榎本バソン了壱氏

http://basson.jp/main/bassonkaisetsu2.html 【バソンについて】より

日本で通常ファゴットと呼ばれる楽器はシステムの違いからドイツ式とフランス式の2種類に分けられますが、 本サイトでは便宜上、前者を「ファゴット」、後者を「バソン」と呼んで区別します。 またバソン・ファゴットの区別無く単に総称として用いる場合に「バスーン」と呼ぶこととします。 但し一般的には、フランス語のバソン< Basson >、英語のバスーン<Bassoon>、ドイツ語のファゴット<Fagott>、 それぞれの単語としての意味に何ら違いは有りません。

その起源を辿れば400年以上も前までさかのぼるバスーンですが、 いくつかのキーシステムを持ったモダン・バスーンの原型は18世紀後半には出来上がっていました。 そして19世紀以降、楽器を演奏する環境の変化や音楽作品が要求する高度な技術に対応するため、 より洗練されたバスーンが制作されるようになります。なお、バソンの歴史に関しましては、 [バソンの世界 小山清]のHPに詳しく説明されていますので、 そちらをご参照下さい。

モダン・バスーンはドイツ式(ヘッケル式)のファゴットとフランス式(ビュッフェ式)のバソンに分かれて発展します。 操作性や安定性の向上、ダイナミックレンジの拡大を主眼に大胆な改良が重ねられたファゴットに対し、 バソンの発達はもっと保守的で必要最小限とも言えるものでした。今日のバソンをファゴットと比較しますと、 管径は細く、キーシステムも単純です。そのため音量の点では不利であり、フィンガリングも少々煩雑であることは否めません。 しかし、モダン以前のバスーンが有していた暖かい音の色や、 安定性の裏返しとしての表現力の幅広さはバソンならではの特長として確実に受け継がれたのです。 つまり、バソンというのは「フランス式」という言葉からイメージされるようなフランス音楽の演奏に適した楽器 という特異なカテゴリーにのみ属するものではなく、ファゴットがその合理化の過程で失ってしまったバスーン本来の趣を 現代に伝える古雅な楽器と言えるのではないでしょうか。とは言え、 より高い機能性や技術的完成度を追求する現代のオーケストラ事情に適合したファゴットの圧倒的な普及はある意味必然であり、 止まる処を知らないオーケストラのグローバル化と相まってバソンの演奏家は本国フランスにおいてさえ激減しています。 バソンでオーケストラのポストを得ることが至難となれは、プロを目指す若者や子供がファゴットを選ぶのは当然のことです。 バソン奏者は自身の演奏活動の都合はさて置き、「教える」ためにはファゴットを手にせざるを得なくなって来ているのです。 バソンを取り巻く状況は、残念ながら既に末期的と言えるかも知れません。

しかしながら、例えば次のような問題提起をしてみたいと思います。 元来それぞれの国や地域の音楽文化の象徴であるはずのオーケストラがどうしてグローバル化する必要があるのでしょう? バソンについて語ることは、クラシック音楽のビジネス商材化の暗黒面、 更には現代社会における芸術文化の在り方そのものを考えることにも通じるのです。


https://note.com/spotspot111/n/n0e82f86c45ee 【バソンという楽器: モーリス・アラールに寄せて】より

バソン(またはバッソン)Bassonという楽器をご存知でしょうか?

フランス式バスーン(ファゴットFagotto またはバスーン Bassoon)なのですが、形も少しばかり違い大きめで、キーの数も多く、音色が相当に違うのです。バスーンよりもくすんだ鄙びた響きが素敵です。また音量も新しい楽器であるバスーンには劣ります。

クラシック音楽漫画「のだめカンタービレ」に登場したので覚えてらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際に聴かれた方は少ないのでは。

わたしも実演で聴いたことはありません。

モーリス・アラール Maurice Allard (1923-2004) というフランスの往年のバソン奏者をある書物から知り、それ以来、彼はわたしの最も好む管楽器奏者の一人。

実は上記「のだめカンタービレ」のジョリヴェの協奏曲は1954年にアラールのために書かれて、アラールによって初演された作品。

初演に使用された楽器は近代的なバスーンではなく、古い型のバソンだったはす。

でもいまでは古い楽器のバソンがオーケストラの演奏で使用されることはほとんどありません。

アラールの奏でるバソンの音色は、普段我々がよく耳にする普通のオーケストラのバスーンの音色よりも鄙びた感じで印象が大分違います。

わたしはアラールのモーツァルトやヴィヴァルディの協奏曲録音を愛聴しています。ジョりヴェの曲は近代曲で、鍛えられていない耳には聞きづらい音楽ですのでここでは割愛いたします。

https://www.youtube.com/watch?v=cpMCLJKBlDw

有名なモーツァルトの協奏曲はティーンの頃のイタリア旅行の折の作品。

ドイツ式の普通のファゴットの演奏と聴き比べてみてください。

音色の違いに唖然とします。フィナーレです。

作品はファゴット奏者ならば必ず一度は演奏するというくらいの名作。

作曲家が18歳の1774年の作品。低音楽器のための協奏曲の姉妹作として、チェロ協奏曲も作曲したと、モーツァルトのお父さんレオポルトが息子のための作品目録に記載していますが、チェロ協奏曲は喪失。残念至極です。

少年の頃のモーツァルト

バスーン(ファゴット)、そしてバソンは管楽器の中では低音域を受け持つ大切な楽器。合奏とは高い音と低い音が存在してこそ音楽としての価値が高まるのです。フルートやピッコロの独奏曲があまり存在しないのはそのため。フルートソロには低音を受け持つピアノなどの伴奏楽器が必要になるのです。

バソンにバスーン、フランス式とドイツ式でこれだけ音色が違う。

古いフランスのオーケストラ音楽の録音で管楽器の音色が違うことがありますが、明らかに楽器が違うこともあるのです。こういう音色の違いの聞き比べはとても楽しいですね。

フランス系のオーケストラのブラームスの交響曲の録音などを聴くと、管楽器の響きが明らかに違うことがよくあります。フランス系の明るい管楽器の魅力あふれる録音に違和感を覚えることもよくありますが、スイスの指揮者アンセルメのベートーヴェン録音などに聴く、古き良き時代のフランスの楽器の音色は聴き慣れた楽曲の別の一面を見せてくれているようで楽しいものです。

バソンの活躍している交響曲の古い録音はないかなあと探してみましたが、すぐには思いつきませんでした。

スイスの指揮者アンセルメの録音はフランス的で、使用されている楽器はバソンかなあとも思うのですが、古典時代の交響曲にはあまりバソン(バスーン)のソロはないですね。

最後にアラールの演奏の貴重な録画が見つかりましたので、それを貼ってお茶を濁しておきます(笑)。モーツァルトの協奏曲のカデンツァ部分の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=weehhaeBkSA

またサン=サーンス晩年のソナタもとても素敵ですよ。正真正銘のフランスの作曲家による、フランスのバソン奏者による、フランス的なエスプリたっぷりの演奏です。本当に味わい深い音色です。

https://www.youtube.com/watch?v=xPmwA0fKvLU

https://www.tokyo-np.co.jp/article/130235 【奇想のおとぎ話 『幻燈(げんとう)記 ソコ湖黒塚洋菓子店』 クリエイティブ・ディレクター 榎本了壱さん(74)】より 

 年少の時から、絵を描いたり童話や詩を書いたりしていた。結局将来を考えた時に、二科展に入選していたこともあって、美術大学でデザインを学ぶことを選んだ。それでほぼ自分の人生が決まったかというと、そうでもない。高校生で同人誌の謄写版ガリ切り編集、大学在学中から粟津潔や寺山修司の編集デザインの手伝い。二十七歳で萩原朔美(さくみ)と『月刊ビックリハウス』を創刊した。

 それから出版編集、アートコンペティション、文化イベントや博覧会のプロデュース、あるいは大学教授など、無節操にも無茶(むちゃ)ぶりな仕事をしてきた。そして気がつけば、文芸も、アートも、イベントもすっかり裏方の黒子になっていた。もちろんデザインの仕事は続けていたけれど。

 しかし心の奥底で「自分はクリエイターになろうとしていたのではないか」という煩悶(はんもん)があった。プロデューサーやディレクターも、立派なクリエイターではあるけれど、これは明らかに自分に向かった仕事ではない。社会や組織と対応するワークである。成功すれば反応も大きいし、それなりの報酬も手に入れることも出来(でき)た。しかしこうした経験は、人をいい気にこそすれ、自分の中心が空洞化してしまうような、空虚さも感じていた。

 一つのきっかけは「書」を始めたことだ。二〇一三年から澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を全文書写した。

 澁澤龍子夫人にお見せして、それから大きな絵も描き出した。ギンザ・グラフィック・ギャラリーで個展をしたら、なんと横尾忠則さんに絵を褒められた。

 やっぱり自分と向かい合わなくてはいけない。俳句の同人誌『かいぶつ句集』に書いていた掌編は、すでに二冊の本になっていた。三冊目が『幻燈記 ソコ湖黒塚洋菓子店』である。

 今私は文芸の世界の熱心な読者ではない。そこには日常の繊細な記述が満載ではあるけれど、私はそういうものに強い興味がない。文芸の本道など分からないが、曖昧で不確定な想念のようなものにひかれている。あるいはこうした欲求は今や時代遅れなのかもしれないが、寓意(ぐうい)で織りなす自分のためのおとぎ話、私自身を満たすための奇想、異界、迷宮の想像世界に潜入することに、熱中している。 =寄稿

 

https://bijutsutecho.com/magazine/review/1762 【冥途の境界を航海する。椹木野衣が見た、「榎本了壱コーカイ記」】より

クリエイティブ・ディレクターとして、アート、雑誌、演劇などさまざまなジャンルを横断的にプロデュースしてきた榎本了壱。3年かけて制作した澁澤龍彦の小説『高丘親王航海記』をもとにした書写、絵巻、図絵の展示を中心に、榎本がこれまでに手がけた作品群を一堂に公開した本展を、椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

榎本了壱《高丘親王航海記 繪卷》(2015-16、部分)。澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』(1987)から着想を得て制作された、10メートルに及ぶ大作 撮影=三木麻奈

椹木野衣 月評第102回 コーカイ先に立たず ギンザ・グラフィック・ギャラリー第356回企画展「榎本了壱コーカイ記」

 榎本さんは、1980年代以降の「読売アンデパンダン」と呼んで過言でない「日本グラフィック」から「アーバナート」展の仕掛け人。渋谷を舞台に現在につながる新しいアートの芽生えと発表の機会を誰よりも早く、かつ大規模に支えた。私が知り合ったのはその頃のことだったから、榎本さんといえばプロデューサーというイメージだった。しかし本展を見てはっきりした。榎本さんはもともと作家であった。作家がたまたまプロデューサーをしていたのであって、逆ではない。そうでなければ、あんな大胆な企てができるはずもなかった。

 けれども、榎本さんがそんな自分の性質を長く押し殺し、裏方に徹していたのも事実だろう。だが、いまやその堰は切られた。きっかけがなんであったかは知らない。いずれにしても、榎本さんは澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を3年越しで大判の紙84枚に書き写すという、よく意味のわからないことを始めた。随所に挿絵も添えられている。これはなんだろう。きっと、本人もよくわからずにいたと思う。たぶん、そうせずにはいられなくなったのだ。

榎本了壱 高丘親王航海記 圖繪「蘭房」 2016 紙に墨、日本画絵具 85×105cm 撮影=三木麻奈

榎本了壱 高丘親王航海記 書写 2012-15 紙に墨、アクリル絵具 70×135cm

 それだけではない。次に榎本さんは、同じ物語をもとに幅が10メートルにもおよぶ巨大な絵を描き始めた。さらには、絵と書写をつなぐような素描も完成させた。と言っても相当な大きさだ。ますますもってわけがわからない。

 こんなことをして、ただで済むはずがない。案の定というべきか、昨年の2月に自宅の階段を踏み外し、意識不明となる。幸い、すぐに回復したものの、しばらくは脳内出血の後遺症で世界が二重に見えたという。ある審査会では、別のゲストがなぜだか三島由紀夫に見えたというから、実は相当に重症だったのだと思う。

 しかし、今こうしてこれらを一堂に目の当たりにすると、私には、榎本さんが死の扉を開けかけたあの転落を、どこかで予感していたようにしか思えない。いや、予感と書いたけれども、率直な印象としては、準備のほうが近いかもしれない。肝心なのは死の準備、ではなく、死にかける準備ということだ。だって、死んでしまったらこの個展はたぶん開かれていない。死にかけたからこそ、こんな境界線上の展示が実現した。これはいったい書なのか絵なのか。書写なのか創作なのか。死の世界なのか生者の世界なのか。すべてが「二重に見える」し、死者だって蘇って見える。そこには澁澤はもちろん、きっと三島もいる。

地下の展示風景。榎本がこれまでに手がけた膨大な数の作品が並ぶ 撮影=藤塚光政

 地下の展示がまたすごい。地中から滲み出た冥土の世界が銀座の繁華街と混じり合ったのが一階だとしたら、本人がこれまで描いてきた、仕掛けてきた、世に出してきた数十年にわたるあれやこれやが、なんだかマグマのようにフツフツと煮えたぎっている。その多くは広告や雑誌など社会性のある仕事のはずなのに、なぜかそう見えない。しばらく見ないうちに世界が変わってしまったのだろうか。それとも、もともと広告や雑誌のほうがそういうものだったのか。

 きっとそうなのだと思う。広告や雑誌はたぶん見世物から発している。楽しくなければ意味がない。そんな浮き立つ気分で会場から出たら、うっかり車に轢かれそうになった。まったく危険な作品群である。

PROFILE

さわらぎ・のい 美術批評家。1962年生まれ。近著に『後美術論』(美術出版社)、会田誠との共著『戦争画とニッポン』(講談社)、『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)など。8月に刊行された『日本美術全集19 拡張する戦後美術』(小学館)では責任編集を務めた。『後美術論』で第25回吉田秀和賞を受賞。

(『美術手帖』2017年2月号「REVIEWS 01」より)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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