ウェルビーイング

Facbeek太田 雄介ウェルビーイング管理者さん投稿記事  遊び心と自律性が幸せの源泉

マイアミ大学のジェイ・キミエシック先生らの最新研究。

心理的ウェルビーイングにつながる源泉についてのフレームワークを提案頂いています😊

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人間には生まれつき4つの心理的傾向が備わっています:

・フロー(没頭)- 時間を忘れるほどの集中体験

・自律性 - 自分で決めている実感

・バイオフィリア - 自然とのつながり

・エウダイモニア - 人生の意味や目的を感じる力

この4つが、幼少期に「自由な遊び」と「自律性を尊重する養育」によって育つと、大人になっても持続する心理的ウェルビーイング(人生がうまくいっている感覚)が自然に生まれる😍

興味深いのは、これらの関係が日本、中国、韓国、アメリカなど様々な文化圏で実証されていること。文化を超えた人間の普遍的な特性のようです。

うーん、遊び心、重要ですね❗確かに、遊び心がある人はだいたい幸せな気も。

このフレームワーク自体は、どちらかというと、なんか天然で幸福度が高い人って、どういう流れでそうなったの?を探るものなので、これからの子育てなんかでは重要ですね。

一方、そういった幼少期を過ごしていなくても、天然ではなく、養殖で幸福度が高い人になれば良いですね😊

(遊び心をもつ、仕事や趣味に没頭、自分で決める機会を増やす、自然に触れる、人生の意味や目的を考える)

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遊び心のある自己:ポジティブな心理的幸福感の根源的発達を探る

The self at play: Exploring the core developmental origins of positive psychological well-being

Jay C. Kimiecik(マイアミ大学) · Carlyn Kimiecik · Izzy Storey

International journal of wellbeing ,2025/9/30

https://internationaljournalofwellbeing.org/.../view/4673

ポジティブな心理的幸福感(PPWB)は、健康増進行動の増加、健康リスク行動の減少、そして非感染性疾患リスクの軽減に関連する重要な要素として浮上しています。PPWBとは、最も端的に言えば、人生が順調に進んでいるという個人の内なる感覚を指します。しかし、PPWBは様々な方法で概念化、定義、測定、研究されており、この内なる感覚の本質とその発達の背後にあるメカニズムについて、研究者と実践者の両方に混乱をもたらしています。これは、曖昧さと過度の複雑さによって効果が制限されるため、生涯を通じてPPWBを高めるための介入を行う人々にとって問題となります。発達的ライフコースの観点に基づき、この概念レビュー/エッセイは、これまでほとんど探求されてこなかったPPWBの発達的起源を探ることです。発達の起源を探る中で、私たちは4つの生得的かつ中心的な潜在性、すなわちフロー、自律性、バイオフィリア、ユーダイモニアを発見しました。これらはPPWBと強い繋がりを持つ同期した表現的自己を構成しています。幼少期から青年期にかけて、質の高い子育てと遊びを通して育まれると、表現的自己は、人生が順調に進んでいるという肯定的な内的感覚を、生涯を通じて持続する自然な副産物、あるいは結果として生み出します。これらの関係は、西洋文化圏と非西洋文化圏の両方において、依然として強く残っています。

畏敬の念は組織や国との一体感を高める~チームの一体感を醸成するには大自然に行くと良い~という、メルボルン大学のジ・ヨン・ソン先生らによる最新研究

AWEと書いてオゥと読む、畏敬の念。

大自然に触れたときに、人間はなんて小さな存在なんだろうというような感覚。

大自然以外でも、芸術作品なんかでも感じると言われています。

別研究ではありますが、AWE体験をすると、ウェルビーイングが育まれます。

ストレスが減ったり、思いやりや、創造力につながったり、利他的な行動につながったり。

時間のゆとりにつながったり、長期的な視野で考えられるようになったり、健康になったり(炎症の数値が下がり、免疫強化)などなどなど。

今回の研究はこのAWEと集団意識がつながっているんじゃない?というもの。

実際に、AWEをよく感じている人ほど、集団意識が高い。(r=0.22-0.45)さらにAWEを感じると、集団への帰属意識が1.2倍くらいのスコアになっていました。

それは、国のような大きなものから、自分が所属する組織まで。(7件法でのスコアなので、倍率にあまり意味はないですが。)

AWEを感じて、自分のちっぽけさ→無力感→組織への帰属意識が高まっているのかな。

と思いきや、個人の主体性は失われていなかった。むしろ、自分が集団をより良くするぞ!という気持ちも高まっていた。

という事で、色々なメリットが挙げられるAWEですが、組織との一体感でも重要だという事でした😊しかも、組織のみんなでAWEを感じなくても、一人でAWEを感じるだけで、一体感(所属感や貢献意欲)が高まるという凄さ。

でもせっかくなので、チームの一体感を高めていきたい組織は、みんなで大自然に行くといいですね😍

(あとは、芸術や建築、大自然VRでも効果があったので、手軽にいくなら、そちらでも。)

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※論文

広大さから一体感へ:畏敬の念がアイデンティティの融合を強める

From Vastness to Unity: Awe Strengthens Identity Fusion

Emotion,2025

Ji Young Song(メルボルン大学) , Jack W. Klein, Young-Jae Cha, Sean Goldy, Haisu Sun, James Tisch, Brock Bastian

https://psycnet.apa.org/fulltext/2026-67163-001.html

畏敬の念は、個人が協力的なグループに統合し、集団行動に参加することを可能にする社会的機能を果たすと理論づけられています。5つの研究(N = 1,124)にわたって、私たちは、グループとのつながりの頂点であるアイデンティティの融合を促進する畏敬の念の役割を調査しました。2つの横断研究(1aと1b)は、気質的な畏敬の念がより強いアイデンティティの融合を予測することが明らかになりました。その後の3つの実験(研究2~5)は、畏敬の念の経験がアイデンティティの融合を強化することを実証し、分析の結果、「自分に対する広大さ」という小さな自己の感覚が、畏敬の念(対照群と比較)と融合の増加を結び付ける重要な間接的な経路を提供することが明らかになりました。これらの効果は、さまざまな畏敬の念の操作(感情の想起と仮想現実)、対象グループ(国、大学、地域社会、自然)、文化的背景(オーストラリアとアメリカのサンプル)にわたって再現されました。私たちの研究結果は、畏敬の念がグループと融合する準備を整え、より深い集団の絆への開放性を生み出すことを示唆しています。重要なのは、畏敬の念は個人の主体性を低下させるのではなく、むしろ、個人と集団の目標が収束する相互依存的な調整を促進し、個人と集団の相互強化を通じて、共有の目標に能力を向けるよう動機付けるということである。


https://note.com/takahashi_shiro1/n/n5cc9464bea93 【和と能から「日本的ウェルビーイング」について考えるから「日本的ウェルビーイング」について考える】より

髙橋史朗

 島根の神楽を取り入れた「古事記」など、能・音楽・朗読を融合させた舞台を数多く創作・出演し、シュメール語による神話『イナンナの冥界下り』のヨーロッパ公演を行った能楽師の安田登氏によれば、俳人の黛まどかさんがフランスのパリで大学生に俳句を教えた際に、最も苦労したのは学生の俳句の中から「私(je)」を取り除くことであったという。

 彼らの俳句にはどうしても「私」が入ってしまい、例えば、「雨」を詠めば、「その雨は私の心の象徴で」のような話になり、なかなか「私」という意識から離れられないというのである。

 では、日本での「私」はどうか。『源氏物語』のような平安文学は、文脈と敬語によって主語を推察することが期待されているために、主語の多くが省略される。

●主客融合の「共話」によって、「今は昔」が出現

 さらに中世の能になると、文脈からも敬語からも主語が特定しにくく作られるようになる。わざと主語がはぐらかされ、「私」も「あなた」もなくなり、主客が融合してしまうのである。

 能の中の主客の融合は、日本語に特徴的な「共話」という会話形態によって引き起こされる。例えば朝、ちょっと大きな地震があったとする。昼に会った2人のうち1人が「今日の地震ね…」というと、もう1人がすかさず「大きかったよね」と言って、2人で1つの文(「今日の地震、大きかったよね」)が作られる。

 このような会話形式を「共話」という。このような「共話」は、相手の発言を途中で遮ってしまうので、欧米圏ではあまりよくないこととされている。しかし、日本ではこれができない人の方がコミュニケーションの問題があると思われたりする。

 能という芸能には、この世の人間である「ワキ」という役と、この世ならざる存在である「シテ」という役が登場する。この両者は住んでいる世界だけでなく、住んでいる時間も異なる。

 ワキは過去から現在、そして未来へと進む「順行する時間」に住んでいるのに対し、シテは今の時間を過去へと引き戻そうとする「遡行する時間」の中に住んでいる。

 住む世界も、住んでいる時間も異なる2人の会話は当然噛み合わないが、あることをきっかけに2人の間に共有する≪何か≫が出現し、その≪何か≫をきっかけに2人の会話は「共話」となっていく。

 共話によって融合しはじめた2人の会話は、それが進むとお互いに発する語数が減ることによって、それはさらに促進され、ついにはどれが誰の発言なのか全く分からなくなる。

 自他の境界が溶け合い、そして最後には彼らすらも消えてしまったような感覚を観客に与える。2人は、彼らを取り巻く環境、すなわち景色と一体化するのである。

 そこまでいくと、「あなた」に対する「私」が消えるだけでなく、「私」そのものも消えてしまう。彼我の時間の差も越えて、現在と過去が統合される「今は昔」が出現するのである。相違よりも共有を見出す「共話」という方法によって、住む世界すらも全く異なる両者は融合していき、「私」は消滅していくのである。

●聖徳太子17条憲法と『論語』の「和」の捉え方

 この「私」の希薄性は、近代以降批判の対象となり、「個人」が確立せず付和雷同的な国民性として非難の的になった。聖徳太子の17条憲法には「和を以て貴しと為す」と書かれているが、「和を貴しと為す」と書かれた『論語』の前には「礼の用は」と書かれており、「和」を成立させるためには「礼」の作用が必要だというのが『論語』の考え方である。

 「和」の正漢字は「」で、様々な音の楽器を一緒に演奏するというのが原義である。そこから、様々な人が様々な意見を出したり行動したりすると混乱するが、それを統制するために「礼」、すなわち秩序が必要だというのが『論語』の考え方である。

 それを聖徳太子は「和」そのものが大事であるという思想に変化させ、「礼(秩序)」を導入しなくても、「私」を捨て、多様性の相違点よりも多様性を通底する共通点を見出す「共話」、すなわち「和の議論」が大事と考えたのである。

 まず「私」を捨て、「和の議論」を続けながら、個人では到達できなかった全く新たな知見を獲得し、「三人寄れば文殊の智慧」が出現するのをじっくり俟つのが「和の議論」、すなわち「対話」に他ならない。

 孔子は、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と喝破し、「和」に対する概念として「同」を提示した。「同」とは皆で同じことをすることで、これが「付和雷同」に他ならない。

 今日の日本の「和」の多くは孔子の言う小人の「同」即ち「付和雷同」になってしまっており、「同じて和せず」になってしまっていると言わざるを得ない。

●和歌とは「和する歌」一返歌しなかった罰

 「和」は文学においても重視され、日本の伝統文化の核である「和歌」は、文字通り「和する歌」であった。誰かに歌いかけられたら、それに「和する(応える)」ことが求められた。歌の中に「和」の話法が内包されているのである。

 『卒都婆小町』という能があるが、絶世の美女と言われた小野小町がシテ(主人公)の能である。しかし、この能の中の小町は醜く年をとった乞食の老女である。老残の姿を晒して人々から軽蔑され、また彼女との思いを遂げられずに憤死した深草少将の亡霊に憑依されて狂気になったりする。

 彼女がそのようになってしまった理由は、深草少将から贈られた歌に返歌をしなかった罰であると能では語られる。歌を詠みかけられたら、和する(応える)ことが、和歌の基本ルールなのである。

 しかし、平安末期から鎌倉初期に活躍した歌人である藤原定家は、そのルールから美しく逸脱し、「和する歌」の伝統を破壊し、和歌から「和」の性質が失われていった。

 和歌が「和」の性質を失っていったがために、「和」の性質を引き継いだのが「連歌」であり、「俳諧の連歌(連句)」である。そして、それを行う場としての「座」が生まれた。座というシステムは、平安時代までの「和歌」が成立しなくなったために、「和」が含まれる歌を生み出そうとした試みであったといえる。

 私が提唱して全国に広がった「親守詩」も子供が作った上の句に「和する」下の句を親が作るという、「和歌の伝統の創造的再発見」の試みに他ならない。毎日新聞を中心に全国大会が毎年開催されてきたが、中断を余儀なくされ、今年度から「高知親学」が中核となって復活する!

 「私」の「所有」という概念を捨て、「私」にこだわらない昔の日本人の生き方を学び直し、「和」の精神に立ち返ることによって、日本的ウェルビーイングを取り戻す必要があるのではないか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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