古代日本のカキ

https://sarasina.jp/index.php/products/detail/242 【古代日本のカキ(柿)と駅路の街路樹】より

更級日記の考証

周知のように、カキという果樹は縄文遺跡から種子が発見されるなど古くから日本列島に自生していたと考えられている。すでに藤原京では多量のカキの種子が発掘され、栽培種が食品として供給されていたことが明らかになった。カキについて平安時代の百科事典、倭名類聚抄に二種の記載がある。(倭名類聚抄、本文編p.745(臨川書店))

柿(和名:かき)…赤実

鹿心(和名やまかき)…小型で長い

”かき”が栽培種で食用になる品種であり、”やまかき”は山野に自生する原種と思われる。当時の柿の実はすべて渋柿で、甘がきは鎌倉時代に出現した”禅師丸”に始まる。従って平安時代に実用果樹として栽培されていたカキは熟柿にして食べるか干し柿にして食べられていた。柿は甘味が少ない時代に在っては貴重な果樹であった。”やまかき”は現代でも山地に自生し、実は長さ2、3cmと小さい。この実は完熟しても渋みが抜けず食用にならない。画像に示すロウア(老鴉)柿は観賞用の園芸品種であるが原種に近い特徴を残している。

駅路の街路樹

さて、奈良時代においては駅路に果樹並木を植栽することが奨励されていた。街路樹として植栽された樹種が何かは明らかでないが、柿が多く植えられたことは想像に難くない。更級日記中にある二村宿泊時の記事に『二むらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす』とあるが、これも駅路に関係があるのではないだろうか。

更級日記、二村で登場する柿は栽培種の食用柿

更級日記に登場するカキは武田勇氏の指摘のように(『三河古道と鎌倉街道』p.101)、栽培種の柿である。食用であればこそ人々は拾ったのである。食用柿が植えられたその場所は、逆に駅家跡地であることを強く示唆する。延喜式では果樹植栽の場所を『駅路邊』としており駅路の並木だけでなく関連施設、例えば駅家の周囲を画する築地代わりに植えられたこともあろう。柿は樹齢百年も珍しくなく、駅制廃絶後も実をつけていたことは容易に想像できる。

<参考文献>

奈良時代天平宝字3年(759年)6月22日、東大寺の僧侶、普照により駅路に並木として果樹を植栽することが献言された。並木を植えることにより夏には日陰を作り旅人の休憩場所となり、果樹の実る季節には飢えを癒してくれるものとなる。

①太政官符

まさに畿内七道諸国は古代日本のカキ(柿)と駅路の街路樹の両邊に遍く菓樹を植えるべきこと

右東大寺普照法師の奏状いわく、道路は百姓の来去絶えず。樹がその傍らに在らば、疲乏を息むに足り、夏は即ち陰に就き熱を避け、飢えれば即ち子を摘み、これを食ふ。伏して城外の道路の両邊に菓子樹木の栽種を願ふといえり。

天平寶字三年六月廿二日

(国史大系、類聚三代格 前編 p.298、吉川弘文館)

②平安時代の延喜式、雑式の規定

およそ、諸国の駅路邊は菓樹を植えるべき事。往還の人休息を得さしめ、若し水無き處は便を量りて井を掘れ。

(延喜式巻50雑式、国史大系『延喜式 後編』p.995、吉川弘文館)

③万葉集に見る橘の街路樹

これは駅路ではなく、藤原京あるいは平城京の街区の街路樹と思われる。橘の並木の陰を踏みながら、道の分かれ道(交差点)に来て、彼女のところに行こうか行くまいかと思い悩んでいる若者の迷いを詠んだものか。

橘の影踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして  (125) 三方沙弥


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12723758962.html 【松尾芭蕉 柿&柿の渋抜き】より

里古りて柿の木持たぬ家もなし  松尾芭蕉(さとふりて かきのきもたぬ いえもなし)

なんか疲れている。今日は昼近くまで寝ていた。午後から海辺を散歩した。

白梅、諸葛菜も咲き始めている。季節は一気に春へ急いでいる。さて、話は秋に戻る。

柿の話をしたい。柿の二大品種は「富有(ふゆう)」と「平核無(ひらたねなし)」。

「富有」は「甘柿」だがタネがある。「平核無」はタネがなく食べやすいが「渋柿」である。

私は人生で一度だけ「渋柿」を食べたことがある。新潟でおばあさんにもてなされたのだが、それが「渋柿」だった。

たぶん悪意はないと思うのだが…(笑)、口中に一斉に虫が湧いたような気持ち悪さで、何度口を漱いでも治らなかった。

で、「渋柿」というのはずっと「渋柿」なのかと思っていたら、そうではなく、ほうっておけば自然と甘くなるそうだ。ただ、かなりの日数がかかる。

で、人間…というか日本人は人工的に「渋を抜く」ことを考え出した。

柿から「渋を抜く」為に「窒息」させるのである。柿も酸素を吸い二酸化炭素を吐いているので、お湯につけて置くと呼吸が出来なくなり、甘くなるらしい。

二酸化炭素を充満させた袋に入れておく方法もいい方法らしい。

ただ、「渋を抜く」というのは本当に渋を柿から追い出すわけではなく「不溶性」にするらしい。柿の実にある黒い粒は「渋」が「不溶化」したものだそうで、「不溶性」になれば舌に溶けないので渋みを感じなくなるのだそうだ。

「渋み」を構成しているのは「タンニン」という物質で、柿の実にある黒い斑点は「タンニン」が不溶化したもの、そしてそれを不溶化させる物質が「アセトアルデヒド」。

この「アセトアルデヒド」は人間が酒を飲んだ時にも生まれる物質で、人間の血中に「アセトアルデヒド」が増えると、顔が赤くなったり、心拍数が増えたり、吐き気がしたり、二日酔いの状態を引き起こす。

渋柿に焼酎を付け、袋に詰めておくと、より「アセトアルデヒド」が多く発生するらしい。

窒息させたり酔わせたりして「渋」を抜いて甘柿にしているわけで、なんか、残酷な感じがするが、人間はあらゆる残酷なことをして食べているわけだ。


https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht1025106010 【駅路と伝路】より

 中央集権国家体制をとる律令国家は、中央と地方を緊密に連絡する必要があったので、通信と交通の制度を定め、官道を整備した。官道には、最近の研究では、①駅路、②伝馬路、③伝路の三種類があったとされている35。駅路は、駅制に対応するもので、中央と地方の間の情報伝達のために設けられた緊急通信制度である。駅路に沿って、おおよそ三〇里(約一六キロメートル)ごとに駅家を配置するが、駅馬の数は、大路二〇匹、中路一〇匹、小路五匹ずつと定められていた。

図8 古代の官道概念図

 駅には、労働力の供給源として駅戸が、財源になる生産地として駅田が配属されており、駅戸の中から駅長を選出した。情報伝達の方法としては、特定の使者が目的地まで赴く専使方式と、文書などを駅ごとないし国ごとにリレーで送っていく逓送使方式とがあった。駅制を利用するには、駅鈴が必要であった。駅路は、平野部では、可能なかぎり直線的に設定され、幅は、約九~一二メートルあった。

 伝馬路は、伝馬制に対応するもので、史料用語ではない。伝馬制は、中央から地方へ派遣される使者を送迎する制度で、律令法では、郡ごとに五匹ずつ設置された。伝馬利用の使者は、郡家で、休息、宿泊、食料の供給を受ける。伝馬を利用するには、伝符が必要であった。伝馬を利用できるのは、当初は、各種任務を帯びた中央派遣の使者に限られていたが、平安時代には、ほぼ新任の司赴任専用の交通制度に変質していく。伝馬路は、幅約六メートルで、直線的な場合もあったと考えられる。

 伝路は、伝制に対応するもので、これも史料用語ではない。伝制は、伝馬をも含んだ、郡家がもつ多様な交通機能を総称したもので、たとえば、供給(休息・宿泊や食料の提供など)、文書逓送(リレー方式による文書転送)、運搬具(馬、船、車など)の提供などが挙げられる。これらは、律令国家が成立する以前から、地方豪族たちが有していたもので、その時々の状況に応じて、倭王権の利用に提供していた。伝路は、幅約六メートルで、直線的な場合もあったと考えられる。

 ところで、平安時代の初め頃に、交通制度と道路の大改革があった。すなわち、いったん伝馬を廃止し、その後、主として、駅路沿いの郡にのみ伝馬が再設置された。したがって、駅路と伝馬路が一本化され、場合によっては、維持しやすいそれまでの伝馬路のルートが新しい駅路のルートになることもあったと考えられる。ルートが変わらなくても、駅路の輻は、伝馬路なみの六メートル程度に縮小された。

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