彼岸花によせて

https://hibayama200899.blog.fc2.com/blog-entry-202.html 【彼岸花によせて】より

彼岸花(Lycoris radiata) は、曼珠沙華(マンジュシャゲ)の別名でも呼ばれる秋を代表する花で、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草で、有史以前に帰化した、中国大陸原産の有毒植物ということです。ところで、彼岸とは、いったい何でしょう?

「彼岸」の意味を調べると、サンスクリット語のPāramitā:パーラミター(波羅蜜多・波羅蜜)に由来し、pāram(彼岸)+ita(到る)で、「到彼岸」が語源とされます。

現実世界は、さまざまな苦しみや煩悩、迷いに溢れています。私たちが生きる世界を、川のこちら側の「此岸」、平安な極楽浄土を川の向こうの「彼岸」といい、彼岸へ渡る修行も意味する言葉といわれます。

日願という説

春分と秋分を中日として前後3日を合わせた7日間を彼岸とするのは、日本独自の風習ということで、民俗学の五来重(ごらいしげる:1908 - 1993:大谷大学名誉教授)は、元は日本古来の土俗的な太陽信仰や祖霊信仰が起源で、彼岸という言葉は、豊作を太陽に祈願する太陽信仰の「日願(ひがん)」が、仏教の「彼岸(ひがん)」と、後から結びついた・・・という説をとなえられます。

『日本後紀』延暦25年(806)2月条に、「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間、金剛般若波羅蜜多経を、崇道天皇(早良親王)のために転読させた」とあり、日本で初めて彼岸会が行われたのは、怨念を鎮めるためだったということです。  (wikipedia参照)

般若心経(般若波羅蜜多心経)

「般若心経」には、般若波羅蜜多という言葉が繰り返し出て来ます。

「般若」は、智慧を意味するpaññā(パンニャー)が語源で、般若波羅蜜多心経とは、彼岸に渡るための智慧のお経ということになります。

七つの門

『沈黙の声』(昭和30年3月1日初版発行)という本があります。別名、「金箴の書」といわれます。

H・P・ブラバツキー夫人がチベットで発見した「金箴」は、仏陀の最初の弟子で、チベットに移住した聖者たちによって記されたものが一番多いといわれ、九十篇からなり、薄い楕円形の石板に刻まれ、大乗学派の中心に保存されていたとあります。

ブラバツキー夫人が、石板の内容を秩序立てて英文に抄訳した「金箴の書」を、三浦先生が初邦訳されたこの書は、絶賛荘厳、崇高な倫理、正思正念の聖典であり、低級神秘力の危険が教えられます。

六徳(及び十徳)の修行を終えて涅槃に入る彼岸(波羅蜜多)について、この本では、岸を渡る前に、七つの門をくぐるという内容が記されます。

そして、七門を通過するには、栄光ある「七つの美徳の鍵」が必要とされます。

惨忍老獪なる鬼が堅守する七つの門。鬼とは汝の悪欲そのものの権化とあります。

鍵をまわすには相当な健闘努力が必要で、大変な道のりが伝えられていて、筆者では説明はかないませんが、鍵となる専門用語だけでも、心の世界を考えるお役に立てるかもしれません。

第1の鍵.ダーナ  第2の鍵.シーラ  第3の鍵.クシャンティ 第4の鍵.ヴィラーガ

第5の鍵. ヴィリヤ  第6の鍵.ディヤーナ   第7の鍵.プラジナ    

『沈黙の声』で興味深いのは、二つの道があり、四つの門、または七つの門を開き、前者は解脱の目的を速やかに達し、人類を助けようとされないで先を行かれるプラチェカ仏の道。

第二の道は、苦しんでいる人類救済のために、涅槃の至福を放棄されて彼岸から帰られる菩薩さまで、「人のために我はこの大なる褒賞を与う」と、偉大なる放棄をされたと申します。救世主は彼なりとあります。

遙か彼方の極楽浄土に思いを馳せ、亡き母が辿っているであろう黄泉路を思いながら般若心経をおとなえしていると、彼岸花は、浄土への道を照らすかがり火のようにも思えたりする今日この頃です。


https://note.com/devaagni2000/n/na9f1a82ade7e 【曼珠沙華の花咲く時】より

季節は秋彼岸の7日間を迎え、外の景色はすっかり秋の光に輝いている。

お彼岸と言えば「彼岸花」。気温20~25℃で開花時期を迎える。日陰は開花が早く、日当たりのいい所は遅くなるのはそのためだ。

先日の雨の朝、早速市内の植物園に出かけてみた。最近は異常気象のために、桜や薔薇の開花時期が随分と早まっているが、彼岸花は今年も正確にこの時期に合わせて開花した。どうやらそこには他の種とは異なった秘密がありそうだ。

 日本では別名として「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」。サンスクリット語で「紅色の花」「天界に咲く花」「見る者の心を柔軟にする」という意味がある。

他には仏具の天蓋に似ていることから「天蓋花(テンガイバナ)」。学名の「Lycoris radiata(リコリス・ラジアータ)」から「リコリス」。その他には別名が1000以上もあるという。

また「彼岸=あの世」という意味合いから、不吉な印象の別名が多い。

死人花(シビトバナ)、地獄花(ジゴクバナ)、幽霊花(ユウレイバナ)、剃刀花(カミソリバナ)、狐花(キツネバナ)、捨子花(ステゴバナ)、毒花(ドクバナ)、雷花(カミナリバナ)、痺れ花(シビレバナ)、葉見ず花見ず(ハミズハナミズ)。(じゃらんネット参照)

これは墓地で見かけることも多いからだが、しかし墓地や田畑に植えるのは、花全体に含まれている毒性物質によってモグラや害虫を排除するためであり、死や不幸と関連付ける意味合いはなく、単なる迷信にすぎない。

 実際に墓場という場所はイメージとは裏腹に、決してネガティブなものばかりではない。心地よい場所もある。

若い頃、週に一回、霊園管理のアルバイトをしていたことがある。神奈川県内のあるお寺さんの墓地だったが、寺とは離れた辺鄙な場所にあったために、住職に代わって園内の掃除や、参拝客への対応などを一日中ずっと一人きりでやっていた。墓の数は700基以上ある大規模な霊園だった。お彼岸には勿論曼珠沙華が咲いた。

始めた頃は、家に入る前に塩をかけたりしていたが、霊的な現象は皆無であり、清める必要などまったくないと知ってからは、むしろ世間から隔絶されたその静穏の中で寛げるようになった。

秋には落ち葉を集めて焚火しながら瞑想したり、サツマイモを焼いて食べたりした。雨の日は朝から夕方まで誰一人として来なかったので、管理室に籠もり、読書や瞑想、ストレッチ、昼寝に没頭した。

以来、曼珠沙華は親しみを感じる花となった。

 秋分と春分の日は、言わずと知れた年に二回昼と夜が中庸となる日。地上の陰陽のエネルギーバランスが取れる日であり、それはまた此岸と彼岸の橋渡しを意味するものとなる。

釈迦は「彼岸に渡れ」と説いた。

彼岸とは本来、欲や煩悩から解放された悟りの境地を指し示す言葉であり、彼岸を「死後の極楽浄土」と結びつけて捉えるのは日本だけの風習。

「般若波羅蜜多心経」とは

般若…梵語では「プラジュニャー」=「智慧」

波羅…「パーラ」=「彼岸」=「悟りの境地」

蜜多…「ミター」=「渡る」

心経…重要な経典

「智慧を持って悟りの境地に渡ることを説いた経典」を意味しています。般若心経で説く「彼岸」とは「悟りの境地」のことなのです。

 高野山真言宗やすらか庵 

 遠い過去において、この秋分春分の日前後に、此岸から彼岸に到達するための仏道修行が行われていた時代があった。この数日間は真西に太陽が沈む日。極楽浄土が西方にあると考えられ、西に沈む太陽に祈りを捧げた。

この思想はやがて日本古来の自然観や、先祖崇拝の風習と結びつき、日本独自のお彼岸の思想へと発展していくことになる。この思想が定着したのは飛鳥時代まで遡る。平安時代に朝廷の年中行事となり、現在のような墓参りや法要の習慣が始まったは江戸時代中期になっていからとのことだ。

曼珠沙華は白い天界の伝説の花からいつしか赤い花に

「法華経」の序品第一に「曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼珠沙華 摩訶曼珠沙華 而散仏上」とあります。

「摩訶」は「大きいこと」を意味しているので、「お釈迦さまが説法中に、曼陀羅華と大きな曼陀羅華、曼珠沙華と大きな曼珠沙華が、天から頭上に降り注いだ」ということを意味しています。

この中の「曼陀羅華」も「曼珠沙華」も伝説の天界の花で、曼陀羅華は美妙な花色の薫り高い花で、見る人に喜びを与えてくれ、曼珠沙華は柔らかな花びらの純白の花で、見たものの悪行を払ってくれるとされています。

曼陀羅華も、曼珠沙華も、仏教発祥の地であるインドでは、白を基調とした花とされていましたが、「manjusaka」が「赤い」を意味することもあってか、中国に伝わってから曼珠沙華は赤い花とされるようになったようです。

大小の曼陀羅華・曼珠沙華なので、四種類の蓮華として「四華(しけ)」と呼んで、慶事の前兆として天から降ってくる華とされています。

そこから転じて、曼陀羅華は白い蓮、曼珠沙華は赤い蓮とされていることもあります。

本来は、曼珠沙華も曼陀羅華も天界の伝説の花の名前ですが、曼珠沙華は彼岸花の別名として、赤い繊細な花びらの美しい秋の花をさし、曼陀羅華は朝鮮朝顔の別名として、白い大きな朝顔に似た夏の花の名前をさして用いられてきました。

趣味時間

 この2600年で、釈迦が説いた「彼岸に渡れ」の「彼岸」の本来の意味と、今日使われている「お彼岸」とは、随分とかけ離れたものになってしまったようだ。

しかし、こうして改めて見つめてみると、本来の意味は決して色褪せないどころか、逆にその輝きが2600年の時を経て、今この時代に蘇るような思いがしてくる。今日、物や財を重んじる「地の時代」が終わり、知性や意識、情報などを重んじる「風の時代」となったことが、最近よりリアルなことのように感じられるからだ。

彼岸の日は、昼と夜の時間が同じとなる。陰陽のバランスの取れた状態を釈迦は中道と説き、孔子は中庸と説いた。そのことが彼岸に渡るための秘訣であり、彼岸の日とはその象徴的なものとなる。

実際にこの日は、最も覚醒しやすいという話を以前インドにいた時に人から教わったことがある。釈迦が存命していた時代は人々がもっとシンプルに生きていたために、覚醒する人がとても頻繁に現れたようだ。もしかしたらこの昼夜のバランスがとれたこの数日間に多く出現したために、その後注目を集めるようになり、やがて彼岸の日となったのではないだろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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