日本人とトンボの深すぎる関係

https://mag.japaaan.com/archives/107363 【こんなに密接だったとは!神話時代からあった日本人とトンボの深すぎる関係】より

日本人に馴染み深い昆虫、トンボ。童謡の影響もあり、秋のイメージで思い浮かべるくらいトンボは季節の昆虫であるかと思います。

現代でも密接な関わりのあるトンボですが、実は古代からトンボの存在は認知されていました。

ということで今回は日本人とトンボの関わりを古くから紐解いてみたいと思います。

神話時代からトンボとの関わりが!

先述した通りトンボは古代から馴染みがあり、それは神武天皇の頃からありました。

『神武天皇東征之図』/Wikipediaより

『日本書紀』によると山頂から日本を一望していた神武天皇は、「この国はトンボの交尾のような形をしている」と言いました。

トンボは古くから秋津(あきつ)と呼ばれており、先ほどの神武天皇の発言によって日本の異名『秋津洲(あきつしま)』の由来になっています。

あの雄略天皇もトンボと馴染みが!

また雄略天皇もトンボに馴染みがありました。『古事記』によると雄略天皇が吉野宮へ行き、狩りをしようとしていました。

雄略天皇/Wikipediaより

そして、自ら射るために獲物を待っているとアブに腕を噛まれてしまいます。その瞬間にトンボがアブを食べてどこかへ飛んで行ってしまいました。

その様子を見て雄略天皇はトンボの功績を称えて日本を『蜻蛉島(あきつしま)』と名付けました。

この雄略天皇のエピソードからトンボを「勝ち虫」と呼ぶようになり、縁起の良い虫として多くの人に影響を与えるようになります。

戦国時代になるとトンボのある動きが好まれ人気に!

戦国時代になるとトンボの前にしか進まない勇猛果敢な動きから「不退転」の精神を現すとして、「勝ち虫」エピソードと相まってトンボは一大ブームを巻き起こします。

その影響を強く受けたのが、武田信玄の家臣・板垣信方(いたがき-のぶかた)でした。信方は兜の前立てや手甲、着物に至るまで全てトンボの装飾をしたと知られています。

トンボをあしらった兜

また、兜の前立てだけですが、前田利家もトンボを起用しています。

紙本著色 前田利家像/Wikipediaより

名を残す武将ほど、このように験担ぎで運を呼び寄せるくらいトンボは戦国武将に人気でした。

最後に今ではあまり見かけなくなったトンボがここまで日本人と密接な関わりがあるとは知りませんでした。

古代は神武天皇から戦国武将まで親しまれてきたトンボ。今度見かける時は色々な視点でトンボを見られそうですね。


https://www.city.saga.lg.jp/main/2954.html 【「トンボ王国・さが」づくり事業】より

佐賀市には嘉瀬川や多布施川、巨勢川をはじめとする河川、クリーク、水路が網の目のように張り巡らされており、総延長は約1900キロメートルにもおよびます。

かつては、これらの水辺では夏には蚊が多く発生することから「ブン蚊都市」とも呼ばれ、水質悪化による悪臭被害もありました。

しかし、昭和55年に市民らによる「佐賀市水対策市民会議」が結成され、「河川を愛する週間」などに市民をあげての河川浄化運動が展開されることになりました。

平成元年にはふるさと創生事業を活用して水辺を愛する市民のシンボルとして「トンボ」を掲げ、「トンボ王国・さが」づくりに取り組むこととなりました。

トンボは大人から子どもまでなじみが深く、多くの種類があります。また、幼虫(ヤゴ)はボウフラ(蚊の幼虫)を、成虫は蚊を食べるため蚊の対策にもなることから、「水辺を愛する市民のシンボル」に選ばれました。

トンボが飛び交う多様な自然環境を守ろう!

近年、トンボが生息する環境の変化により、佐賀県内でもトンボの数が減少しているという調査結果が発表されています。環境の変化には、外来生物の捕食や水質の悪化などさまざまな要因がありますが、トンボが飛び交う多様な自然環境を守るために、私たちにできることを考えていく必要があります。

事業内容

自然観察会「さがの生き物さがし」

H28とんぼ教室(1) H30観察会(3) H30PR用 ベニイトトンボ

生き物や自然を身近に感じ、大切にする心を持っていただきたいとの想いから、自然観察会を開催しています。

佐賀市には山、平野、海(干潟)と多様な自然環境があり、それぞれに特徴的な生き物がいます。

鳥などを観察したり、魚や昆虫を採集したり。時には昆虫の標本作りにチャレンジすることも。

子どもよりも大人の方が夢中でトンボを追いかける姿が見られることもあります。

年数回開催しています。興味がある方はぜひご参加ください!


Facebook髙橋 眞人さん投稿記事

こんばんは。【今日の名言】山本 常朝(佐賀鍋島藩の武士、『葉隠』作者)

名人も人なり、我も人なり。武士道というは、死ぬことと見付けたり。

毎朝、毎夕、常日頃から死ぬ境地に至っていれば、武道に自由を得られ、一生落度もなく、与えられた仕事を果たすことができる。

死ぬか生きるか、二つに一つを選ばねばならない場合は、早く死ぬほうを選ぶべし。腹がすわって進むことができる。

人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはある。

徳がある人は、胸中にゆるりとしたところがあって、忙しがることがない。小人は、静かなところがなく、がたつき回るものだ。

大難、大変に逢っても動転しないというのなら、まだまだだ。大変に逢ったら歓喜踊躍して勇み進むべきである。

今がその時、その時が今、つまり、いざという時と平常とは同じことだ。

礼を尽くすのに腰は折れない。敬語を使うのに筆は磨り減らない。

武士は食わねども、高楊子。内は犬の皮、外は虎の皮(武士は貧乏でろくに食事できなくても、あたかも沢山食べたかのように楊枝をくわえよ。着るものも、たとえ内側は粗末な犬の皮を張っていたとしても、外側は虎の皮の服を着よ)。

凛とした気持ちでいれば、七回呼吸する間に判断がついてしまうものだ。

人の盛衰をもって、その人の善悪を判断してはいけない。

武士は仮にも弱気なことを言ってはならない。かねがね心がけておくべきことだ。

今一瞬の一念のほかにはない。この一念一念を重ねたものが一生となる。

大きな慈悲(憐み)の心を起こし、人のためになるべきである。

親に孝行すること。

武士道においては、遅れを取ってはならない。

礼儀を失わず、へり下って、自分には悪いようにしても、人のために良いようにすれば、いつも初めて会ったようであり、仲悪くなることもない。

不幸せのときにくたびれてしまう者は、役に立たない。

大事の思案は軽く、小事の思案は重く。

勝つというのは、味方に勝つことだ。味方に勝つというのは、自分に勝つことだ。自分に勝つというのは、精神をもって身体に勝つことだ。

私心なく考えれば、不思議と知恵も出てくるものだ。

今の世を百年も前のようにしたくても、できないことだ。それならば、その時代時代でよいようにするのが肝要である。

酒に酔った時は、理屈を述べ立てるべからず。酔った時は早く寝るのがよい。

人前であくびをするのは、無作法である。

主君の御用に立つべし。

どのような能力を持っていても、人から好かれない者は役に立たない。

まず相手の良いところを褒め、気を引き立てる工夫をし、喉が渇いた時に水を飲むように受け入れ、痛みが軽くなるのが助言である。

人に助言をして痛みを軽くするのは、大切なことである。大慈悲と御奉公の第一である。

翌日のことは、前の晩よりそれぞれ考え、書きつけておくべきである。これもすべてのことについて、まず実行すべき心得である。

慈悲より出づる智勇は、本物である。慈悲のために罰し、慈悲のために働くのだから、強く正しいこと限りない。

究極の恋とは、忍ぶ恋であると見た。一生忍んで思い死にすることこそ、本物の恋である。

世に教訓をする人は多いが、教訓を喜ぶ人は少ない。まして教訓に従う人は稀である。歳も三十を越した者は、教訓してくれる人もいなくなる。教訓を受けることがなくなり、我ままで、一生、非を重ね、愚を増して、廃れていくのである。

五十歳を超えたぐらいになったら、少しずつ仕上げていくのがよい(少し出世が遅いくらいのほうがよいものだ)。

※10月10日は山本常朝の命日(享保4年)です。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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