転生をまだためらへり貴船菊 五島高資

https://heartful-moon.com/message/6527  【冠婚葬祭とは人生を肯定すること】より

わたしは、冠婚葬祭会社を経営しながら、大学の客員教授として孔子の思想などを教えている。 講義では、特に孔子が説いた「礼」について重点的に説明する。「礼」は儀式すなわち冠婚葬祭の中核をなす思想だが、平たく言うと「人間尊重」であろう。

 「礼」の心を形にしたものが「儀式」である。孔子は「社会の中で人間がどう幸せに生きるか」ということを追求した人だが、その答えとして儀式の重視があった。

 人間は儀式を行うことによって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれるように思う。その意味で、儀式とは人間が幸福になるためのテクノロジーである。そう、カタチにはチカラがあるのだ。

 さらに、儀式の果たす主な役割について考えてみたい。それは、まず「時間を生み出すこと」にある。日本における儀式あるいは儀礼は、「人生儀礼」(冠婚葬)と「年中行事」(祭)の2種類に大別できるが、これらの儀式は「時間を生み出す」役割を持っていた。「時間を生み出す」という儀式の役割は「時間を楽しむ」や「時間を愛でる」にも通じる。

 日本には「春夏秋冬」の四季がある。わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えている。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の駅である。

 セレモニーも、シーズンも、ステーションも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかならない。 わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれない。それはそのまま、人生を肯定することにつながる。

 未知の超高齢社会を迎えた本人には「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる。それは、とりもなおさず「人生を修める覚悟」でもある。

 これから、冠婚葬祭や年中行事といった日本人のココロのカタチを取り上げながら、人生を豊かに生き、人生を美しく修めるヒントのようなものを書いていきたいと思う。


https://heartful-moon.com/message/6529 【秋の夜長は月を見よ、死を想え!】より

このたび、最新刊『満月交遊 ムーンサルトレター』(水曜社)を上梓した。京都大学こころの未来研究センター教授で宗教哲学者の鎌田東二氏との共著だ。上下巻で、合計700ページ近くのボリュームである。

 毎月、わたしたちは満月の夜になると、往復書簡を交わす。便箋に書くわけではなく、Web上の文通だ。

 もう10年以上も続いており、5年分の文通は『満月交感 ムーンサルトレター』(同)として、やはり上下巻にまとめられている。今回の『満月交遊』はその続編というわけだ。

 鎌田氏との出会いはもう四半世紀近くも前のことで、「葬儀」をテーマに対談させていただいた。当時の鎌田氏は新進気鋭の神道研究者として知られ、月面に鳥居を作って、そこからご神体としての地球を拝むという仰天プランを持っていた。

 それを「ムーンサルト・プロジェクト」と名付け、さらには、わたしとの対談で「月にお墓を作ればいいと思うんですよ。そうすれば、地球上のどこからでも死者の供養ができます」と述べたのである。

 この月面霊園構想に魅せられたわたしは『ロマンティック・デス』(国書刊行会、幻冬舎文庫)という本を書き、以後は月面に地球人類の墓標としての「月面聖塔」を建立することを本気で目指している。

 世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという「魂のエコロジー」とともに生きていた。そして、死後への幸福なロマンを持っていた。その象徴が月だ。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えたのである。

 多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっている。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だろう。

 超高齢社会に生きる日本人は、満月の夜、懐かしい故人を思い出し、自身の死に想いを馳せるといい。きっと死ぬのが怖くなくなるだろう。

 秋の夜長は月を見よ、死を想え!


https://heartful-moon.com/message/6820 【死生観は究極の教養である】より

現在の日本は、未知の超高齢社会に突入している。それは、そのまま多死社会でもある。日本の歴史の中で、今ほど「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる時代はない。

特に「死」は、人間にとって最大の問題だ。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきた。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきた。

それでも、今でも人間は死に続けている。死の正体もよくわかっていない。実際に死を体験することは一度しかできないわけだから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言える。まさに死こそは、人類最大のミステリーなのである。

なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はない。しかし、その不条理に対して、わたしたちは死生観というものを持つ必要がある。高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいるが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸だろう。まさに死生観は究極の教養であると考える。

死の不安を解消するには、自分自身の葬儀について具体的に思い描くのが一番いい。親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かる。参列してほしい人とは日頃から連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝する習慣を付けたいものだ。

生まれれば死ぬのが人生である。死は人生の総決算だ。自身の葬儀の想像とは、死を直視して覚悟すること。覚悟してしまえば、生きている実感が湧いてきて、心も豊かになる。

葬儀は故人の「人となり」を確認すると同時に、そのことに気づく場になりえる。葬儀は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現の場であり、最大の自己表現の場であると思う。


https://heartful-moon.com/message/6786 【また会えるから】より

前回、日本におけるグリーフケアの第一人者である髙木慶子先生から「誰が亡くなっても悲しい」というお言葉を頂いたことを書いた。

先生のお考えに賛同しながらも、多くの日本人にとって「誰が亡くなっても悲しくない」という時代が訪れつつあることも感じる自分がいた。

結局は「愛」の問題かもしれない。誰かが死んで悲しくないのは、その人への愛がないからだ。世の中には肉親の葬儀さえ行わない人もいるようだが、そこに愛がないからだろう。

上智大での講義を終えた後、わたしはグリーフケア研究所の方々と遅い夕食を取った。そこでも髙木先生と意見交換させていただいたが、先生はグリーフケアの核心について「また会える、ということが大切ですよ」とおっしゃった。同感である。

亡くなった人と再会するという考え方はたくさんある。「風や光、雨、雪、星として会える」「夢で会える」「天国で会える」「生まれ変わって会える」・・・・・・。世界にはさまざまな信仰や物語があるが、いずれにしても、必ず死者と再会できるのではないか。

世界中の言語における別れの挨拶には、「また会いましょう」という再会の約束が込められている。 日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうだし、英語の「See you again」もそう。フランス語やイタリア語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様である。

これは、どういうことだろうか。古今東西の人間たちは、愛する人との死別に直面するにあたって、再会の希望をもつことで辛さや寂しさに耐えてきたのかもしれない。

でも、こういう見方もできないか。二度と会えない別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたと。そして世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと・・・・・・。

「また会えるから」ほど、愛する人を亡くした人にとって必要な言葉はない。これからも、グリーフケアについて考え、実践していきたい。


https://heartful-moon.com/message/6784 【グリーフケアの言葉】より

今年も上智大学で講義を行った。同大学のグリーフケア研究所の人材養成講座科目「グリーフケアと人間学」の連続講義に出講したのである。

連続講義の第1部は「葬儀」、第2部は「映画」をテーマに話し、講義後は宗教学者で同研究所の所長である島薗進先生とのトークタイム、そして受講生からの質問を受けた。

最後に、宗教哲学者で同研究所の特任教授である鎌田東二先生から、「今日の講義の内容には感銘を受けましたが、一点だけ承服できない点があります」との発言があった。

その発言とは、アメリカのグリーフケア・カウンセラーであるE・A・グロルマンの言葉をもとにして、わたしがアレンジした次の言葉だ。

「親を亡くした人は、過去を失う。配偶者を亡くした人は、現在を失う。子を亡くした人は、未来を失う。恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う」

この言葉に対し、鎌田先生は「それは一面的なものであり、死別イコール喪失ではないはず」と言われた。

それを最後列の席で聴いておられた前所長の髙木慶子先生も、「それは単なる言葉です。親がどうとか、配偶者がどうとかは関係ありません。誰が亡くなっても悲しいものですよ」と言われた。死別の悲しみには種類も差も存在しないというのである。

髙木先生は、自ら阪神・淡路大震災、JR西日本の脱線事故、そして東日本大震災で深い悲しみを背負った方々の心のケアに取り組まれてきた日本のグリーフケアの第一人者だ。

わたしは「誰が亡くなっても悲しい」という髙木先生の、カトリックの深い信仰心からのお言葉に触れ、深い感銘を受けた。悲しいのは家族の死だけではないというのだ。

その一方で、「誰が亡くなっても悲しくない」という時代の訪れも感じる。直葬に代表される葬儀の簡略化が進んでいる。その流れの中で、年老いた親の死を隠す人が多くなってきた。家族が亡くなっても縁者に知らせない「愛」のない時代である。


https://heartful-moon.com/message/6758 【古事記・論語・般若心経】より

『はじめての「論語」』(三冬社)と『般若心経 自由訳』(現代書林)を続けて上梓した。『論語』も『般若心経』も、多くの日本人から「こころの書」として親しまれている。

もう1つ、日本人には大切な「こころの書」がある。『古事記』である。このコラムでも紹介したが、今年1月、わたしが経営する会社では「古事記」の舞台を上演したが、その原作は宗教哲学者の鎌田東二氏による『超訳 古事記』(ミシマ社)だった。

ブッダが開いた仏教、孔子が開いた儒教は、日本人の「こころ」に大きな影響を与えた。加えて、日本古来の信仰にもとづく神道の存在がある。

わたしは多くの著書で、「日本人の精神文化は神道・儒教・仏教の三本柱から成り立っている」と繰り返し述べた。神儒仏が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるだろう。

それをプロデュースした人物こそ、かの聖徳太子であった。宗教編集者としての太子は、自然と人間の循環調停を神道に担わせ、儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を解消した。

すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、自然の部分を神道が、それぞれ平和分担する「和」の宗教国家構想を聖徳太子は説いた。

その三宗教の聖典こそ、『古事記』『論語』『般若心経』なのである。最近、それらが日本人の「過去」「現在」「未来」についての書でもあるように思えてならない。すなわち、

『古事記』とは、わたしたちが、どこから来たのかを明らかにする書。

『論語』とは、わたしたちが、どのように生きるべきかを説く書。

『般若心経』とは、わたしたちが、死んだらどこへ行くかを示す書。

この考えを知った鎌田東二氏は、「『古事記』とは、日本人の来し方行く末を明示する書。『論語』とは、人間修養を通して世界平和実現を指南する書。『般若心経』とは、迷妄執着を離れて実相世界を往来する空身心顕現の書」と述べた。なるほど。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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