草木瓜の地に近うして実を点す 五島高資

https://blog.goo.ne.jp/shinso179/e/0850023e250cda5cb28f3578fb6e852b 【草木瓜(クサボケ)】より

以前、住んでいる所からそう遠くない、あまり人の入らない雑木林を歩いていた。 そのとき地面にボケの花が落ちていた。 だがその近くを見まわしてもボケらしい木はなかった。 

拾おうとしたら、落ちているのではなく咲いているのに気づいた。 そこで見たのはごく小さな幼木だったが、それでも1つ2つの立派な花をつけていた。

地面からいきなり花が出ていると何か妙な感じがする。 私たちはたいてい、枝や茎につながるかたちで花を見慣れている。 茎の先に花がついていたり、枝に沿って花が咲いていたりと。 記憶に刻まれたものとは違う、別のかたちと出会うと不思議な感じがする。

秋にできるその実は、草ボケとは知らなかったが、低い山で見た記憶がある。 3、4センチほどの、丸く淡い黄色の実が、草むらの中にいくつもまとまって実っていた。 

普通、木の果実は高い枝に実る。 草むらの中に大きな実が成っているというのも、やはり奇妙な感じがした。 何の植物かわからないまま、面白いなと印象に残っていた。 

なるほど、草ボケの別名は、地梨である。バラ科の植物で、日本の固有種。 花期は4~5月。果実はよい香りがあり、果実酒に好んで用いられるそうだ。 

同じ仲間の庭に植えられるボケは、1、2メートルほどになるが、草ボケは50センチぐらいにしか成長しないという。

からだの形は、生命の器 形之医学・しんそう療方 東京小石川 

http://www.shinso-tokyo-koisikawa.com/


https://m-majipan.hatenablog.com/entry/2021/06/22/171350 【クサボケの実】より

野の花

庭木として植えてあるボケは中国原産の園芸種で、日本の固有種はクサボケといわれるものである。多摩丘陵では多く自生しており、まだ春が浅い3,4月頃に朱赤色の花を咲かせる。背が低く「クサ(草)」が名前に付いている。

「ボケ」の名の由来として、実が瓜(ウリ)に似ており、木に成る瓜だから木瓜。昔の日本語で「ぼっくわ」「もけ」と言っていたものが訛(なま)ったという説がある。ちなみに中国では貼梗海棠(てんきょうかいどう)という。

クサボケの実は自然の状態では鳥などに食べられてしまうのか、ほとんど見かけない。画像の実もノイバラの傍らで草に埋もれていたものだ。しかし、これではウリというよりは、同じバラ科のリンゴやナシの若い実といった方が近い。まだ青いが、秋には黄色くなる。香りが高く果実酒などにされる。


Facebook今野 華都子さん投稿記事【やまと心の原点】

縄文の人々にとって、山や川、海、風、火は単なる自然現象ではなく、意思をもった“いのち”そのものでした。彼らの暮らしは自然と一体であり、その変化が命運を左右したからです。

たとえば山は木の実や獣を与えてくれる「母なる山」 川は水と魚を運ぶ「命の流れ」

火は温かさと調理の恵みを与えるが、怒ればすべてを焼き尽くす「荒ぶる神」

海は豊饒をもたらしつつ、同時に命を奪う「大いなる母」

つまり、自然=生きている存在=神(カミ)という感覚が、日常生活の中に自然と根づいていたのです。

「カミ」の語源と、八百万の神へ

「カミ」という言葉には、「上(かみ)」=高み・優位・超越的なもの

「神(かみ)」=見えざる力・働き という二重の意味がありました。

縄文の人々は、雷が鳴れば「雷(いかづち)のカミが怒った」、風が吹けば「風のカミが通る」と感じていました。つまり、すべての自然現象の背後に「意思ある霊的な働き」を感じとっていたのです。

この「どのものにも霊(たま)が宿る」という感覚が、後の八百万の神(やおよろずのかみ)思想へと発展していきます。

八百万(やおよろず)=数えきれないほど多くの神々→ 森羅万象に神が宿るという日本独自の世界観  八百万の神の世界観=関係と調和の思想

八百万の神々は、上位下位の序列で支配しあうものではなく、それぞれが「役割」と「関係性」で成り立つ存在です。

山の神・川の神・田の神・家の神それぞれが「命の循環」の一部を担い、互いに調和することで世界が成り立つ、という考え方でした。

この感覚は、のちに古事記や日本書紀にも息づきます。

たとえば『古事記』の「天地開闢」では、

天地が自ずと分かれ、神々が自然に「成り出でたまふ(あらわれ出る)」と記されます。

つまり神は“創造者ではなく、“自然の中から顕れる生命の働きなのです。

現代へのつながり この「すべてに命がある」「関係の中に生きる」という感覚は、

いまも日本人の奥底に息づいています。御神木、磐座に手を合わせる 山や海に「入山式」「入漁式」を行う 道具が古くなると「供養」をする

これらは、縄文の頃から続く「すべてに霊が宿る」という世界観の名残です。

物にも、自然にも、時間にも、いのちの気配を感じる感性こそ、やまと心の原点なのです。

全国古事記塾主宰 今野華都子記す

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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