阿部完市の「とんぼ」の句

https://miho.opera-noel.net/archives/427【第八十三夜 阿部完市の「とんぼ」の句】より

Posted on 2020年1月31日 by mihohaiku

  とんぼ連れて味方あつまる山の国  『絵本の空』

 言葉はやさしい俳句であるが、意味を探ろうとすると言葉は逃げてゆきそうになる。完市俳句の評論を読めば、言葉には意味を持たせないとあった。言葉と言葉のつながりが希薄だから鑑賞がしにくい。句意とか意図を拒否しているのだろうと思うが、なぜか完市俳句に惹かれる

 第一句集『絵本の空』のタイトルを考えてみた。また抽象画のミロやピカソを考えてみた。どちらも目に映るとおりには描かれてはいない。省略されていることが多く、しかも伝えたい「もの」が、ぽつんぽつんと置かれたままのように見える。

 絵本の作者も画家も完市俳句も、読んでほしい、観てほしい、汲み取ってほしいと思っているのではないだろうか。

 日本語の文字は、英語のアルファベットと異なってばらばらになりにくい。たとえば〈ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん〉など、片言の言葉の集まりであったとしても、大人の考える感覚をとりはらったら、子どものような心には映像として届くのだと思う。

 掲句を考えてみよう。

 まず、「とんぼ」を季語として詠んでる訳ではないと思う。 

 男の子というのは、何かというと、自分と他のグループと「どっちがつよいか」の決着をつけたがる。授業が終わると、場所を指定してそれぞれが味方を引き連れて山の中へいざ出陣だ。「とんぼ連れて」の言葉が楽しい。「とんぼを連れて」いくのではなく、なにが始まるのだろうと、おそらく「とんぼがついて」きたのだろう。絵本に描けば、やんちゃそうな男の子たち、刀の代わりの棒きれ、見物するトンボたち、低い山、バックは夕焼け色の山の端などが浮かんでくる。このように思った。

 完市は、もっと奥の深さを読み取ってほしいと思うかもしれない。

 阿部完市(あべ・かんいち)は、昭和三年(1928)―平成二十一年(2009)、東京生まれ。精神科医。昭和二十六年「青玄」に入会。その後「未完現実」「俳句評論」に参加。昭和三十七年に金子兜太に師事し、「海程」同人。  

 もう一句考えてみよう。

  栃木にいろいろ雨のたましいもいたり  『にもつは絵馬』

 「栃木」は、精神科医の完市が関西から移った勤務先の病院のある栃木県のことであろう。雨の日、静かな雨音に耳を澄ませていると、ふっと一音一音に「雨のたましい」が宿っていると感じた。そう思ったとき「いろいろ」とは、他の万物のあらゆるものにも「たましい」があると感じたのだろう。


https://sectpoclit.com/ringo-125/ 【とんぼ連れて味方あつまる山の国 阿部完市【季語=とんぼ(秋)】】より              ハイクノミカタ吉田林檎

とんぼ連れて味方あつまる山の国   阿部完市

昭和の子どもの遊びがテレビで取り上げられていて「ゴム跳びの何が面白いのか」という話になった。あんなに面白いものはない。まずは二人(ゴム係と仮に呼ぶ)の足首にゴムを渡し、歌に合わせて足をひっかける。ゴム係と交替でチャレンジし、足首の高さで成功したら膝、膝に成功したら腿とだんだんレベルアップしていく。出来る出来ないがはっきりしており、出来た時の達成感が気持ち良い。

端で見ている男の子には何をやっているのかわからなかったようだ。考えてみると地味な遊びである。見ている人には伝わりにくいけれど面白いからやってみたらいいのに。

基本的にはゴム跳びと呼んでいたが転校生の子はゴム段と呼んでいた。その子がいる時はなんとなくゴム段と呼んだ。跳ぶ時には「自分の分、1回、2回、3回」と唱えていた。ウィキペディアには「アルプス一万尺」や「さくまのキャンロップ」に合わせて、とあった。そういえば「キャン、キャン、キャンロップ」とも歌っていたような?

子どもの頃の遊びではゴム跳びも面白かったが、一番盛り上がったのは「ケイドロ」だった。「ドロケイ」とも言ったが、どちらかに統一する理由がないので言い出しっぺが言った方に合わせていた気がする。警察と泥棒、つまり敵と味方に分かれるというだけでなく警察に捕まって牢屋に入った仲間を助けることが出来るというのも盛り上がった要因の一つであった。大逆転があるとどんな場面でも盛り上がる。

とんぼ連れて味方あつまる山の国

敵と味方に分かれるタイプの子どもの遊びであろう。多少の差異はあるかもしれないがケイドロと考えても良さそうである。次々とくる仲間たちがとんぼを連れてきた。とんぼも味方になってくれているのだ。とんぼはよく人についてくるのでそれを「連れて」と見立てた。

「山の国」が子どもたちの遊びの王国をさしているようで場面の指定として申し分ない。「海の国」「風の国」「川の国」もありそうだが、それでは抽象的な世界になってしまう。山の国には間違いなくガキ大将がいるはずだ。普段は乱暴だけど仲間が危機に陥った時には命がけで助けてくれる…などというのは昭和への楽観的幻想だろうか。私の幼少の頃にはガキ大将はいなかったし、いたとしても認識できていなかった。

令和の今、あれだけの大人数であんな遊びを出来る場所はどれほどあるのだろうか。そもそも人数が集まらない。当時はとりあえずそこにいる人みんなに声をかけ、名前もよく知らない子とも遊んでいたのに。年齢の離れた弟や妹は「おみそ」といって鬼ごっこで捕まっても鬼にならないルールだった。俳句を知った今はとんぼを見ているだけで充分楽しめる。

『絵本の空』(1969年刊)所収。

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