和歌、俳句から考える健康学

Facebok藤井 清史さん投稿記事

【和歌、俳句から考える健康学1】

本日より、新シリーズ開幕です^_^!『蛙(かわず)ふみ、盃(さかずき)の蛇を、あやしみて

心せむるは、おのがうたがい』という歌があります。

訳として、「蛙を踏んだのを、蛇を踏んだのでないかと思い込む。見当違いで、いつまでも自分を責めて自己嫌悪に陥るのはおろかなことだ。」ということです。

これは、実によくあることです。

TVやSNSで、「〇〇という病気の特集をしていたのを見ていたら、全部私に当てはまるんですが、私、〇〇なんでしょうか?」

「肝臓の数値が高い、と言われたのですが、癌ですか?」

「妊婦さんの体験談を見てたら、怖いことばかりで妊娠が怖くなった…」

などなど、本当に皆さん、心配してお聞きになられます。

いつも私は、「大丈夫です。癌だったら、〇〇だったら、私が言いますから 笑」

「戦後間なしの、物もなくて衛生面も最悪な時代にベビーブームで、団塊の世代の人達は産まれたんですから、今、そんな心配するのはナンセンスですよ」などなど、お答えしています。

『思い込み』というのは、本当に恐ろしいもので、誰かが止めないと、本当にスッカリその通りになってしまいます。

「思いの力」というのは、誰でも持っていますし、凄いパワーがあります。モノづくりには、絶対不可欠なものでもあります。

ただ、方向性を間違うとマイナスに大きく振れることも多々あるのですね。そうならないためには、「自分を信じて心を鍛える」ということが大切になります。

エゴを強めるのではなく、限りなく謙虚に、限りなく優しくあれるよう、心を鍛えるということです。筋肉でもトレーニングによって鍛えられますよね!?

心も同じです。怠ければ退化していくのも同じなのですね。

古の歌にもあるように、この事はいつの時代でも、どんなに科学が進歩しようとAIが登場しようとも同じなのです。ぜひ、取り組んで参りましょう。

【和歌、俳句から考える健康学2】

『身を思う心のただちなべて世を めぐみすつうやあがる代の道』という歌があります。

訳としては、「自分自身の健康に気を配り、規則正しい生活を心がけるという心もちが、ひいては世も明るくする。」ということになります。最近、天候不順や、世界紛争が後を絶ちません。「昔はどんなんだったかなぁ〜」と、思い出すのも憚らない日々ですね。

私たちの暮らしているこの国や、地球という星も、ある意味では大きな生命体です。

そう考えると先の歌のように「心もち」が今の現実を創り上げているのかもしれません。

健康は、様々な身体に良い食品や運動、治療などが出てこようとも、自分自身が「健康でいよう、健康は本当に大切だ」と思わない限り、焼石に水、と言っても過言ではありません。

また、歌にあるように一人一人が、健康を自覚し、健康に取り組もうと考えていけば、自ずと生活、環境が整ってくるものです。

昭和の名鍼灸師、故澤田健先生は、「医乱れれば、国乱れる」とおっしゃっていました。

まさにこの通りで、「医」を医療、医療に携わる人、という考えだけでなく、個人個人として捉えるなら、この歌の通りでしょう。

健康を願い、規則正しい生活を心がける心もちか、健康をおろそかにして乱れた生活、怠惰な生活を送るという心もちか、のどちらかで国や世界、地球環境にも大きく関わってくるのではないか!?と言えるのではないでしょうか?

さすれば、私たちは如何なる“心もち”で日々、過ごせば良いのかが見えてくるのではないでしょうか?健康は、実は自分1人の問題ではない、ということなのですね。

「自分の身体は自分のものだから、好き勝手にすれば良い」という考えは、ただのエゴであって自己中心的な考えでしかないのです。

実は、自分が、地球体という生命体の身体の一つの細胞であり、周りとのネットワークで連綿と繋がっているのだ、ということを知らなくてはなりません。

そして、それを自覚しなければならないのです。

さぁ、人類の、地球の正常化に向けて健康であり続ける“心もち”を磨いていこうではないですか!?

【和歌、俳句から考える健康学3】

『水上(みなかみ)のつばきをはかぬ玉の緒はつづきて老のうるおいとなる』という歌があります。訳としては、「唾液を吐かずに飲み込んでいると、長生きでき年をとっても老化しない。(玉の緒=命)唾液は不老の液!「痰は吐け、唾液は飲み込め」という養生の原則のこと」

ということになります。唾液は、日に1〜1.5リットルくらい分泌され、その効能として、

・食べ物を飲み込みやすくする・味を感じやすくする・消化酵素としての働きをする(消化作用)・細菌の働きを抑制する・再石灰化を促進する(再石灰化作用)ということが挙げられます。意外と意識されていませんが、消化器官というのは、食道や胃だけでなく、口腔からスタートするのですね。なので、胃が悪くなると舌が荒れたり、口内炎が出来たりするのですね。

紛らわしいのは「痰」です。痰というのは、肺や気管支といった呼吸器から分泌された、異物をからめとって外界に捨てるための粘液のことで、飲み込むのは、いわば「ゴミを飲む」のと同じことで、身体にとっては望ましいことではありません。

先のように「痰は吐け、唾液は飲み込め」という所以はこれです。

世の中、このように「似て異なるもの」は、多々存在します。

甘〜いものでも、お砂糖でできたもの、人工甘味料で出来たもの、お砂糖でも黒砂糖や粗製糖など、自然に近いものから真っ白に精製され、大事なミネラル分を除去して甘みだけを残した白砂糖、グラニュー糖など多岐にわたります。

同じ甘〜いものでも、健康に与える影響が大きく変わってくるのです。

お塩や、お醤油などでも言えることですね。

このように、「知ってる、知らない」

「気づいている、気づいていない」で、先々の健康に大きく関わってくることは実は沢山あるのです。

逆に、生半可の知識で「〇〇は健康にいいから」と、業者やメーカーの謳い文句通りに信じ込んで、「健康食品だから大丈夫!」と取り続けていると、健康被害に遭うものも多々あります。

本当に、自分の身体にとって、自分の健康にとって大切な事、大切なものは何なのかを「見極める」ということが大事です。

そのためには、知識を吸収し、知恵を磨いて、「本当の情報」を身につけることが大事です。

昨今は、ネットやSNSで情報が山のようにいとも簡単に手に入る時代になりました。

これはこれで、便利で素晴らしいことではありますが、見る側に「考える隙を与えない」「考えさせないようにする」という、巧みな現象も引き起こしているのも弊害としてあるのですね。

会社の経理に監査が必要なのと同じで、情報も監査が必要なのです。

「智慧を得て、考えることの重要性」、これはどんな時代が来ようとも不変の真理です。

健康だけでなく、経済、政治、精神世界に関わることや、生活全般、全てに通じることでもあると思いますので、これからの時代、特に心しておくことが大切だと、私は思います。

【和歌、俳句から考える健康学4】

『かねてより  身をつつしむは文の道 病でくすすは  物のふのわざや』という歌があります。訳としては、「常日頃から病気にかからないように身体をいたわるのが学問や芸術を究める道めあり、病気になったら、病を治す術を心得ておくのも武士たる者のつとめである」という事です。

くすすは「医す」のことで、病を治すの意味、物のふは「武士・侍」を表すのですが、「もののふ」と書けば良いのを故意に「物」を使ったのは、日頃傲慢で威張っている武士が病になって取り乱す様をみていて皮肉った、とされています。

この歌の時代背景から鑑みると、現代でいえば、「もの(物)のふ」は

「政治家・経済人」に当たるかと思いますが、その辺りは今の時代にも合い通ずるものがあるかなぁ、と思います。

物事を成し遂げるため、また人生を幸福に送るためには「健康」は不可欠なものになります。

歌のとおり、健康であるためには、「病気にならないように心がける」ということも必要不可欠なものですね。

しかし、どんなに気をつけていても病気になることはありますし、不慮の事故に遭うこともあるのです。その時に、どうあるべきか、ということも実は大切なことなのです。

そう言われるとこの世的に、傷害保険や生命保険など生活全般に不安をあたえることに備えることが、真っ先に浮かぶ方も多いと思いますが、それはそれでとても大事なことです。

「備えあれば憂いなし」とも言いますように日頃の不安材料をなくすため、また、本当にいざというときのためには大切なことです。しかし、ここで改めて考えなければならないのは

「病気になった時に、そのことをどう捉えていくか」という心もちでもあると思います。

歌の中の「もののふ」のように、慌てふためいて、取り乱してその時を迎えるのか、病気というものを人生課題として人生の転機として捉えて迎えるのか、では雲泥の差が出てきてます。

いくら地位や名誉があろうとも、病ひとつで慌てふためいていては地位や名誉が泣いてしまいます。

逆に、社会的には日の目を見ずとも、病の時に何故にその病が自分にとって必要であったかを深く考察できる方は、人生の勝利者と言っても過言ではありません。

この様に、常々、自分に起きる事象、自分が引き起こす事象について原因結果、そして未来へ向けての一手を考えていくことができる、という心もちが、人生を勝利する上で必要不可欠なのではないか!?と、私は思います。その心もちは、不動心と言いかえることもできるかと思います。心を探究する姿勢。これは生涯続くテーマでもあるのではないでしょうか?

【和歌、俳句から考える健康学5】

『食はただよくやわらぎてあたたかに たらわぬ程はくすりにもます』という歌があります。

訳としては、「食物はやわらかくして、温かいうちに足らない程度にほどほどに食べれば薬を飲む以上に効果的だ。」ということです

胃を良好なまま保つことが健康長寿の秘訣でありましょう。これを保胃といいます。

梅雨時の湿気は胃腸に非常に負担をかけます。

黙っていても、胃腸の調子が悪くなる環境ですので、この歌のような生活を心がけることが大事になってきます。

今、私たちを取り囲む環境は一昔前に比べても非常にきびしいものになっています。

太陽フレアの影響なども多々ありますが、やはり、人類の発展という名目で環境破壊を繰り返してきた反動でもあるでしょう。

ひと口に「環境」と言っても、時間をかけた私達、人間の責任であることが多いとも言えましょう。

そう考えると、「環境のせい」🟰「自分たちのせい」でもあるわけですね。

このように、一見、自己において責任がないように見えることであっても、自己責任を取らされていることは多々あるのです。

そうであるならば、一つ一つの出来事、一挙一動に、もっと気を入れて、心を配って生きていかなければならないのかもしれません。

ことの始まりは、全て「人の思い」にあるのです。全ては思いから始まるのですね。ここを忘れないように日々、生きていかなければならないのではないか?!と私は思います。

今、世界中で様々な問題が跋扈してきております。

天災や、異常気象などの環境問題もそうではありますが、一発触発で世界大戦が起こりうる政治事情などもそうです。

が、これらもまた、事始めは「人の思い」であるのではないでしょうか。

そうであるならば、歌の通り、日々の「些細な心遣い」「些細な思いの修正」で保胃同様、一朝一夕では不可能であったとしても、健全な世界が実現する可能性が出てくる、と私は思います。「一人一人ができること」あらゆることに於いて、これがスタートであり、人生、いつ何時からでもスタートは可能であるのではないか?と信じております。

【和歌、俳句から考える健康学6】

『眠る足 かがめてさめば 又のべよ 一かたなるな 長きよすがら』という歌があります。

これは、「睡眠中に足をかがめて寝てしまった場合、ずっとその格好でいて目覚めたならば、足を伸ばすのが良く、片寄らない姿勢で寝るのが理想的です」という意味です。

又は、再びと股をかけていると思われますね。

睡眠中の屈伸を曲直瀬道三は、勧めていたこともありこの句を読まれたのかな、と思われます。

これは、『何事も偏りは健康を害す』ということも含まれていると思います。

『偏り』というのは、「にんべんに扁」と書きます。「扁」は元々、家の側面の扉を指したと言われていますが、これが転じて片方に傾いた様子や不均衡な状態を指すようになったと言われています。

人がバランスを崩し、偏りが出ると身体だけでなく、心も病んできます。

また、人だけでなく、世の中の社会現象においても偏りが出ると、おかしな世の中になって来るのですね。自然現象においても如り、です。

昨今の、天災を見ても、線状降水帯であったり、気温や湿度の極端な上昇、などなどこの『偏り』が悲劇を引き起こしております。

また、社会においても、少し前まではやれコロナだから自粛しろ、などと偏った社会が展開しておりました。

健康においても、もちろん如りです。

極端な仕事の仕方や、極端な生活、また食においても極端に、悪くなったり良くなったりしていると、すぐに身体を壊してしまいます。

良いことだと思っているものでもそうなのですね。昨今、増えてきているマクロビ信仰などがその良い例だと思います。

悪いことはもちろん、良いことであっても極端に走りすぎて、周りを排撃するようになると、それは偏り以外の何者でもなくなって来てしまうのですね。そうなると、やはり身も心も病んでくるのです。

以上のように、『偏り』というものを排してバランスよく物事を見る、人々から聞く、情報を得ていくことをしていかなければ、なかなか正常ではいられなくなる世の中になって来ています。「バランスよく生きる」これはお釈迦さまの言葉を借りれば「中道に入る」ということでもあります。極端を排し、中なる道を歩く、ということです。

この考え方は、今の世の中、とても大切なことだと、私は考えています。

何につけても極端になる、極論に走りがちな今の世の中…。

少し見極めて、中道に入り、バランスよく過ごすことが大切なのではないか、と私は思います。

【和歌、俳句から考える健康学7】

『酒とても 酔わぬ程にて愁いさり 心をのべたし気にかようなり』という歌があります。

これは、「酒はほろ酔い加減の程度でたしなめば、不安や悩みを消し去って、気分転換になり身体によいものである。」という訳です。

「暑い夏の日に、冷たいビールが最高!」という方も多くいらっしゃると思います。

「酒は百薬の長」と言われています。

気を巡らせる酒はストレスにいいと言えるでしょう。

ただ、ストレス解消の目的で飲むよりは、楽しんで飲む方が心身への影響は良いと思います。

ただ、飲みすぎず適量を守ることがポイントですが、楽しく飲むとつい、行き過ぎることが多いので注意が必要です。

また、精神統一する時には不向きです。アルコールは少しでも入ると麻痺的な作用が働きますので、瞑想前や、精神統一の際には不向きなので注意して下さいね。

『飲んでも飲まれるな』ともよく言いますが、まさにその通りだと思います。

全ては、ご自身の判断如何、とも言えますのでお酒を「百薬の長」とするか、「百害の長」とするか、は自分自身にかかってもいることは忘れないでいただきたい、と思います。

人生においても如り、です。人は、人生の幸不幸を兎角“人のせい、環境のせい“にしたがるものです。「あの時、時代が〇〇だったら…」「あの人が〇〇って言わなかったら…」「あの時家族が〇〇だったから仕方がなかった…」などなど、言い訳は山ほど出てきます。

しかし、どんな環境においても、どんなシチュエーションにおいても、自分の行動、考え方、選択肢を決めるのは自分であり、決めたのは自分であるのですね。

それを忘れないでいただきたいと思います。

これは、所謂、自己責任というものではありますが、とても厳しいという反面、とても有り難いことでもある、と私は思っています。

自らの人生の幸不幸を、自分の責任で決めることができる、というのはいわば特権でもあるのではないか!?と思うからです。

全員が全員、幸福になれるという機会を与えられている、ということでもあるのですね。

歌のように、お酒の飲み方ひとつとっても自分で決められるのです。

幸福になるか否かも、自分で決められる、ということです。

何と素晴らしいことでしょう!そう考えると、「自己責任」という言葉は、人を裁くときに使うものではなく、人を責める時に使うものでもなく、各人に与えられたこの素晴らしい特権は、人が幸福になるために使うものではないか!?と、私は考えています。

【和歌、俳句から考える健康学8】

『医(くす)しせめ 効(ききめ)をいそぐ 身の病 作り出(いだ)せる 我ハうらミず』

という歌があります。これは、「患者は医者を責めて、早く治してくれと急かすが、その原因を作った自分のことは棚に上げている例が多いものだ」という訳です。

俗に『怨他(えんた)』というやつですね。他人を怨むことで、筋違いの怨みなわけです。

「作り出せる」は、自分が原因の病のことで、「我はうらミず」は、自分のことは怨まない、ということです。自業自得を教えている句です。これは、日常茶飯時のこと、と言っても過言なではないでしょう。医者のせいにせずとも、「家族が◯◯だったから…」「会社の人たちが◯◯だから…」などなど、「誰かのせいで私はこうなった」と言っている人が病気の方々ではほとんどだ、と言っても過言ではないでしょう。また、人のせいにしてなくても「何で私はこうなってしまったんでしょうね…??」と常々聞いてくる方々もおられます。

これは、人のせいにしていないように見えますが、実は、「(何で私はこうなってしまったんでしょうね…)私は悪くないのに」という隠語が含まれているのですね。

以上のように、自分が病になった時、まずは自分自身を振り返り、自分自身に原因を求める方、自分自身を探求する方というのはほとんどいないのが現状です。

これは病気に限ったことではないとも言えます。

時は、自民の総裁選で賑わっておりますが、「政治が悪い、政治家が悪いから自分たちの生活が豊かにならない、幸せにならないんだ」いう方も、かなりの数おられますよね。

これも実は同じことなのですね。政治家を選んでいるのは、他ならぬご自分なのですね。

自分の一票ではどうにもならない、とおっしゃっるがたも多いでしょうが、本気でそこに原因を求めるならもっと、意欲を持って政治に参加するべきなのです。

そうでないのなら、安易に全ての責任を押し付けるのはいかがなものか!?と思ってしまいます。

と、このように、病をはじめとする自分の不幸は、他人のせい、という方々が多すぎるのではないか!?と私は思っています。

そういう方に限って、幸福になったら、病気が治ったら、豊かになったら、「それは、自分が頑張ったからだ!」というようにすぐ考えるのですね。

たくさんの協力者や、救いの手、その方を思う周りの方々の愛を無視して、「私、すごいでしょ!」になってしまうのです。これは、人として悲しいことです。

まずは、自分自身の襟を正し、病や不幸の原因を自分自身の中に見出していくことが大切なのですね。

『何かつまづいたら自分のせい、何か上手くいったら他人のおかげ』

このくらいで考えることが、幸不幸を考える時の中道なのだと私は考えています。

私も以前から述べておりますし、最近あちらこちらでよく耳にすることが多い『感謝が大切』というのはこの中道の基準があってこそ、になります。

まずは、自分自身の中に原因を見い出す、またはそれを探求する姿勢が大切なのではないか?!と私は常々考えております

【和歌、俳句から考える健康学9】

『ほろびしハ 民を貪り めぐミなき  その身をとがと かへり見るべし』という句があります。これは、「戦国の世で滅亡した領主は、善政を敷かなかったためで、誰かを恨んでも仕方がない。自業自得と反省すべきだ。」という意味合いがあります。

この1か月、日本も政治が入り乱れ入り乱れしました。結局、少数与党で、政治運営は困難を生ずることになりました。まさに、善政を敷かなかったため、と言えるでしょう。

しかし、野党も野党です。しっかりと監視する立場を全うできずにいた、また、それはまだ現在も続いています。

一部、政策実現を条件に与党協力をしているところもありますが結局は大局を見れているのかどうか…?!という感が否めません。国を動かすことは、とても大変なことです。

更に昨今は、諸外国の動向も考えながら動かなければならないですから本当に大変なことだとは思います。

しかし、だからこそ、もっと真剣に、真摯に、自利を排して国を動かすことを考えなければならない、と私は思います。

もっともっと、経営感覚をもって国を立て直す必要があるのではないでしょうか?

もっと具体的なかつ、ゆるぎない「国の繫栄という指針」をもって、運かしていくべきではないか?!と思います。

企業や民に求めることを、官は行っていないような気がしてなりません。

「ほろびしハ」とならぬよう、心していただきたいと願うばかりです。

健康においても如り、であります。健康を害す、病気になる、というのは政治でいえば善政を敷いていなかった結果、ということです。

日頃の自らの生活習慣や考え方、常日頃の思い、というものが積み重なった結果であり、誰を恨むものでもなく自業自得と反省するしかないのですね。

心というのは、右往左往します。欲に踊らされ、善悪のはざまに立ち、日々一刻一刻、選択を迫られることでしょう。

それを回避するには、空を見上げて微動だにしない北極星を目指すがごとく、『心の指針』を持つことが大切になります。

さすれば、日々、揺れに揺れたとしても心の北極星に向かって仕切り直すのは、そう難しくはないのではないか?!と私は考えています。

健全な心身を目指して、おのおの心の指針をもって過ごしていくこと、これが今、大切なことではないか、と私は思います。

【和歌、俳句から考える健康学10】

『とむ事も 過ぎれハをのが あたとなり 食にも飽くれハ 齢ミじかし』という句があります。これは、「冨貴金欲も度が過ぎれば禍を招く。飽食美食も同じで、短命となる。」という意味合いです。 「過ぎたることを戒めている」

ということです。をのが、は己が、あた、は仇のことです。飽食を慎み、ほどほどの食のすすめ、の意があります。

腹八分目に医者いらず、とよく言ったもので、食べ過ぎや欲にまかせた食生活は慎まなければならない、という事です。「冨貴金欲も度を過ぎると禍を招く」

これは、昨今の政治事情にピッタリではないかと私は思います。

まぁ、禍、というより当たり前の仕打ちではあるのですが、当人たちにとっては禍でしょう。

ただ、この「度を過ぎると」がミソかなぁと私は思います。

もし、献身一手、身も心も財も投げ打って東西奔走しているような政治家ばかりであったなら今回の問題もさほど目くじらを立てられなかったのではないでしょうか?

(誤解のないようカッコ書きしますが、決して犯罪行為を肯定しているのではありません)

結局、「政治家は金儲け」「政治家は悪いことばかりしている」といったことが言われる、ということは、国民が政治家に対して何も信用していない、期待していないことの裏返しでもあると思うのです。

ただ単に、それを表に出すキッカケだったに過ぎなかったのではないでしょうか?

その証拠に野党議員は称賛されているのか?また裏金問題に名が上がってこなかった人が称賛されているのか?を見てみると、いずれも『否』ではないでしょうか?

このことを、全議員がちゃんと理解しておいて頂きたい、と私は思います。

そして、何をマスコミから叩かれようが「嫌、あの人がそんな事をするはずがない」と多くの国民から声が上がるような人が出現してもらいたいものだ、と私は思っています。

それくらいの信用があってこそ、本来の政治家、と言えるのではないでしょうか?

健康においても如り、であります。食のことだけに限らず、過ぎたるものは身を滅ぼすものです。薬でもそうですね。飲み過ぎたら身体を壊すことになります。

運動でも、仕事でも、全ての当たり前の、生きて行く上で必要不可欠の日常生活において当てはまることであるのです。「あれが体に悪い、これが体に悪い」「あれが体にいい、これが体にいい」という前に、自らの心の内に過ぎたる欲はないか否か、この一点だけを点検する方が先ではないでしょうか?

また、この一点だけでも、日々点検するだけでも健康というのは順調に、維持していけるのかもしれません。「真理は簡単なことの中にある」とはよく言いますが、皆様は、いかがお考えでしょうか?

【和歌、俳句から考える健康学11】

『汗おしミ くだるもいとへ をのが身に それや内外(うちと)の あるじならまし』

という歌があります。

これは、「汗も下痢もおろそかにせず、大切なものと考えるのがよい。それが、自分の身体の内側と外側から病気を教えてくれる中心になるのだから」という意味です。

自らの内部外部における養生を考え、病の本質を知ることの大切さを現している歌ですね。

これは身体のことのみならず、さまざまな事象に当てはまるとも言えましょう。

昨今の政界を見ても、政活費や企業献金などのお金の問題、政治家それぞれの資質の問題など、まさに「汗おしミ…」という感じです。

内部外部の問題が次々と露呈して、圧倒的与党であった自民の大敗、野党の失態など、結局、政界に長く巣食う悪しき側面が溢れ出てきて、現在の政治家の皆様や政界の動かし方、在り方、というものの本質を教えてくれているかのような気がいたします。

政治家は、私たち有権者が自分たちの代わりに政(まつりごと)を託す意味で選ばれた方々ですよね。公利公益の仕事をされるために選ばれた方のはずです。そして、その方々が集まったものが政界であるのです。

全ては、この国とこの国に住む民のためになされるはずのものが、いつの間にやら、私利私欲の権化と化してしまっているのです。 

これはまさに、人の身体なら「病気」の状態です。このことに、もっと思いを向けて、本来の姿に戻って頂きたい、と切に思っております。健康においても如り、です。

やれ、どこそこが痛い、だとか、どこそこの調子が悪い、だとか言って、

「よい病院はないか?」「よいお薬はないか?」「よい健康食品はないか?」などと、他人任せ、モノ任せにしがちな人は多数おられますが、身体の内外から病気の中心(本質)を考えて日々取り組む、という方は皆無に近くなっています。

物事には、全て『原因と結果』があるのです。そして病の原因は、必ず、自分自身の思いや行動にあるのですね。この単純明瞭な事を忘れてはならない。そして、その事から「目を背けて」はならない、と私は思っています。

他人任せ、モノ任せにする前に、まず、ここの点検が必要なのです。

さすれば、無駄に時間やお金を費やさずに、病の本質を捉え、内外の養生を見出すことができるのではないかと考えています。

和歌、俳句から考える健康学12】『民やすき 国ハにぎハひ 気をおしむ 人ハ素(すなお)に身をたもつ也』という歌があります。

これは、「国が乱れていては、人心は安らかになれない、国の治世と人の養生は大いに関連しているのだ」という意味です。

国民が安心できれば、気をおしむ、おしむは慈しむ、愛でるの意で、心の平穏のことを表しており、素はいつものように、ということであるので、「心穏やかにいつものように過ごせる」ということになります。

昨今の日本や、日本を取り巻く近隣諸国は、実に国家泰平とはかけ離れた状態にあると言えます。先の韓国問題、以前からの中国に纏わる台湾との問題や、経済問題など、真上のロシアに関してもいつまでも戦争が絶えない状態になっております。

近隣諸国が、安定していなくても、自国がしっかりと芯のある姿勢をとっていれば良いのですが、国内もまともな政治が行われているようには到底思えない日々が続いております。

『民やすき…』には程遠いと言っても過言ではないでしょう。

それに加えて、毎年毎年、想定外の天災、天候不順も相まって、本当にかつて無いほど、不安定な国、日本になっております。

ここで期待されるのは「救世主的存在の登場!」と思われますが、現実、ウルトラマンは現れません。さすればどうするのか!?それは、国民、一人びとりが、この国の危機を自覚し、「他力本願」ではなく自力本願、つまり、日々の小さな努力の積み重ねを成していくしかないのでは!?と、私は思っています。

仏教の中に、自灯明のたとえ、というのがありますが、まさに、小さなロウソクの火でも、たくさん集まれば、かなりの明るい光となるのですね。この考えが必要なのではないでしょうか?しかし、そのためには、まず、一人びとりが、「暗闇」というのを自覚しなければなりません。暗闇を集合体の光で照らす必要がある、という自覚が大切なのですね。

必要を感じて初めて人は、アクションを起こせるものなのですね。

健康においても如り、であります。「健康にならなければ!」という現在の病的な状況を自分で自覚しなければ、何もアクションを起こそうと思わないですよね。まず、自分の事をしっかりと見つめて、自覚して、次なる手を考えて、日々の些細な生活を改善していく。これしかないのです。

ある日突然、一気に悪くなった身体を、ドクターXのような天才医が現れてサクッと治してくれる、ということは、皆無なのです。

国の出来事、自分の身体の出来事に対して、ブレることなく、客観的に物事を捉えて、自覚して、着実な一手を打つ他に、国家泰平、健康維持、安心立命ということは無い、と悟ることが大切だと、私は思います。一年の初めに、まず、一年の計を立てるにあたり、現状を素直に受け入れて、それに対する確実な対策を練り、そして1年間、休むことなく日々、取り組んでいくしかない、と私は考えています。

【和歌、俳句から考える健康学13】

『なへて人 胸の思ひハ 乱碁の 死するをこうに たててやむべし』という歌があります。

これは、「耐え難い万難の苦しみも、死を覚悟すれば立ち直ることができるものである」という意味合いです。

少し解釈をすると、“なへて“は、おしなべて人は、ということや萎えることを掛けたり、“乱碁“は、白黒の碁石が乱れ置かれている様子と、指先で碁石を拾いとる遊戯とを掛けたり、また、“こう“は、葬儀の香と囲碁の詰みの一手である劫を掛けており、自殺を踏み止まって頑張れという、複雑な掛け合わせの応援歌になっており、大変味わい深い歌でもあります。

さて、最近世の中を賑わしております某大手TV局の問題ではありますが、まさに“耐え難い万難の苦しみ“でありましょう。

が、しかし当事者がそうであるということは、それまでの間、社員を含め様々な人達に“耐え難い万難の苦しみ”を与え続けてきた、ということでもあるでしょう。

自業自得と言ってしまえばそれまでです。

報道の自由を自分達にとって都合の良い様に拡大解釈し、それをあたかも正義の如く国民を騙して、私利私欲のためにやってきた報いがやって来たとも言えるでしょうね。

視聴率至上主義、この姿勢が結局、大きな歪みを生じているにも関わらず、それに気が付かず、今までやって来てしまった結果な訳ですね。

ここで、死してしまうのは簡単ですが、今こそ、報道の原点に立ち返り、娯楽の原点に立ち返り、本当に国益になる番組づくり、それはもちろん、その課程も含むものですが、それをやっていかねばならないのではないか、と私は思います。

かつて、街頭テレビから始まった映像庶民文化。

街角でテレビを見て本当に国民が、この国が活気づいた実績は持っているのです。

そこを忘れずに、今一度、原点に返って取り組み直していただきたい、と私は思います。

皆さんはいかがでしょう?健康においても如り、であります。

どう言い訳しようとも、やって来たことが、そのままブーメランで返ってきているのが今の身体の現状なのです。

その身体が病魔に侵され、病気がちで弱々しくなっているなら、それまでの生活、心根、信条がどこかが病んでいた、ということなのですね。

何が歪みの原因で、何がキッカケで歪みはじめて、何がそれを助長したのか?!

これを点検する必要があるのです。必ず、原因と条件はあるのです。そこを、正していく他に残念ながら、病という結果は変えていくことは出来ないのです。

意外と「自分が本当に正しい」と思い込んでいる中に、それが潜んでいることは多々あります。

どうか、病だと嘆く前に、そういう観点でもう一度、自分自身を見直してみて頂きたい、と思います。

【和歌、俳句から考える健康学14】

『わきまへぬ 老の長風呂 汗たりて 風入ぬれハ 目口ひきつる』という歌があります。

これは、「年寄りの長風呂で、汗が出たからといって、急に冷風にあたれば中気(脳梗塞)になりますよ。」という意味です。

暖まって汗が出たからといって、冷風にあたれば、風気、邪風にやられるという、戒めでもあります。

最近、石破総理とトランプ大統領の会談がありましたが、何となくこの歌を連想させられました。

一生懸命に、気に入ってもらおうとしている模様がありありと、というか見え見えな石破総理の姿が、一生懸命、暖まろうとお風呂に浸かっている老人の姿に思え、記者会見前の、ほっとした様子の石破さんが、汗がタラタラ出て、「おー、暖まった〜」と意気揚々とお風呂から出て来る老人に思えてなりませんでした。

さぁ、ここでほっと一息していて良いものか、否か…。政治家としては圧倒的にトランプ氏の方が上のまた上。大統領就任後、矢継ぎ早に様々な取り決めをスピーディーにこなして、日本では報道されていないような大事な案件も実行しています。

ホッと一息ついて安心していると石破さんも、風気に当たってしまう様な気がしてなりません。

キチッと、自国を守り、自国を繁栄に導く姿勢で襟を正さなければ、あっという間にこの国は崩壊してしまうのではないか!?と危惧してならない今日この頃です。

皆さんはいかがお考えでしょうか?健康においても如り、です。

喉元過ぎれば熱さ忘れるとも、よく言いますが、健康を害し、努力精進して健康を再び手に入れた時こそ、気を引き締めなければなりません。

「あ〜、良かった」だけでは、終わらないのが人生です。人生の問題集は、必ず繰り返しやって来ます。その時に、どう答えを導き出すかが大切なのですね。 

仏教でも「悟後の修行」というのがあります。「悟った」となってもそれを維持していくことが大切であり、むしろそれこそが修行であるのではないでしょうか?

国づくりも、健康づくりも、終わりはありません。

「人生のお勉強には終わりはないのだ」というのが真実なのではないか、と私は思います。

【和歌、俳句から考える健康学15】

『性(さが)をわれ 常ニすなほに ためなをし よき志(し)たふや 養生のもと』

という歌があります。

これは、「自分の性格や生活がただしくなかったなら、曲がったところを直して、健全な精神を獲得するのは養生の基本だ。」ということです。

「志たふや」というのは、「慕うや」のことで、道に適った生活に親しむことを意味しています。

さて、先般、「高額医療費の自己負担額の増加」が参院選を鑑みてか見送りになりました。

「相変わらずだな」感が否めませんね。

“参院選を鑑みて、国民の理解が得られないことは見送る“

尤もらしく聞こえますが、要は票が逸れるとマズい、ということでしょう。

政党ありきの政策か、政策ありきの政党か、まったくを持って逆転しております。

そんなことで見送るくらいなら、そんな政策作らなければ良い、と思うのは私だけでしょうか?

参院選後に、どうせ同じことが提案され可決していくなら、とっととやるべきでしょう。

そんなに医療費が貧パクしているなら当然のことだと思います。

私は、この政策を支持しているわけではありません。

どうせやらなければいけない事がわかっているなら、人気云々など気にせずにやるのが普通でしょ!?と申しているわけです。

そんな事より、抜本的に医療費の削減は、他のところにフォーカスした方が、恐ろしく節約できるとは思いますが…。

いつまで経っても、「自分達あっての日本の国」というスタンスが変えられないようなら、この歌のように“養生の基本”が出来ていないことになりますので、国は滅びへの道を歩み続けることとなるでしょう。悲しいことです。

しっかりと、養生して病んだ国を建て直す、国主が出現していただきたいものですね。

皆様は、いかがお感じになられるでしょうか?健康においても如り、であります。

自分の嫌な面、自分の間違った面、目を背けたい面、というものに真っ向から対峙することは、容易いことではありません。勇気も要れば、気力も要ります。はたまた、問題点をまず探し出す、という動機も必要です。しかし、病んで苦しんで、ようやく気づいた時には、勇気も気力も底を尽いていることが殆どです。

そこから立ち上がって…というのには、相当なエネルギーが必要になってきます。その状態は、もうすでに治療の時期になっています。

であるならば、養生のうちに、そこをやっておく必要がある、ということなのですね。

大変なこと、やりたくないことではありますが、「行い難きを行ずる」ことは、大きなご褒美がやってくるモノです。養生の時期に、この養生の基本をやっておくこと。

これが、本当の予防医学と言えるでしょう。養生とはそのようなものではないのでしょうか?

そして、このことこそが、最大の医療費の削減に繋がっていく事になると、私は思います。

【和歌、俳句から考える健康学16】

『禍ハ したふ宝に ちなミ来てさて玉しひハ 色におとろふ』という歌があります。

これは、「とにかく禍は、金欲と色欲が原因で生じるものだ。心しなければならない」という意味です。

「したふ宝」は宝飾や金品をしたう、の意で、「玉しひハ色におとろふ」は、魂=心は色欲に溺れて自制心を失うを意味しています。

災因から身を遠ざけるのも大切な養生、ということでもあります。

この歌にあるように、戦国の世であっても現代であっても、災いの元は変わっていないのだなぁ、とつくづく思います。

昨今の政界を見るにつけても、金欲、色欲に走り、転落していく人が後を立ちません。

中には、それをテコに、更に這い上がる方もおられますが、率としては低いですよね。

そのくらいのバイタリティがあった方が、政治を動かすには適しているのかもしれませんが、ベクトルを間違うとただの傲慢政治家になってしまいますが…。

そのような方には、“お国のために”“国民のために“というベクトルを忘れないでいただけたら、と思います。今の政界では、これに値する人がいるかどうか…ですけれど。

健康においても如り、であります。適度な欲は、健康を増進させます。

というか、それがないと逆に健康を増進させる原動力がなくなると言っても過言ではありません。肉体がある以上、それは避けては通れない問題であるのですね。

金品欲があるからこそ、経済が発展し、色欲があるからこそ、子孫繁栄していくわけですから。ただし、歌にもあるように、欲が行きすぎてコントロール出来なくなったり、色欲も手当たり次第何でもかんでも、となると災となってきます。

病気や体調不良も、その災いのひとつになりますよね。

金品欲が行きすぎて、精神疾患を患う場合も多々ありますし、色欲が行き過ぎて、家庭崩壊や感染症罹患、癌の誘発などが起こることも多々あります。

これを、防いでいくには『足ことを知る』ということです。

そして自分のキャパが、自分の人生が如何なるものかを、常々、考えておくことです。

「足ことを知る」というのは言い換えると『己を知る』、という事にもなるでしょう。

巷のスピ系や自己啓発系に踊らされる事なく、一歩一歩、地に足をつけて歩んで行くことも大切です。それこそが、最大の養生になることだと、私は思います。

【和歌、俳句から考える健康学17】

『憤り 口になけれハ あたもなし 胸にあらねハ 苦しミもこず』という歌があります。

これは、「腹がたっても、悪口を言わなければ恨まれることもないし、胸に留めずに忘れてしまえば苦しまずに済む」ということです。

短気は損気、口は災いのもと、ということを教えてくれている、とも考えられます。

昨今のSNS事情は、まさにこれが当てはまるケースが多すぎる帰来があるのではないでしょうか?

投稿や、動画のアップなど炎上までいかなくとも、批判などのコメントがくれば、すぐカッとなり、喧嘩越しで反論して、それを長々とやり続ける。

また、人の悪口と思わしき事象を脚色をつけてアップして、人権損害紛いのことをする。

そんなやりとりをしていて疲弊して、心が病んだり、身体が病んだりしている方々を多く見かけます。

大多数が、「自己承認欲求」が行きすぎて起こっていることと、傍目からは感じておりますが、まずは「自分で自分を褒めてあげる」ことから、始めたほうがいいのではないか!?と、私は思います。

事実を事実として伝えるのが、報道の基本。SNSやYouTubeなども、今や立派な報道機関だと思っています。嘘偽りで固めていては、結局ボロが出て、苦しむのは自分になります。

責任の取れないことは、極力、なさらないほうがいいのではないでしょうか?!

法規制が入る前に、まず、良心を取り戻すことが大切なのではないでしょうか?

私は常々、そう考えています。健康においても如り、であります。「〇〇だけで、一回の施術で改善!」「長年の辛い痛みが、これだけを飲んでみたら◯日で消えた!」「これは、すごい食品です!飲むだけで健康になれました!」などなど、素晴らしい文言がネット上では氾濫しています。YouTubeなどでも、「〇〇改善運動」とか「〇〇改善ストレッチ」など、何千という動画がアップされています。

これらで健康に弊害が出る事や、全く改善が見られないなどの怒りのコメントがよく散見されますが、これらに関しては、情報を出す側もそうですが、受ける側も問題があるのではないか、と考えています。

「苦しい時の神頼み」的に、苦しい人ほど飛びつく傾向にありますが、そんなに苦しくて仕方ない状態が、最も簡単に治るはずがありません。

これは「治る」の定義の問題もありますが、急に楽になったりはしないのです。

稀に、そういうこともありますが、そういう時は、人生が変わるほど『大きな発見』や、『大きな気づき』があった時ぐらいです。

そうでない場合は、地道に身体が少しづつ「いい具合」に変化して改善していくものです。

その変化の中で、病気をする事で気づかなければならない、小さな発見がたくさん出てくるのですね。そもそも、『なぜ、自分がそうなってしまっているのか』の方に、もっと注視していただきたいと思います。そこがわからなければ、病気になった意味がない。

また、そこがわからなければ、最適な病気の解決策など見えてくることはないのです。

これは、当たり前の事ですが、とても大切な事です。

いついかなる時も、「当たり前のことを当たり前にこなしていく」この姿勢が大切だと私は思います。そして、そうすることが、自分の人生に責任を取る、ということにもなるのではないか?と、私は考えています。そのためにも、歌にあるように、『執着のないサラサラとした心根』が大切になると思います。

それがまた、『良心を体現する』ということにも繋がっていくと私は考えております。

【和歌、俳句から考える健康学18】

『利にふけり 誉れをのぞむ 人ハ只 我から身をも 心をもせむ』という歌があります。

これは、「利益や名誉ばかり追っている人は、心身ともに余裕がなくなり、いつもセカセカしていて、養生にかなっているとは言えない」という意です。

“せむ”には、“攻”と“責”の両方の意味を掛け合わせ、自業自得となることを示していると思われます。最近の日本の首相はどうでしょう?

一議員時代は、自家の自民の揚げ足を取ることで人気を得ていたこともあり、いざ、逆の立場になったなら、声を小さくし、実行せずに議論ばかりを重ねて、結局何もしない、を繰り返す姿になっております。 

歌のように、自らの利益や名誉を保つ唯一の方法なのかもしれませんが、攻めた分の責任はしっかり取ってもらいたいものです。 

あれだけ自民の汚点を指摘し、意気揚々に一匹狼的姿を見せていたのですから、もっと元気に、一議員時代に滔々と述べていた国民のための政治を実現させてもらいたいものですね。(本当に実力がおありなら、の話ですが…)健康においても如り、であります。

あれだけ「ワクチンを打たないものは国民に在らず」的にまで、打って当然で、打つのが国民の義務のようにまで仕立て上げたコロナのワクチンでしたが、今となってその弊害がドンドン出て来ていますよね。

死亡例はもちろんのこと、ヘルペスの罹患率の上昇や、癌の進行の促進など、免疫系の異常が顕になっております。

その因果関係を訴える人は、ごくごく僅か…。あと、素知らぬ顔です。攻めの責任は、一体誰が取るのでしょうか??

単に、大号令に従った国民の愚かさだけで済まされる問題ではないのではないか!?と私は思っています。

この問題は、人だけでなく、国の養生になっていません。衰退国家の道を、粛々と進んでいるように感じてなりません。

人も、その集合体である国も、本腰を入れて「養生」を考えていく他、その責を取る方法はない、と私は思います。

個においても公においても、「攻と責」は逃れられない問題なのではないか!?と思います。


【和歌、俳句から考える健康学19】

『医(くす)しをハ 兼ねて手がらを わきまへて それを親しミ 脈も見すべし』という歌があります。これは、「日頃から医師の力を知っておくべきだ。そうしておけば、病気にかかったとき、安心して診察を受けられる。」という意です。

“かねて”は、予て(日常)と兼ねて(二つの事柄を兼ねる)を掛けた言葉で、腕前と実績を意味しています。

“親しミ“は、自分のものとして掌握しておけ、という戒めでもあります。と、同時に傲慢に振る舞う医者にも警鐘を鳴らしている一句でもあります。

さて、昨今の国内事情も、まさにこの通り、の状況といっても過言ではありません。

“令和のコメ騒動”と題され色々と奔走しているかのように、見えていますが、他国へ日本の優れた農業を売り渡すかのようにさえ、感じられます。

救世主のように現れた、某大臣も、やっていることは何てことない、前大臣でも充分に対応できるような内容で、花を持たせてもらってる感が否めません。

「自民党をぶっ壊す」と豪語して、結局、撹乱させるだけさせて、その責任も取らず、とっととどっかへ行ってしまったお父様のお子様ですから、致し方ないことなのかもしれませんが…。歌のように「医師の力」のように「政治家の力」をしっかり知っておかなくては国が滅亡に向かっている時に、何の対処も出来なくなってしまうでしょう。もう、既に時遅し、なのかもしれませんが…。

本当に、昨今の政界の力量の無さには、ほとほと呆れてしまうのは私だけでしょうか?!

皆様はいかがお考えでしょう?健康においても如り、であります。

自分が病んだ時に、本当に信頼できる医師や治療家を知っておく、見極めておく、ということは大切なことです。

SNSなどでの派手なパフォーマンスや、マスコミ露出、YouTuberまがいの方々などなど、目につく方々は多数おられます。

その中にも本当に信頼できる実力をお持ちの方も当然おられるとは思いますが、肩書きや、自称〇〇などという、煌びやかな形容詞にだけは翻弄されない皆様でいて頂きたいと、切に願うばかりです。

本物の簡単な見極め方は、その枝葉を見ることも大切です。

スタッフさんや、部下の方々、お弟子さんたち、そして、患者の皆さんを見てみることです。

そこに案外、答えがハッキリ出ていることが多いと思います。

とかく、人は目につくものに惹かれるものですが、下支えの方々、そしてそこを卒業した方々の中に真実が潜んでいるものです。先の政治家の例えのようなモノです。

これも一つの見方として、ご参考にしていただければ幸いです。

「本物を見極める目」を持つには、基本的には、やはり智慧を磨くことが大切になります。

「文殊の智慧」と、昔からよく言われますが、未来を切り開くための矛となり盾となることは確実であるのですね。

矛と盾が、矛盾という結果にならないよう、雑多な情報に翻弄される事の無いように、しっかりと学んでいきたいものだと、私は考えています。

【和歌、俳句から考える健康学20】

『いねをきも 起居見聞(おきいみきき)て 行事(おこない)も皆久しくて 病とぞ成(なる)』という歌があります。

これは、「行往坐臥、起居動作はすべてテキパキとこなせ。のんべんだらりと生活をしていると病になるぞ」という戒めの意です。

「いねをきも」は、「寝、起きも」の事で、「久しくて」は、ダラダラ締まりのない行動の事です。

東洋医学では、久行、久臥、久坐、久聴、久視を戒め、目的のあるメリハリのきいた日常を送ることが養生の道、とされています。

猛暑、酷暑で、ダラダラとなりやすいのはヤマヤマですが、気を入れ直し、メリハリのある生活を心掛けるのは大切なことかと、改めて感じる今日この頃ですね。

そして、昨今の政界にも、この歌を捧げたい気持ちで一杯なのは、私だけでしょうか?!

自分達の仕出かした愚行の数々を何ら責任をとるわけでもなく、先の参院選でも、しっかりと灸を据えられているにも関わらず、未だ、グダグダ、ダラダラやっている方々が大勢おられますよね。

かと言って、野党の皆様方々も、本当に俯瞰的に政治を見て取れる方は、一体、どれほど居られるのか?!といった模様です。

求人サイトに「やる気のある政治家募集!」と出して応募してもらった方がマシではないか??と思ってしまう今日この頃です。

久しく堕政治を行なってきた、ツケが一気に溢れ出ているといっても良いでしょう。政界の病は、難病中の難病になってしまっている感が、私には致します。

しかし、政治家だけでなく、その利権にハイエナのように集まる周辺の方々にも同様に、その責任はあるのではないかとも思います。

政は、本来、祭り事。それを行じる方々は、神から与えられた土地と民を、神ならばどう営まれるのかを考え、人々を神の元へと導く、導き役であったはずです。

今一度、この原点に立ち戻り、与えられた生命、与えられた国土、与えられた民、という観点からとり行って頂きたいものだ、と私は切に願っております。

「何度でもやりなおせる」これも、真実だと思います。

感謝の心から、政を行じる方々にこの難病を克服していってもらいたいものだなぁ、と私は思います。皆様は、いかがお考えでしょうか?健康においても如り、であります。

どんな苦難困難の病にあったとしても、思い一つで、与えられた生命、という感謝の心さえあれば、人は何度でもやりなおせるのです。

たとえ、肉体が付いてこなかったとしても、純粋な、感謝の心は永遠です。

これは、先の政界同様、かなり取り組むのは難しいことです。

「有り」「難き」ことではありますが、この「有り難き」ことを行じていくことが、本来の純な感謝の心を養っていく鍵にもなるのではないか!?と私は思って信じています。

人の持つ可能性は無限大である事を信じて、そして、それを体現していくために、日々、頑張っていこう、と私は思っています。皆様はいかが、お考えでしょうか?

【和歌、俳句から考える健康学21】

『我形(わがからだ) 内の血と気ハ 仏性の 旅屋ぞかこへ あらしよこすな』  という歌があります。

こらは、「わが身は、血気ともにおだやかで、健やかである。旅館が客を大事に扱うように、自ら節制して、病を寄せ付けないようにするのが良いですよ。」という意味であります。

東洋医学には未病という考え方があります。未だ発病していない病のことを指し、体質や男女差、生活習慣、生活環境などで、いつ病気となるか分からない、このままいくといずれ病となるであろう状態を言います。

「上工(最高の医者)は未病を治す」とも言って未だ発病していない病を完治し、発病前に治す医者を最も優れた医者、としています。

このように、身体の健康管理を説いた歌であり、心身ともに穏やかに過ごすという、最も健康にとって大切な事と言えます。

最近の世の中は、この歌とは真逆の世の中が展開しているような気が致します。

政界においても、溢れんばかりの膿みの放出が続いていますよね。

与党の裏金問題しかり、総理の器においてもしかり、また肝心な関税交渉においても、ずさんな取り決めが長く行われていた為、今回も履行後に慌てふためいた結果になっています。

最近の犯罪においても、死に至るまでのイジメや、教職員、警察官などいわゆる“聖職”と言われていた方々の何とも恥堕落な犯行の数々…。

身体で言えば、“病が発見された時点で手遅れ”の様な事態が散見しております。

これも、一つに「心の乱れ」が大きいのでしょう。なんでもスマホひとつで解決できる時代。

逆に時間の密度は濃く濃くなっているために、必要以上に人々はストレスを知らないうちに溜め込んでしまっている様に感じます。

「時間を作るための便利さ」が、逆に「時間に支配される便利さ」になっている様な気がしてなりません。

ここでひとつ、ゆったりと過ごす時間を作るために、便利さを追求する方向に転換しなければならない気がするのは、私だけでしょうか?!皆様はいかが、お考えでしょうか?

健康においても如り、であります。以前なら、不調があったら「家庭の医学」なり、健康雑誌などを読み漁らなければ、情報は得られませんでしたが、今となっては「Hey Siri 、◯◯について教えて!」で、山の様な情報が手に入ります。

先ほどの未病治に結びつけば良いのですが、ほとんどの場合、「あ、私の症状にこの病気が該当する!私は◯◯病だ!」と勝手に勘違いをして、悪いことに確信して、すっかりその病気になってしまう方々で溢れています。

そして、その情報通りに具合が悪くなっていってしまいます。

自分で病気を創り出してしまうのですね。

それならば、まだ以前ように、本や雑誌を読み漁って、「よく分からんから、病院行こう」と思う方がずっとマシです。

「思い込んだら…」で、自分で勝手に確定診断を下した人は、その診断が下るまで、「そうじゃないよ。大丈夫ですよ」という人を排除していきます。

恐ろしいことですね。

こちらも、『健康になるために便利さを利用する』という心持ちに変化していかなければならないぞ、と、私は思います。皆様はいかがお考えでしょうか??


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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