訳物では、北村季吟きたむらきぎんの『仮名列女伝』(明暦元年〈一六五五〉刊)がある。これは前漢の劉向りゆうきようの『古列女伝これつじよでん』が舶来し、その和刻本の『劉向列女伝』(承応二年〈一六五三〉刊)が世に出た後に、翻訳書として世に出た。この『仮名列女伝』は、『武家義理物語』に影響を与えたと思われる。
さらに仮名草子の遍歴物、浅井了意の『浮世物語』(寛文五年〈一六六五〉ごろ刊)も、巻三の二「侍の善悪批判の事」や、巻三の十「侍は常に武勇ぶようを心がくべき事」などが影響したかと思われる。いずれも『可笑記』などの評言を、主人公浮世坊うきよぼうが語るのであるが、小説の中に大量に警世の言が織り込められているのが特色である。
以上の仮名草子に西鶴が共感したと思われるのは、主君の機嫌を取るのが巧みな家臣が出頭人になると、権威を笠かさに着て邪険になると非難しているところなどであろう。ただし『武道伝来記』では、仮名草子のように直接的な楊言はせず、小説の文脈の中で自然に察知できるように書き込んでいる。(冨士昭雄)
https://rakugo.ohmineya.com/%E8%A5%BF%E9%B6%B4%E4%B8%80%E4%BB%A3%E8%A8%98%EF%BD%9E%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97/ 【西鶴一代記~立川談志】より
https://www.youtube.com/watch?v=RUb8T-I_w0o&t=9s
太宰治に「モーパッサンよりも誰よりも、世界で一番偉い作家」といわしめた井原西鶴。1642年(元禄19年)大阪の裕福な家に生まれた親切な男で15歳の時に俳諧の世界に入り、一晩にニ万四千首の句を詠んだと言われ、のちに「好色一代男」で一世を風靡します。
覚書『好色一代男』について
7歳で腰元に恋をして性を知り、従姉、隣の女房、念者、撞木町の遊女、兵庫の湯女、清水坂の私娼、仁王堂の飛子、後家、人妻、奈良木辻町の遊女、街道のとめ女、江戸の私娼、貧しい家の入り婿まで情を交わした。
21歳からは橋本の私娼、京の妾、鞆の髪長、下関の稲荷町、大坂の蓮葉女、大原の雑魚寝、寺泊の遊女、坂田の勧進比丘尼、しやく、干瓢、県御子、水戸の御蔵の籾挽、追分の遊女、江戸の屋敷女中、京の十日限の手かけ、島原の遊女、死人の爪商など諸国を放浪して色道修業に励みます。
35歳からは父親の遺産二千五百両を譲渡され、島原の吉野、好三笠、藤娘、初音、野秋、元の高橋、今の高橋、薫、吉崎、新町の夕霧、御舟、和州、吾妻、吉原の吉田、小紫、高雄など有名な遊女を相手にし、長崎の丸山を最後に天和2年神無月の末に、7人の仲間とともに、山盛りの宝と責め道具を「好色丸」という船に積み込みんで、海の彼方にあるという女だらけの「女護島」を目指して船出し、それきり消息が絶えます。
小沢昭一的こころ「井原西鶴について考える」
https://www.youtube.com/watch?v=KTiiXPTscmg&list=PLLymwIt4gwcvwdraZqx3YW9g3CtHkiJ_Y
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