Facebook忘れられた真実さん投稿記事
常人には理解しがたい、孤高の世界に生きた男がいた。数学者、岡潔。彼は、数字の羅列の向こうに、宇宙の真理と生命の燃焼を見ていた。
彼の奇行は、伝説として語り継がれる。大学の試験中、難問が解けた喜びに「分かった!」と叫び、答案を一枚だけ提出して教室を飛び出す。そして、公園のベンチで仰向けに寝そべり、解けた問題の余韻に浸る。常人には理解しがたいその行動は、彼にとって至福の瞬間だった。
京都大学で教鞭をとっていた頃、彼の講義はまるで予測不能な即興劇だった。突如として黒板一面に数式を書きなぐり、そのまま思索の海へ。気づけば夜になっても講義は終わらず、学生たちを困惑させた。ある時は、前回の授業内容を「あれは全部嘘でした」と笑顔で覆し、全く新しい理論を展開し始める。彼の頭の中では、常に数学という名の宇宙が、凄まじい速度で膨張し続けていたのだ。
広島文理大に赴任した際には、研究に没頭するあまり、授業中も上の空。学生たちから「講義がでたらめだ」とクレームの嵐が巻き起こったこともある。
しかし、その狂気とも言える探究心の果てに、彼は数学の三大未解決問題を、たった一人で解き明かすという超偉業を成し遂げる。それは、神の領域に触れた者だけが見ることのできる、孤高の絶景だった。
「数学とは、生命の燃焼だ」。彼はそう語った。
岡潔。彼は、凡人には理解し得ない狂気と、神に愛された天才性を併せ持つ、数学という宇宙を旅した、唯一無二の探検家だったのである。
Facebook成願 義夫さん投稿記事
⭕️『群盲 象を評す』― 葛飾北斎『北斎漫画』より
私たちの日常は、「見えているつもり」「知っているつもり」「わかっているつもり」の積み重ねでできています。
「群盲象を評す」の故事は、複数の盲人が象の異なる部分を触り、それぞれ「象とは壁のようだ」「槍のようだ」「綱のようだ」と語り合った寓話です。
「誰も間違ってはいないが、誰も全体像を理解してはいない」
それが人間の知識の限界であり、同時に真理探究の出発点でもあるのです。
ソクラテスの言葉に「無知の知」があります。
知れば知るほど、自分がいかに無知であるかを思い知らされる。
そして、知識を重ねれば重ねるほど、「わからないこと」もまた倍々に増えていく。
この逆説こそ、人類が進歩を続けるための原動力といえるでしょう。
私たちが「答え」に近づこうとするたびに、さらに深い「問い」が立ち現れる。
だからこそ人類は、永遠に探求をやめることができないのでしょう。
そしてそれは、無知であるがゆえの不幸ではなく、無知であるからこそ可能になる「学びの喜び」なのかもしれません。
今、世の中で起こっている不幸の一つは、象の足を触っている複数の人々が、尻尾を触っている少数の人の意見を「間違い」と決めつけてしまうことにあると思います。
ますます無知を痛感する、今日この頃 😭成願義夫
🔴 日本の当たり前は世界の特別 ⭕️「祈るように生きてきた日本人」
皆さんは日本には多数の神社仏閣(神社+寺)があることはすでにご周知の通りですが、神社とお寺、どちらが多いか?ご存知でしょうか?
2023年6月29日時点での神社仏閣の数は、15万7,546軒です。内訳は、神社が80,847軒、寺院が76,699軒です。驚くことに、日本の神社仏閣の総数は、コンビニエンスストア(約5万6000店)と、郵便局と、鉄道駅と、マクドナルドを全て足し合わせても、神社仏閣の数の方が多いです。
それでは、神社が最も多い都道府県はどこでしょうか?意外にも新潟県が4689社で、最多です。2位兵庫県3873社、3位福岡県3410社、と続きます。
対照的に、神社が最も少ない都道府県は沖縄県で、わずか15社です。
神社だけ取り上げてみても、8万社余りですが、写真のような小さな祠も含めると数え切れないほど・・・というのが実状です。
ご覧のような祠は全国至る所にありますが、誰もその総数を把握していないそうです。
私が現在住む大津の坂本でも1時間散歩すれば十ヶ所以上の祠や神社が目につきます。
神社や祠は文字通り「神の社、神が座するところ」
日本人はいつでも近くの神社や祠に立ち寄り、氏神様に手を合わせて感謝を捧げ、祈ることができます。さらに道端の石仏を含めると、とんでもない数になります。
こんなに神仏が身近にある先進国、日本・・・改めてすごいと思いませんか?
さらに時々見るのですが、祠つきの家や宅地が販売されているのも、考えてみたら凄いですよね。
私達にとって街並みに溶け込むようにある当たり前の景色が、世界から見たら本当に特別な光景なのです。
⭕️一神教の国では祈る為に仕事の手を止めますが、日本の先人達は「祈るように仕事し、祈るように生きてきたのです」
写真のように交通の妨げになるのでは?と思える場所にさえ、「祠が在ること」が優先され大切に守られてきました。
これまで、日本に起こった数々の奇跡と神仏が身近に在ることが無関係とは思えません。
これは、英国人のヘンリー・S・ストークスやフランス人のクロード・レヴィストロースが同様に称賛する『比類なき国、日本』を表す一例に過ぎません。
日本人に生まれて本当に良かったと思います 成願義夫
🟣『かぎろひ(かぎろい)』
柿本人麻呂の、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見へて かへり見すれば月かたぶきぬ」という有名な歌を覚えていらっしゃる方も多いと思います。
この和歌に出てくる「かぎろひ」とは?
東の空から日が昇る明け方、暗闇だった海や空が明るさを徐々に取り戻し青色に染まるまでの間、冬期の厳寒の日に見られるムラサキ色の朝焼けを「かぎろひ」と言います。
最近あまり使われない言葉の一つですが、美しい言葉ですね。
写真は私が琵琶湖の冬の朝を描いた「かぎろひ」 成願義夫
『かわたれ時』
朝日が昇る直前の、世界がほの暗く息をひそめているような時間帯を、古くは「かわたれ時」と呼びました。語源は・・・「彼は誰(かわたれ)?」まだ人の顔が見分けにくい薄明かりの中で、互いにそう問い合ったことが、この言葉の始まりだと伝えられています。
現代では「たそがれ時」という言葉の方がよく耳にしますね。
夕暮れの淡い光のなかで「誰そ彼(たそがれ)?」と顔を確かめる、その情景がいまも詩歌や日常に息づいています。
けれど、明け方の「かわたれ時」は、次第に忘れられた日本語になりつつあります。
夜の闇から朝の光へと移ろう、その一瞬。そこには、生命の息吹が再び立ち上がる気配と、時間のはざまにしか生まれない静けさが宿っています。
私の古い作品「かわたれ時」も、そんな瞬間をとらえようとしたものです。
琵琶湖の湖面に映る薄明かりは、まるで世界がまだ目を開けきらぬ夢の中にあるかのようでした。
「かわたれ時」
それは、忘れがちな言葉でありながら、私たちに時の尊さと光のはじまりをそっと教えてくれます。
余談ですが、「かたわれどき」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
「かたわれどき」の由来は、2016年に公開された長編アニメーション映画「君の名は。」です。
映画の中で「かたわれどき」は、ヒロイン『宮水三葉』の住んでいる“糸守町(いともりまち)”の方言という設定で使われています。もちろん“糸守町”は実在しません。
「かたわれどき」は「昼でも夜でもない薄暗い時間帯」という意味の他にも、「世界の輪郭がぼんやり柔らかくなる」という抽象的な意味合いで、主人公2人が出会う大事な場面に使われています。
しかし、この言葉は映画の為に作られた造語ですので、私達は使わない方がよろしいようで・・・(笑) #成願義夫
🔴数年前、長谷川等伯の代表作、国宝「松林図屏風」と対峙したとき、私は深い衝撃を受けた。
それまでこの作品の「余白は霧を表す」という通説に従って作品を理解していたが、実物を目にした瞬間、その解釈が先入観に過ぎなかったことに気づかされた。
余白は決して霧や霞といった実態を描いてはいない。
あえて描かれているものがあるとすれば「無」である。
長谷川等伯は「無」を描くという誰も成し得なかったことに挑んだのである。
そして、無からやがて松の姿・・・「色(かたち・存在)」が現れる。
つまり、この屏風は「松が霧に隠れて消えている」のではなく、「何もない無の世界から出現しはじめている」「色」を描いているのである。
そのように見えた瞬間、全身に鳥肌が立ち、体が熱くなった。
無から有が立ち現れ、やがて再び無に帰していく、その時間の流れまでが画面に刻まれているように思えた。
等伯が描いたのは、般若心経の一節「色即是空、空即是色」の真髄なのだ。
あくまで私の独感にすぎないが、この屏風は、等伯が描いた「宇宙の始まりと終わり」であり、「空の理」を描き出した奇跡の作品だと思う。 成願義夫
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